赤い糸・7


 歌が終わると、渡場は自分の席に戻らずに私の横に再び座った。


「ごめん。リクエスト断ったから、怒った?」


 言葉とはうらはらに、ニコニコの笑顔だ。


「いいえ、別に」


 怒っているとしたら、この間の意味のわからない言葉のほうだ。それを知ってか知らないのか、渡場はさらに笑顔であやまった。

 気がつくと、杉浦が目の前をちらちらしたあと、先ほどまで渡場が座っていたところに座っている。

 どうやら、私と渡場の間に「遠慮しろ」という空気が流れていたらしい。

 向こうは向こうで盛り上がっていることを、背中で確認したらしく、渡場はすこしだけ私のほうに体を寄せてきた。

 大音響の中でも話がよく通じるほどに。


「俺は最近、人生で最悪の失恋をした」


 せつなそうに話すわりに、目がいたずらっぽく笑っている。


「失恋って……。だって、渡場さんは結婚しているじゃない」


「結婚していたって、恋はするでしょう?」


 ……つまり、不倫?

 ってことか……。


「不倫? とんでもない。俺は人生を掛けて精神誠意彼女を愛していたのに、あれは浮気して出て行った。とんだ間抜けだった。俺は彼女のデート旅行のために、空港までの送り迎えをさせられていたんだから」


「……でも……奥さんがいるでしょう?」


「結婚していたって、愛しているのは彼女だったし、三年間一緒に住んでいた。妻とはまともに暮らしたのは二年間だから……」


「ふざけないで!」


 酒の勢いもあって、私は完全に切れてしまった。

 回りに声が響かなかったのは、高井がかなりハードな曲を歌っていたからだ。

 私の声は、ドラムの音にかき消された。


「ふざけていないよ。ふざけているのは彼女のほうだ。まるで俺を救い出してくれるような顔をして、とんでもない悪女だった。もう、あきらめはついたけれど、彼女の持ち歌は聞きたくはない」

 

 冗談じゃない!


 私が求めて、求めていたものを、コイツはクズとして扱ってしまう。

 結婚したらすべてが幸せと思い込んでいた私に、彼は結婚という事実をまったく無視した生き方をさらして、愚弄するのだ。

 同棲していた女は、限りなく正しい。

 こんな男に見切りをつけて、別な男に走ったのだから。

 それを誠心誠意愛していただなんて。彼の誠意は、まったく感じられない。


 妻に対する誠意はどこにあるんだ!

 誓いの言葉はどうしたんだ!

 結婚を軽んじないでよ、バカにしないでよ!

 私は……それがほしいのだから。

 どこまでも一人じゃない、誰かと繋がっている確信がほしいのだから。


「白井さんにそこまで怒られると……俺も堪えるなぁ……」


 酒の勢いもあって、かんかんに怒っている私に、渡場の笑顔は少し卑怯だった。

 煙草を嫌がるしぐさをしたら、彼はふふんと鼻で笑い、そそくさと灰皿に煙草を押し消して話を続けた。


「君だって、失恋したばかりなんだろ? 歌のリクエストには応えられないけれど、心の傷は癒しあえると思うけど」


 何でコイツが、私の失恋を知っているんだ? 思わず目が点になる。

 渡場は、くくくと笑い出す。


「中央開催は終わったけれど、道営競馬ならつきあえるよ。平日も開催しているしね。都合はどう?」


「な、何で競馬なの?」


「だって、君は馬が好きだろう?」


 思わず口が開いてしまった。



 そこで、二人の世界は途切れた。

 美弥の声が響いてきた。


「渡場さん、マイク、マイク!」


 渡場は立ち上がって、にっこり笑いながらマイクを受け取る。

 ステージに向かって歩きながら、渡場は歌い始めていた。相変わらず、歌詞を見ない。

 みんながどよめき、声をあげる。

 英語の歌だった。

 でも、よく聞く歌だ。

 そう、コーヒーのコマーシャルに使われている。


『優しく歌って』


 確か、そんな感じの曲のタイトル。


「え?」


 思わず場違いな声が出てしまった。


 あの日、あの時……。


 工藤の妻を見た、あの屈辱の宴会の二次会だ。


 ——柔らかく殺す——ちがうよ。うっとりさせるって意味……。

 もう、誰が誰なのかわかんなーーーい。


「君は競馬が好きなの?」


 死んだ馬の話と自分の挫折を重ねて泣きまくり、確か、誰かに絡んでいたのだ。知らない誰かに……。

 隣に座った男は、甘くいい声で歌がうまく、私の名前をなぜか知っていて……まさか!

 酔っ払って忘れ去った記憶が、かすかによみがえってくる。

 でも、記憶を失っていたのは私だけで、渡場はしっかりおぼえていたのだ。

 顔が思いっきり熱くなった。

 誰もが、渡場の歌をうっとり聞いている。

 でも、私はうっとりとではなく、目を点にしたまま、口を開けたまま、呆然とするしかなかった。

 渡場は、歌いながら私に視線を投げかけ、一度だけウィンクした。

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