トラウマ

@Kairan

トラウマ

カールが5歳だった頃、パリのディズニーに両親と遊びに行った。


一番思い出に残ったのアトラクションは初めてのジェットコースターだった。遊園地に向かって車で移動している場所からでもジェットコースターが見えて、カールは目を離すことが出来なかった。


カールは親の腰にも届かないぐらい背が低かったが、ギリギリ、何とかジェットコースターに乗せて貰えた。


ワクワクしていられたのはここまでだった。


何故ならジェットコースターでは、上から下に降ろす硬いゴムのようなシートベルトを胸の前に装着するのだが、カールの身長が低かったため、顔の前までしかシートベルトが下がらなかったのだ。父親は前に座っていてカールを見る事は出来なかったし、母親はジェットコースターが嫌いだから別のアトラクションに行っていた。おまけに、係の人はカールが背伸びをしてジェットコースターに座っていた事に気づかず、ジェットコースターの発進ボタンを押してしまっていた。


今考えるとあり得ない話だが、初めて乗ったカールはベルトが顔の前にあるのが普通だと思っていた。


ジェットコースターって凄いなとドキドキしていた。


しかし出発して2分以内には、何かがおかしいと気が付いた。だって、周りは自由気ままな笑い声で溢れているのに、カールだけは顔面の前に置かれたシートベルトにぶつからないように必死だったからだ。


5歳なのに歯が粉々になる事を恐れたし、親がその治療代を払えるか?そんな事を初めて行ったディズニーで考えていた。


ジェットコースターが太陽の光が降り注ぐ地上から、暗闇のトンネルに突入した時が最悪だった。先が見えなくて、いつ体が浮くのか、いつ沈むのかがわからなかった。いよいよ顔をシートベルトから守っていた手が疲れてしまって、冷たいシートベルトが鼻にぶつかってくる衝撃を感じるようになっていた。


「すごいな、カール!」


前に座っていた父親が叫んだ。


「嫌だー。助けてえええええ」


と、カールは力一杯叫んだが、父親から返ってきた答えは


「楽しめー!これが人生最後の瞬間だと思って叫べー!」


カールは悲鳴をあげて気づかせようとした。だが父親の爆笑で悲鳴がかき消された。


あれよこれよとカーブを曲がったり、半回転したり、体がフワッと宙に浮いたり、髪の毛が逆さになったりした。そして暗闇の中で急に止まったかと思うと、タイヤが線路を削るような音をたてて、コースを逆走した。悲鳴がトンネルの中で飛び散り、また世界が半回転した。


その時、ジェットコースターが突然止まった。一瞬で乗客が静かになり、すぐに笑い声や乗客の囁きが始まった。20秒ぐらいコースターは動かなかった。周りの囁きが普通の声の会話になり始めていた。ジェットコースターに初めて乗ったカールにも、異変があることに気がついた。


するとアナウンスが暗闇の中で響いた。


「ジェットコースターが故障したようです。至急エンジニアをお呼びしますので、少々お待ちください。ベルトを外さないよう、お願いします」


えー!?というティーンエイジャーの女の子たちの声が後ろからした。


父親はカールに向かって叫んだ。


「カール!おい、カール!シッカリとベルトに捕まっとけよ!バカなことだけはするなよ!」


「む、無理だよ!うわっ」


カールの体はベルトの間からすり抜けて、宙にぶら下がっていた。かろうじて片手でベルトに捕まっていた。


誰かー!?子供が落ちそうよ!助けてあげてー!人間がジェットコースーターの席からぶら下がっているのを見て、乗客が悲鳴をあげ始めた。


父親は


「だから馬鹿な事はするなと言っただろ!」


カールのせいでジェットコースターが故障したような言い方だった。


「た、助けて!」


カールは叫んだ。すると今度はジェットコースターがウイーンという音を立て始めて後ろに向かって動き始めた。エンジニアが来る前に動き始めてしまった。


乗客の悲鳴が叫び声に変わった。


突然動き始めたので、カールの命を繋いでいる手がベルトから滑ってしまった。


ーー終わった。カールは地面に落ちながら、ジェットコースターが離れていくのを見ながら思った。


グシャッッ!


