3:Valentin

 先を急ぐアナスタシアの、ほぼ隣を歩いていたエフゲニーは海の主とやらを警戒していた。その真後ろのユーリィは足元に気を配るので手一杯といった様子だ。

 最後尾を歩くナターシャはグレゴーリィという男の遺留品、あるいは遺体を捜すために足元ばかりを見つめていた。

 先頭を歩いていた亜麻色の髪の娘の異変に最初に気付いたのはおそらく私だろう。

 私がその事に気付いたのは、私の観察力が優れていたというよりは、私がこの娘に最初から信用を置いていなかったためだろう。

 私が不審に思ったのは、恋人を探してくれと訴えていた割には妙に落ち着いていた事だ。

 例えば最初に店に現れた晩、夜遅いことも在ったがマスターの進めに嫌にあっさりと応じて宿泊した。

 村娘が冒険者を求めて街に出て来たにしては不自然ではなかろうか。恋人の身を案じて見知らぬ街にまで出向いてきたのだ、一刻も早く出発して欲しいと願う物とばかり思っていた。

 他にも二、三不審な点はあったが、疑惑が確信に変わったのはこの岩場に入った時だ。

 海の主の驚異を強調する反面、この娘は一向に怯えたり警戒したりする様子がない。


「おい、待てよ」


 滑る岩場でも軽少さを失わないエフゲニーがあわてて娘の後に続いた。頑健だが重い鎧に身を包んだユーリィを無視して私が岩場を降り、ナターシャも私の後をついてくる気配がする。

 娘はすでに足首まで海水に浸りながら洞窟の中に入ろうとしているところだった。


「おいおい、俺を置いて行く気かよ」

「早く来なさい、本当に置いて行きますよ」


 まだ上の岩場でまごまごしているユーリィをナターシャが叱咤している。エフゲニーといえば水飛沫を上げながらも、しっかりとした足取りで娘の後を追いかけてゆく。

 私も彼をサポートするために二人を置いて海水の中を進んだ。嫌な予感がする、私の中で恐怖を司る精霊イグニス・ファトゥスと、勇気を司る精霊ゲイレルールがせめぎ合う。

 私が洞窟の中に足を踏み入れた頃になって、ようやくユーリィが岩場から降りてきた。

 すでに先頭を歩く娘は洞窟の暗がりの中に姿をけし、エフゲニーも辛うじてその背中が見える程度だ。

 彼に限って油断をしているという事はないだろうが、若い男だ、美しい娘に油断していないとは言い切れない。私は足を滑らせないように用心しながら、急ぎ足で彼の背を追った。


「ずっと人目を忍んでこそこそと暮らす。その辛さがわかりますか?」

「“ヒト”でない“モノ”の気持ちまでは判らねぇよ」


 娘の言葉に即答したのはエフゲニーだった。どうやら、彼も異変に気付いていたらしい。

 精霊力で気配が感じられる私はともかく、この暗がりでは彼にとって不利である。私は小声で光を司る精霊ツルヴェナ・ズヴェズダを召喚する。


「わたしは何もしていないのに、ただ生きていたいだけなのに」

「人とは弱いものです。自分よりも強いものを、人は無意識の内に恐れるのでしょう」


 光の精霊が照らす青白い光の中で、対話が続く。魂の膿を吐き出すように、娘の口からは次々と言葉があふれ出した。


「わたしは死にたくない、どんなことをしてでも。だから、わたしは何も悪いことなどしていない! こうしなければわたしが殺される! わたしにも生きる権利があるはずっ!!」

「誰に殺されるというのです?」

「人間はわたしたちを殺す!」


 掠れるような低い呟きは、最後には叫びに変わった。琥珀色の瞳に涙さえ浮かべて。彼女の叫び声に引き寄せられるように、ナターシャたちが追いついてきた。

 亜麻色の髪の娘の姿が一瞬砂の城が崩れるようにぼやけ、上半身は元の美しい娘のまま、虹色に輝く大蛇の下半身を持つ魔獣が正体を現した。


「アナスタシアさん?」

「わたしは……」


 再び声が掠れる。悲しみを湛えた双眸がカッと見開かれる。追い詰められた小動物のような瞳。私には恐るべき魔獣というよりも、野犬の群れに怯える兎のように見えた。

 この時初めて、私は彼女を美しいと感じたのかもしれない。羽化したばかりの蝶のような、散る寸前の花のような……。それは、崩れやすく、儚い美しさだった。


「わたしは、生きるために人の血がいる!」


 虹色の大蛇が目前のエフゲニーに躍りかかる。鋭い刃鳴りと共に短剣を鞘走り、真っ向からエフゲニーが向き合った。


「だからグレゴーリィを殺したとでも言うのか!?」


 もつれ合うように狭い洞窟の中で二人が刃を突き込み、鉤爪を振るう。必死で格闘するエフゲニーは、むしろ魔獣を庇うように私たちと魔獣の間に立ちはだかっているようにさえ見える。

