秋空のごとく・2


 月曜日と火曜日は雨だった。

 でも、水曜日の今日は秋晴れ。明日の木曜日も快晴という予報だ。

 どう考えてもドライブ日和で、おそらく持て余すだろう明日の休みを考えると、気分がどんよりとしてしまう。


 もしかしたら、電話がくるのでは?


 期待していたわけではないが、渡場からその後、何の連絡もないと、妙に拍子抜けしてしまう。

 もしかしたら、伝言が伝わっていない? 

 そう思って、何度か電話しようと思ったが、押しとどまった。

 電話してしまったら、また押し切られるに違いないのだ。


 ディベートという言葉を最近知った。

 おそらく渡場は、そういうことが得意なんだろう。

 杉浦との会話を思い出すと、そう思えてくる。

 どう考えても杉浦のいうことのほうが正論であっても、渡場にかかればつまらない意見にされてしまう。


 結婚した男は、妻子に対する責任を持つ。


 そんな当然なことでさえ、くだらない足枷のような意見に変わってしまうのだ。


 だから……。


 毅然としているように見えて、実は毅然としていないらしい私は、渡場と話をしないほうがいいに決まっている。



「白井さん、お客様だけど」


 突然の呼び出しに、ドキッとした。

 声をかけた同僚の顔が、かすかに微笑んでいる。

『男の人・プライベートなお客』と、はっきり顔に書いていた。

 あぁ、渡場だ。そう思った。

 ここで顔を崩しては、はい、その人は私の彼です……と、言っているようなものだ。顔を引き締める。

 困ったなぁ……という気持ちと、やっぱり……という気持ち。

 揺れる思いに心臓が激しく打った。

 しかし、訪ねてきた人の顔を見たとたん、私は肩の力が抜けてしまった。

 思わず、あぁ何だ……という顔をしてしまったらしい。

 売り場のトルソーの近くでうろうろしていた杉浦は、やや頬を紅潮させて、口元を引きつらせた。


「なんか……来て悪かったようだったね」


 もちろん、杉浦が来たことが面白くなかったわけではない。

 しかし、杉浦にそういわれて、自分がどれだけ渡場の反応を待っていたかに気がついて、私は動揺した。


「え? そんなことないよ。久しぶりに会えてうれしいよ」


 慌てて発した言葉は、少しご機嫌とりのようになってしまった。


 杉浦は、相変わらずの眼鏡をしていたが、服装は少しだけまともになった。

 先日、売り場で買ってくれた三着目のスーツは、今までのオジサンスーツではない。

 さりげなくアニメ・キャラをあしらったネクタイは、いまや杉浦のトレード・マークとなりつつあった。

 彼は、このネクタイを職場の女の子にほめられて、すっかりうれしくなってしまったらしい。新しい柄が出ると、必ずといっていいほど買っていってくれる。

 販売員にあるまじき心配かも知れないが、こんなに買い物をしてお財布の中身は大丈夫なのか? と思ってしまうこともある。

 いくらバブル絶頂で、銀行も景気がよいとはいっても、杉浦の会社は、地方銀行のそれも三番目くらい。いまだ平社員らしい杉浦が、それほど給料をもらっているとは思えない。

 高校時代の知り合いで同じ銀行に勤めている人がいるけれど、スーツもネクタイも、これほど景気よくは買わない。


 ……そうだった。

 その人は、結婚して子供もいるんだった。

 自分にかけるお金は、それほどないのだ。


 杉浦は、家族にかける金は要らない。

 結婚していないから、子供もいない。妻もいない。

 田舎に住む親には、お小遣い程度を仕送りをしているらしいが、お金の心配とは無縁なのだ。

 見慣れるとやや愛嬌のある杉浦の顔に、ちょっぴり遊び心のあるネクタイは、今までのレジメンタルよりもよく似合う。


「いや、あのさぁ……今日、遅番?」

「ううん、早番だけど?」


 杉浦は、なにやら鞄をもぞもぞとさせた。何かを出そうとしているらしい。


「実はさぁ……あ、あった。これこれ」


 私は、杉浦が出した紙切れを覗き込んだ。

『ビール飲み放題・二名様まで』期日は今日までである。

 その店はすすきのではなく大通よりにあり、料理も手ごろな値段で、よく祥子とも行く店だ。時々割引券は出すが、飲み放題とは初めてだ。


「職場の組合関係で発行している割引券なんだ。使わないともったいないけれど、誘う人もいないからさぁ……。で、白井さんの職場なら近いから、どうかなぁ? と思って寄ってみた」


 まるですでに飲んだように赤い顔をしている杉浦を見ていると、とてもその言葉は信じがたい。

 明らかに私と食事がしたくて、勇気を絞ってきたような感じだ。


「うーん……。ちょっと。だって、早番といっても一時間あるから待たせるしね」


 やんわりと断るつもりだった。


「いや、あの、僕も買わなきゃいけない本があるから、本屋によるからちょうどいいや。それにさぁ、ビール好きでしょ? 券もったいないし、一人じゃつまらないし……。もう、誘う人もいないから、だから誘ったんだけど……まぁ、ここから近いし……」


 女性を誘うのに慣れないのか、杉浦は必死に食い下がった。

 できるだけ自然にしようとする分、余計にぎこちない。しかも、必死さが悲壮感すら漂わせる。


「いや、白井さんだって一人暮らしなんだから、夕食はこれから作るんでしょ? おごるからさ」


「そりゃそうだけど。今日は……」


「あ、そうか! 先約があるんだ!」


 杉浦は、突然大きな声を上げた。

 私は、頭に血が上ってしまった。職場の同僚が、興味深げにこちらを見ている。


「いいよ、いいよ、どうせ僕なんか、一人で食事をしたっていいんだ。白井さんには、ちゃんと夕食に誘う人がいるだろうって、わかってはいたんだ」


「そんな人、いるわけないでしょう!」


 つい、びっくりして否定してしまった。


 渡場は、今日は現れない。

 明日のデートはありえない。

 もう、渡場と会うことはない。


 私が杉浦で嫌いなところがあるとしたら、このイジケ根性かもしれない。渡場の自信過剰に慣れてしまった分、めまいがした。

 しかし、ここで否定しないと、まるで自分が渡場を待ち焦がれていることを認めてしまいそうで、怖くなってしまった。


「終わるのは六時半だよ。それでもいいなら、ビールぐらいおごって!」


 あぁ、バカだ……と思いつつ、明るくはっきりといいのけてしまった。

 杉浦の顔が、かわいいぐらいにうれしそうになる。

 その表情に、おもいっきり罪悪感を感じている自分がいる。


「じゃあ、あとで。地下の本屋の前で」


 足取りも軽く去ってゆく杉浦の様子を、じっとりと見送ってげんなりする。

 しかし、杉浦の姿が見えなくなったとたん、妙に開き直ってしまった。


 なぜ、悪いなんて思うの?

 確かに杉浦に恋心なんて抱いていないけれど、渡場なんかと付き合うよりも、百倍は誠実じゃない?


 彼も結婚したい。私も結婚したい。


 食事して気が合うかもしれないじゃない?

 何も知らない人とお見合いするよりも、ずっと健全じゃない?

 生真面目な銀行員。けして悪い相手ではない。


 渡場が悪い。

 デートを断られて何も言ってこないなんて、渡場が悪い。

 いや、そうではなく……結婚しているのに、誘ってくるのが悪い。

 そんないい加減な渡場を待つよりは、杉浦と食事したほうが、よりまともなのだ。


 私は何度も自分に言い聞かせて、罪悪感を押し隠した。

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