賭け事・3
競馬場の駐車場はどこも満車状態で、線路脇の普段は駐車場でもなんでもないところしか空いていない。
砂利がゴロゴロしていて、ただ止めるだけの場所なのに『一日千円』とは、足元を見ている。私は顔をしかめたが、場渡はまったく気にしていない。
「だから、交通機関を利用したほうがいいのよ。無料バスも駅から出ているし……」
ブツブツいう私を無視して、場渡はふっと道沿いの商店街に目を向けた。そしていきなり店の中に入っていってしまった。
慌てて後を追いかけようとした時には、もう両手にソフトクリームを持って出てきた。
「車でくるとソフトも食べられるでしょ?」
確かにそうかもしれない。
食べ物につられるとは悔しいが、にこにこ上機嫌でソフトを受け取った。
それから競馬場に入るまでの間、ソフトが融けださないように必死で食べつづけ、口を開く間もなかった。
あとから気がついたのだが、渡場はブツブツ文句を言われるのが好きではないらしい。
好きな人などいないかもしれないけれど、少なくても今まで付き合ってきた人は、女の文句は冗談程度に受けとっていたような気がする。
冷たいアイスは、私の舌に絡みつくように濃厚な味だった。
パリパリと最後まで食べる私の横で、場渡は「コーンがまずい」といって、食べかけのソフトを競馬場の入り口のゴミ箱に捨ててしまった。
競馬場という場所は実に広い。
さすがに平日とあって家族連れは少なく、さらに地方競馬とあって施設の使用が制限されている。それでもはぐれてしまうと、見つけられない危険性がある。
つい、腕を組んでしまったのは、迷子になりたくなかったからだ。
本当は、気がつかないうちにそうなっていた。
レースには興奮してしまった。
なんていったって、生で見る馬には興奮する。
ぶひぶび……と聞こえてくる鼻の音がかわいい。それと、驚くほど大きく聞こえる蹄の音。心臓の鼓動と共鳴して、いやがうえにも気持ちが高揚してくる。
私の馬券はあたり・はずれを繰り返し、私の心の中から、すっかり渡場の横という違和感を払拭してしまった。
彼もカッコつけの激しい気取り屋な男……というイメージを破るような行為を繰り返していたからかもしれない。
道端で競馬新聞と赤ペンを買い、季節労働者のようなおじさんたちと同様、コンクリートの階段に座り、新聞を読んでいる。赤ペンは耳に掛けられていた。
意外な姿に当惑しながらも、私は渡場が買ってくれた新聞に目を通していたが、見方がわからないのですぐにあきてしまった。
「ねぇ、パドックを見に行かない?」
「ああ、いいよ」
あっけなく簡単に返事が返ってくる。
渡場は、完全にデータ派らしい。馬をほとんど見ない。
しかも、家でチェックをしていないところを見ると、今日は真剣でもないらしい。
そのせいか、馬券をことごとく外している。
私は……といえば、このパドックを見て決めている。
馬を見る目なんてない。ただ、直感で選ぶのだ。
歩き方とか、筋肉の動き方、汗のかき方、引いている厩務員さんの表情……。
ちょっと首を巻き込んで、ぶひひ……と言っているくらいの馬が好き。
栗毛が好きで、尾が少し白く色が抜けていたら、それだけで好きだ。
そんな感じだから、わたしの馬券はめったに当たらない。
だから……今日はついていた。
ゴール付近で興奮して、何度渡場を叩いてしまったことか……。
「よし、これで勝負だな」
渡場はメインレースに賭けたようだ。
まったく人気がない馬だ。
「でも、見てごらん。このタイム。実績がないけれど、力はある。当たれば万馬券だ」
そう言うと、場渡はにやっと笑った。
出走は八頭。メインレースにしては寂しい頭数だ。
前回、特別レースを勝ち上がった青馬が、調子を買われての一番人気。
僅差で、鹿毛の実力馬が、実績を買われての二番人気。
やや離れた三番人気は、栗毛の牝馬。そこそこの力があるわりに負担重量が軽い。
渡場が選んだ葦毛馬は、恐ろしいことに下から一番人気だった。
私は栗毛の複勝を千円買った。安全馬券もいいところである。
ちらりと横を見ると、場渡が財布から万札を出しているのが見えた。
一枚、二枚、三枚……。三万円?