 短く、だが熾烈な格闘を繰り返しながら、二人は奥へ奥へと進んでいった。


「若い、人間の男がいますね」


 自然の業か、或いは人工的なものか。洞窟の奥は広いホールのような膨らみを持ち、最奥はまるで祭壇のように一段高くなっており、そこに一人の若い男が眠っていた。

 象牙色の皮鎧をまとったナターシャが格闘する二人の間を擦り抜けるように男――おそらくはグレゴーリィ――に近づき、彼の胸に手を当て、口元に耳を寄せて脈と呼吸を確かめる。

 安心したように肯くと、彼が生きていることを私たちに告げた。

 丁度その時、格闘する二人がもつれ合いながら、濡れた洞窟の床に倒れ込んだ。

 絡み合い、抱き合うように二度三度と体を入れ替えて回転し、最終的にエフゲニーがアナスタシアの腰に馬乗りになる体勢で止まる。

 だが、虹色の大蛇と化した彼女の下半身がエフゲニーに巻き付き、狼のように引き締まった体躯を締め上げる。

 彼女の首筋に短剣を突きつけたエフゲニーと、彼の腰を締めつけるアナスタシア。エフゲニーが短剣を持っていなければ、恋人同士がじゃれ合い抱き合うようにさえ見えるだろう。

 二人は押し黙ったまま、深い藍色の瞳と、蠱惑的な琥珀色の瞳を見つめあい、やがてエフゲニーが静かに口を開いた。


「とりあえず、彼を解放してもらう。話し合いはそれからだ」

「わたくしたちをここに呼びこんだ目的がなんであるにせよ、彼を解放しない限りいかなる交渉にも応じる理由は在りません。わたくしたちはグレゴーリィさんを救出する為に雇われたのですから」


 ナターシャはグレゴーリィを庇うように立ちながら、エフゲニーの言葉に付け足すように続けた。


「オレたちはすでに前金を貰っているんだ。彼を解放する意思がないなら力ずくで奪わせてもらうぞ」

「それこそが……」


 ……女の声が、三度声が掠れた。


「……わたしの望み」


 呟きよりも、囁きよりも小さな声。だが、不思議とその声は私の耳に届いた。今にも泣き出しそうなアナスタシアの瞳が虚ろに光る。


「本当は殺して欲しいんじゃないのか? アンタの実力ならこんな手のこんだマネをしなくても獲物は誘い込めるだろう? 戦闘能力を持ったオレたちを、ここに誘い込んだのは自殺のためかっ!? その男だって、アンタが連れ込んだんだろうがっ!!」


 洞窟の壁を反響させるエフゲニーの叫び。突き放すよりも嗜める声。怒るよりも、憐れむよりも、むしろ哀しむ声。


「本当は、辛いのか? 生きて行く為に命を奪う事が。人を、俺たちを、食料として、ただ子孫を残す為の糧としてのみと考えられたならば悩まずに済んだだろうに」


 ユーリィがため息のように呟いた。


「もう一度、新たな道を選べないものか一緒に考えてみてはどう?」


 ナターシャが諭すように語り掛ける。


「ですが、そうするのは貴女にとっても辛いのでしょう? 気休めなどは言えません、貴女が生きていくのにどれ程の血が必要かなど、私には判りません。ですが、それでも……」


 私は迷いを振り切るために一度目を閉じる。そして、皆の気持ちを代弁するように、語り掛ける。


「自分の意思がそうである限り、その理想に向かって足掻き続けるのが、『生きる』ということなのだと私は思いますよ」


 もはや、この戦いを続ける事に意味はなかった。例え相手が吸血の魔物だとしても、彼女を殺す事は私たちにはできそうもなかった。


「本当に血が欲しいだけなのか? だったらこんなに人間は要らないだろう? そこにいる男が一人いれば十分なんじゃないのか? あんたの魔力ならオレたちを全滅させるぐらい出来るだろう? 血が欲しいだけなら、何でわざわざ、オレたちのような冒険者をここに誘い込むっ!?」


「迷っていました。殺してもらうべきか、魔物として生きるべきか。わたしは……、わたしは死にたくない。けれど、生きていくのは、もう辛いんです」


 琥珀色の瞳から一筋の泪が零れ落ちた。

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