4:Evgeni

 大げさに溜息を吐きながらオレは短剣を鞘に収める。ナターシャが小さくかぶりを振った。

 ヴァレンティンは唯静かに見つめている。ユーリィも狭い洞窟では邪魔なだけの大木槌を地面に下ろす。

 オレは立ち上がりながら腰の後ろに固定した鞘から、厚みのある戦闘用のナイフを引き抜いた。


「死にたいのならそれで喉を付けばいい。だけどな、オレはアンタの自殺の手伝いをする気はねぇ」


 見下ろしながらアナスタシアの顔のすぐそばにナイフを放った。乾いた金属音が短く洞窟に反響する。


「う……。ここは……」


 このタイミングでグレゴーリィが目を覚ました。岩棚の上で上体を起こし、意識をハッキリさせようと何度かかぶりを振りながらゆっくりと立ち上がる。

 チッ、最悪のタイミングだ。


「アナスタシア?」


 グレゴーリィの目が周囲を見回し、そして虹色に輝く大蛇と化した彼女の下半身で静止した。まぁ、突然こんな光景を見て驚くなってのも無理な話だが……。


「ば、化け物」

「永遠を誓った恋人でさえ、わたしの正体を見れば化け物というのです……。わたしはもう……。生きることに疲れた……」


 微苦笑。人は、泣くことさえできなくなれば、笑うことしかできなくなるのだろうか?

 だとしたらそれは神の慈悲じひか?

 だとしても……、そうだとしても、オレにそんな神は要らない。涙を流すのは、恥なんかじゃねぇ。

 泣きたい時に泣けねぇのは、そんなの慈悲じゃねぇ。懲罰ばつでしかねぇ! そうだろうが!

   

 アナスタシアはゆっくりと、それはゆっくりとナイフを拾い上げた。深く呼吸する程度の時間さえ、経っていないだろう。

 だが、それは恐ろしくゆっくりとした動きだった。少なくとも、オレの主観では。

 持ち上げたナイフを喉元に向ける、緩慢な動作。だが、誰も動けなかった。

 呪縛されたように、凍り付くオレたちの前で、光の精霊の青白い光に鈍い刃の光は亀よりも、カタツムリよりも遅く、ゆっくりと、静かに。だが、確実にアナスタシアの喉に向かって進んでゆく。

 深紅の液体が、熱い涙のようにアナスタシアの白い肌を濡らした。

   

 一滴……、二滴……、三滴……。

   

 小さな雫は、やがて小さな流れと成り、白く美しい肌を首飾りのように彩った。視界が霞む、涙が溢れる。押し殺すような嗚咽が、洞窟に小さく響いた。


「なぜ……?」

「言っただろう? 自殺の手助けなんかしないってな」


 焼け付くような痛みが右の掌から腕を経由し、オレの脳味噌を乱打した。白くなるほどに強く握り締められた右手は、すでに筋肉が収縮して出血を止めている。

 ほとんど脊髄反射だけでアナスタシアが握り締めた、ナイフの刃を掴んでいた。オレがユーリィかナターシャなら、こう言っただろう。


『運命が自分の身体を動かした』、『神思う故に事は成されり』と。


「言葉の矢は深く心を傷つけるものです。彼女は苦しんでるんですよ。貴男も捕らえられて恐ろしかったでしょうけど」

「化け物が苦しむなど」


 乾いた音が低く響いた、ナターシャがグレゴーリィの頬を打ったのだろう。静かに嗜めるような声色。だが、怒りを隠そうともしない冷たい声でもある。


「人として生まれてこれなかった責が、彼女にあると思いますか?」

「俺はアナスタシアを信じてた。村に来れないと言うのも、ここでしか会えないのも、わけが在るのだと。だが本当は俺の血を吸い、俺を喰おうとしている、化け物だった」


 吐き棄てるように受け応えるグレゴーリィ。貴様って野郎は!

 オレは右手で掴んだままのナイフを傷が拡がるのを無視して、力任せに引き抜いた。それによって傷が拡がり、新たな血がダガーとアナスタシアと床を濡らす。


「そいつは化け物だ。いくら美人でも」

「黙れ下衆!」


 左手で投じたダガーが唸りを上げてグレゴーリィの耳元を掠め、岩壁に当たって高く跳ね返った。岩棚に向かってずかずかと大股で歩み寄り、血に濡れた右手で顔を掴んで壁に押し付けてやる。

 痛みはまるで感じない、オレを突き動かしているのは怒りだけだ。


「一つ言っておく、これ以上彼女を侮辱してみろ。こんどは唯じゃ済まさねぇ。これは脅しだ」


 恐怖に引きつった視線でグレゴーリィがオレを見返した。オレの右腕は並の男では満足に引く事もできねぇ剛弓を引き絞るためにある。

 万力のように締め上げられたヤツの頭蓋骨の中には骨の軋む素敵な音楽が鳴り響いている事だろう。たっぷり十数秒間。その音楽を満喫させてやってから、オレは解放してやった。


「殺しはしない、オレたちはアンタを助けるために雇われたんだからな。とっとと失せろ!」


 解放された後もへたり込み、立ち上がることもできないグレゴーリィを無視してオレはアナスタシアに向き直った。酷使された右手からは出血が止まらず、抗議するように痛みが全身に鳴り響く。


「飢えて、飢えて死ぬのは辛いのです……。それなら殺して欲しい、ひと思いに死にたいとそう思ってはいけませんか」


 悲しみも、怒りもない虚ろな声。魂から零れ落ちる絶鳴。感情を高ぶらせる事さえできない絶望の声。


「足掻く為の力ならば、オレは惜しみなく力を貸そう。オレの安っぽい血で良ければくれてやる、死なない程度にならな」

「生きとし生ける者すべて神の加護を享けております。生きることはそれ自体に意味のあることです」

「俺たちの言葉に耳を傾けてくれないかな」


 重苦しい沈黙。涙に濡れた琥珀色の瞳が俺達を見つめ返している。


「わたしにも……。わたしにも、神の加護が、生きることの意味があるの……?」

「当たり前だろうが」


 アナスタシアの上体を包むように抱きしめた。甘い香りがした。小さな嗚咽を漏らす彼女の背を擦ってやりながら黙って時が過ぎてゆく。静かに、優しく、ゆっくりと。

   

                        ―END―

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虹色の泪 思井中 @Ataru_Omoi

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