以上がカールの初めてのジェットコースターの体験だった。


幸い、ジェットコースターと地面の間はそこまで開いていなかったので、足首を骨折して入院するだけで済んだ・・・。


もうジェットコースターに乗る事は二度とないと思っていた。


5歳をもって大人とディズニーを信用ができなくなっていた。ジェットコースターを遊園地に設置したディズニー、それにカールを乗せた大人たち、ちゃんとチェックをせずにジェットコースターを発進させた大人たち。


ところが、問題は12年後に起きた。初めてデートをした女の子がデイズニーに行きたい、新しく作られたドラゴン・スマッシュ・コースターに乗りたいと言ったのだ。


ソフィー(彼女)はケンジントン高校でかなり人気な女の子で、体はムチムチピチピチ。頭も良かった。一方のカールはニキビが多い月のクレーターのような顔をした青年で、童貞。正直に言えばセックスハングリーでどうしようもなかった。だから自分が人間の女の子とデートにありつけたのが、イエス・キリストの復活以来の奇跡だと考えていた。


17歳のカールは昔の事件を正直にその女の子に話をする事ができなかった。早い車に乗っただけで、吐き気がするし、非常に恥ずかしいのだがオシッコを漏らしてしまうことだってあった。


「あ、ああ、いいよ。ジェットコースターに行こうか?」


カールはワザと暗い顔をした。残念な顔を出来るだけわかりやすく見せて、彼女の気持ちをジェットコースターからカールに移させたかった。


「乗り気じゃないのね?」


「いや、映画館もいいかなと思って。ファイナル・デステイネーションのチケットを2枚買っちゃっていてさあ」


とその場で嘘をついた。


その作戦がうまく行って、デイズニーランドに行くこともなく映画館に行った。


「ファイナル・デステイネーション」を見たことがある人はわかるかもしれないが、ジェットコースターの乗客全員が悲惨な事故で死んでしまうシーンがあるのだ。ソフィーと映画を見ながらカールは顔が青ざめたし、気がついたら昔のことを思い出して涙が出てしまっていた。グロテスクな様子で人が死んでいる様子を見ながら泣いているカールに気が付いたソフィーは、「繊細な人」とカールを評価してくれて手を握ってくれたので嬉しかった。


が、映画館を出た彼女はすぐにカールに向かって言った。


「絶対にデイズニーに行ってドラゴンスマッシュコースターに乗りたいわ」


ソフィーのジェットコースターに乗りたい気持ちは変わっていなかった。墓穴を掘ったような気分になってカールは困った。


「そ、そうだねー。あ、あのレストラン美味しそうだね」


何度か似たような戦法を使って、デイズニーランドに行く事を半年ぐらい避けた。


ある日、ソフィーはカフェでお茶をしている時に、真顔でカールに愛想が尽きたと言ってきた。急にコーヒーがカールの口の中で酸っぱく感じ、口から吹き出しそうになった。


ソフィーはカールが心を彼女に対して開いていないと言った。それは的を得た言葉だった。カールはジェットコースターのトラウマを明かさなかったし、彼女の前で格好つけた、背伸びをするような演技をよくしていた。本当の自分は弱くて、格好悪いという事を女の子に見せたくなかったのだ。


後でわかったのだが、自分をより良く見せる演技は彼女の前だけではなくて、周りのケンジント高校の生徒達に対してもやっていた事だった。弱い自分を隠すために強そうな仮面をつける。ところが、いつの日かその仮面が取れなくなっていて、演技をするのが当たり前になっていた。


話を戻すと、ソフィーの気持ちを聞いたカールは決断をしなければいけなかった。本当のことを言うか、それかソフィーと一緒にデイズニーランドのドラゴンスマッシュコースターに乗ってカールの過去と決着をつけるか。もしこの関係が終われば、若いカールにとっては童貞を卒業する一生の一度のチャンスを失うことになる。



そこで閃いた作戦ーーー。ジェットコースターに乗ってから、過去の事を彼女に説明する。その方が、ソフィーのためにジェットコースターに乗ったと言える。女性に尽くす男性をきっとソフィーはもっと好きになってくれるかもしれない。


具体的に言えば、カールはどうしても童貞を卒業したかった。毎晩のマスターベーションはカールの欲望を満たすのに限界があった。どうしてもセックスというものを体験したかったのだ。


