赤い糸・8


 赤い糸などありはしない。

 誰もが運命の人と繋がっている。そんなはずがない。

 このような偶然は、「たまたま」といって、赤い糸でも運命でもない。たぶん。

 でも、あんな醜態をさらしたのが運命というならば、私と渡場は、どす黒い糸で繋がっていたのだ。きっと。


  

 いつもと同じ朝。

 いつものように開店の音楽を聞きながら、前を通る人々に「おはようございます。いらっしゃいませ」と、笑顔でニコニコ挨拶をしている。が……。

 人の顔など目にも入らない。

 私の頭は、渡場のことでいっぱいのままだった。

 いや、動悸は二日酔いのせいだ。

 けして、渡場のことを思っているからじゃない。


「白井さん、音楽終わったわよ?」


 はっと気がつくと、私はにまにましながら、開店挨拶の位置に陣取ったままだった。

 


 昨夜、渡場とはあれっきりだった。

 が、帰りがけにすれ違いざま、「明日」と、小さな声で渡場は囁いた。

 あわてて顔を上げると、渡場はもう既に酔っ払った理子と腕を組んで歩いている。

 何となく絵になる美男・美女ぶりだ。

 あんなことを私の年齢でやったら、単なる酔っ払いのおばさんだろうが、若い理子だと様になる。


「わたしぃ……酔ってなんかいないですぅ……」


 渡場の腕に、ほんのり桃色の美しい頬をする寄せている。

 渡場は拒まない。

 むしろうれしそうに、作り物の白い歯を輝かせて笑っている。


 ……楽しそうじゃないの。

 明日? 明日って何? 私は苦笑した。


 あんなろくでもない男に、何を期待しているのだろう? 期待なんかしていない。

 だが、明日であるはずの今日が終わりに近づくにしたがって、私はなぜか焦り出していた。

 だいたい妻子持ちの男なんか、相手にしている時間はない。

 遊びで恋愛するほど、私は心にゆとりはないし、人の不幸を招くような関係はもうたくさんだ。

 二股かけられて泣いてきたのは私なのだから。


 そう思いつつも、自分にいらいらする。

 明らかに渡場を待っている。

 もう二度と恋をしない……と泣いた夜から、私はいつも惨めだったのだ。

 だから、遊びとはしりつつも確かな恋のかけひきを投げかけてくる渡場の行為に、何かしら慰められているのも事実だった。


 本当に情けないことに……。



 まさに閉店間際になって、渡場は顔を出した。


「やぁ」

「いらっしゃいませ」


 私は接客を装った。その他人行儀な挨拶が、渡場には気になったらしい。


「遅かったから、怒っている?」

「いいえ、別に」

「いや、怒っていると顔に書いてある。ごめん」


 そのような顔をしているわけはないだろう? 向こうは一応お客様なのだから。

 渡場は何気に売場を見渡していた。

 閉店間際で暇な販売員が、ちらりちらりとこちらをうかがっている。どうも同僚の視線が気になる。


「じゃあ、これください」


 突然、渡場がジャケットを指差した。私は目を丸くした。

 それは、この間彼がふざけて試着したジャケットで、かなりの値段がする。しかも、たしかに似合ってはいたが、いかにも彼の趣味とは程遠いし、サイズが大きすぎる。買っても着ないことは目に見えている。


「いや、でも……それは……」


 私はプロであるまじき動揺をした。正直、そのような品を売るわけにはいかない。


「ふーん、じゃあこれ」


 渡場は別のものを指差す。どう見ても巨大なスーツだ。

 私が販売員面する限り、渡場は何かを買ってしまいそうだ。あわてて、サイズが合わないと説明する。

 販売員がお客様に商品をあきらめるよう説得するヘンな接客が続いた。


「君に許してもらいたいんだよ。じゃあ、外で待っている。何時ごろ出てくるの?」


 閉店の音楽が鳴り始めた頃、やっとシャツを一枚買って、渡場が言った。


「今日は遅いの。残業になるかもしれない」

「いいよ、何時間でも待つから」

「でも……私、昨夜もだから疲れているし……」

「疲れているなら送っていくよ」


 残業は嘘だった。

 渡場はそれを見抜いたのか、ああいえばこういうで、ついに私は根負けした。

 包装して手渡したシャツを受け取りながら、ニコニコ微笑んでいる。


「ありがとうございました」


 私は大きな声で言った。


「またどうぞお越しくださいませ!」


 渡場を追い返すように下りエスカレーターに乗せると、妙に身体から力が抜けた。

 ぐったりである。


 渡場と遊ぶつもりなんて、サラサラなかった。

 なのに気がついたら、帰りに送ってもらうことになっている。


 やられた……。

 すっかりヤツのペースにはめられていた。

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