競馬をやる人には、それほどの賭け金ではないのだろう。しかし、私は千円以上を一レースに賭けたことはない。
だから、緊張した。しかも、渡場は万馬券狙いなのだ。
万が一当たれば……。
もう計算ができない。
私は複勝馬券を握りしめ、ドキドキしながらゴール近くで柵にしがみついていた。
栗毛の牝馬が二着以内に入れば、この馬券は千五百円ほどに化け、私はうれしい気持ちになれる。
渡場の葦毛がきたら……。一気に何百万の世界だ。
しかし、渡場は平然としていた。
私の横に無理矢理割り込んだオバサンにすんなり場所を譲り、追い出されて私の背後に立っている。
私は背が低いから、それでもいいのだと思うけれど……。
ファンファーレがなる。
スターターが旗を振る。
馬は、一頭だけゲートインを嫌がったが、たいした問題も無く、きれいにスタートした。
小さな競馬場である。
レースは、ゴール前を通過し一周する。
目の前を走り去る時、大地が揺れるのにあわせて心臓も高鳴る。
現在のところ、トップは逃げ馬であるあの葦毛だ。向正面で三馬身差をつけている。
「あの葦毛に絡んで白井さんが買った栗毛が入ったら……」
「万馬券?」
「たぶん、でも、二番人気の鹿毛とでも万馬券になると思う」
渡場の馬券はこの二点。
手元の馬券をちらりと覗くと、二行の印字が見えた。
一番人気の青馬は、先行して差すタイプの馬だ。いい位置につけている。
二番人気は追い込み馬で後ろから行く。この小さな競馬場では、直線が短いのでやや不利である。
私の栗毛もいい位置につけている。最後の勝負になるだろう。
が……。
4コーナー回ったところでややざわめきが起きる。
逃げている葦毛の足色がいいのだ。直線に向かったところで、後続との差は三馬身を保っている。しかも一番人気の馬が後方から三番目。カーブで外に持ち出したが、はたして届くのか? 二番人気もまだ後方だ。
もしかしたら?
私は興奮して身を乗り出した。
誰もが身を乗り出し、前が見えない。
どわ……と沸き立つ音は、馬の蹄か? 人のどよめきか?
一番人気は、完全に馬群に沈んだ。
栗毛が鋭く伸びてきて二番手まできた。
葦毛はまだトップをキープ。ゴールはもう少しだ。
「きゃー! そのまま、そのままよ!」
他の人の罵声を無視して、私は悲鳴をあげた。
世界は真っ白になった。
何が起きたのかわからない。何が着たのかわからない。
確かに、百メートル前までは、葦毛が先頭だったのだ。
しかし、身を乗り出す人々の頭の影で、私の視界は狭まって、風と蹄の音だけしかわからなくなった。
ただ、目の前を通り過ぎた影は、白くも赤くもなく、茶色だった。
一着の表示は……二番人気の鹿毛だった。
ゴール寸前、直線で追い込んできて、一馬身差の圧勝だった。
二着は、写真判定となった。
栗毛か? 葦毛か?
私の馬券は栗毛である。
複勝だから、二着でも当たりとなる。
しかし、渡場の万馬券を考えると、ここは葦毛が残っていたほうがいいのだ。
お願い……。
私は、いざという時だけの神頼みで手を合わせて祈った。
「おめでとう。当たったよ、きっと」
耳元で声がした。
気がつくと、柵に渡場の手があった。
興奮して気がつかなかったが、渡場は私を包み込むようにして、両手を柵にかけていた。
まるで背後から抱くように……。
私の背中は、渡場にぴったりとついていた。
見あげると、近くに渡場の顔がある。彼は掲示板を見ながら、やや微笑んでいた。
「写真判定するほどでもない。あれは、差しきっているよ。鼻差でね」
場渡がそう言ったとたん、掲示板に表示が出た。
再びのざわめきとどよめき。安堵感のため息。
私の栗毛が差しきって、渡場の葦毛は破れ、万馬券の夢は消え去った。
「当たったんでしょ? うれしくないの?」
「うれしいけれど……」
私は万馬券の夢を捨てきれないでいる。
ほんの鼻差で、夢は消え去った。
夢破れて、ぞろぞろとゴール前を去る人の波に飲まれ、つられて小走りで歩きながら、渡場の速度についてゆく。
「それはそうと、渡場さんだって悔しくないの? だってもう少しで……」
そう、当たれば百円が二万円近くに化ける大当たりだったのに。
一万円なら二百万になるところだったのに。
彼はちっとも悔しそうじゃない。外れた馬券を惜しむでもなく、ポイと捨て、ポケットから煙草を取り出した。
「所詮は賭け事でしょ? 外れははずれ、最初からあてにしているわけじゃない」
立ち止まって火をつける。
「俺は、白井さんの馬券が当たったほうが、うれしかったけれど」
目が点になる。
結局、私のあたり馬券は千三百円ほどの払い戻しで、つまりは三百円しか儲けていないのだ。
それを、うれしいといわれても……。
「換金して帰る?」
「うん、一応……」
「じゃ、俺もそうするか」
「???」
渡場はつけたばかりの煙草を、一口吸っただけで近くの灰皿に投げ捨てた。
「俺は、別に勝負師なわけじゃない。どちらかというと、手堅いほう」
ポケットから出てくる馬券。
二番人気と三番人気の手堅い馬券、一万円分。払い戻しは四万八千円程度か?
「三万円を払っているから、実質一万八千円程度しか黒にならないけれど、このあと、君を食事に誘えるでしょ?」
キツネにつままれたような顔をしていたかもしれない。
渡場は片えくぼを作ってみせた。
「いいんじゃない? 二人とも当たったんだから」
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