何とかソフィーの気持ちを繋ぎ止めて、一週間後にディズニーでデートする約束をした。


当日。


約束の時間よりも10分早くディズニーに着いた。その間、気が気でなく入り口の周りをウロウロしていた。出来れば今すぐにでも癌にでもなって、仕方なく病院に入院して、ソフィーに哀れんでもらってキスをしてもらう道を行きたかった。


「ヤッホー。ようこそ!」


振り返るとミッキーがカールの前に立っていた。カールは子供の時に見たそっくりなミッキーを思い出した。12年前、あのトラウマのジェットコースターに乗る前に見たのがミッキーだった事を思いだした。


カールの目は挨拶をしたミッキーに負けないぐらい大きくなって、固まっていた。その異常にミッキーも気が付いたに違いない。マスコットの中のスタッフの顔は見えなかったが、相手が戸惑っていたのが分かった。ミッキーはクルッと振り返っ急いで別の子供達を相手し始めていた。


「何をしているの?」


気が付いたらソフィーが来ていた。リーバイズの半ズボンを履いていて、小さな赤いハンドバッグを肩にかけていた。薔薇、そして香水から噴出されたばかりの新鮮な匂いがカールに届いた。


「何でもないよ。行こうか。最初はどこがいい?」


「ドラゴンスマッシュコースター」


「じゃあ、ドラゴンスマッシュコースターでいいんだね?」


「ドラゴンスマッシュコースターでいいわよ」


「ドラゴンスマッシュコースターは遊園地の反対側にあるけど大丈夫?」


「大丈夫よ。歩ける靴を今日は履いているから」


足を前に伸ばしてカールに見せた。


「よかった。実はそれを心配していたんだ。行けなくなると大変だからさ」


12年の間にジェットコースターはアップグレードされていた。ドラゴンスマッシュコースターのレールには何重のループがあ理、蛇のような赤色コースが天高く続いていた。


「シートベルトは大丈夫ですよね?ちゃんと動かないですよね?もう一度チェックをお願いできますか?」


カールはシートベルトを両手でガチャガチャしながらスタッフに何度も聞いていた。


「だいじょうぶですよ」


12年前と同じぐらい、カールのシートベルトを見もせずにスタッフが答えた。カールは心配になってガチャガチャとシートベルトを揺らし続けた。


「ちょっと、うるさいわよ」


ソフィーが苛ついてカールを叩いた。


「ごめん!」


そしてジェットコースターが動き始めた。その途端、カールは悲鳴をあげていた。


「恥ずかしいからやめてよ」


ソフィーは呆れたように言った。顔をシートベルトの中に埋めたかったが、ソフィーの横で格好悪いところは見せたくなかった。そこでずっと目を閉じようかと思ったが、それも辞めた。ソフィーがカールの顔を見つめていたからだった。その目はカールの中にある恐れを読み取っている目だった。心配している顔だった。


「後悔しているの?」


後悔はしていた。だけどーーー、


「ノー」


カールは腹を括って言った。その瞬間、ジェットコースターが急降下を始めた。


ループに突っ込んだ時は、何度か目の前が真っ暗になって失心しそうになった。ループの頂上にコースターが走り上がった時、鼻水やら涙が混ざって地上に落ちていくのを感じたし、ソフィーもそれを見たかもしれない。


隣ではソフィーも叫んでいたが、カールの悲鳴が大きかった。


コースターから降りる時、スタッフとソフィーが足が竦んだカールを引きずり出さなければいけなかった。


「何で乗ったのよ?」


アイスクリームショップの横に開いていた地面に横になっているカールをソフィーは見下ろしていた。眉間にシワを寄せていて、まるで今日が台無しになったというような顔をしていた。


そこでカールはショボショボと過去の話をした。怖くはなかった。というより、既に格好悪いカールの姿をソフィーは見ていたのだから。もう隠す事は何もなく、自然に話すことが出来た。全部を話した後、重荷を下ろしたように気持ちが良くなって、眠たくなった。


「君と乗りたかったんだ」


それを聞いた彼女の表情が緩んだ。カールは地面から立ち上がって、彼女の口に顔を寄せてキスをした。彼女はそれを拒まなかった。カールの初めてのキスだった。


その夜、カールは童貞を卒業した。


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