第9話  私の欲しいもの

たったひとつ欲しいものがあるの


なんて、子供のような夢だ。


なんて言ってみるけれど、別に何も要らないし、でも欲しいものは全部欲しいし。

たったひとつ、なんて綺麗なお願い事なんて、私みたいな人間には無理なのかもしれない。

たったひとつ、ね。


でも、そのひとつを、まだ私は知らない。



私―美果―は、とある中学校に通っている。

まあ学校に通っているのは義務教育中なので当たり前としても、それが女子校なのはちょっと変わってるなぁ、と思う。

中学受験をして、受かったのがここで。、今はもう3年目。

中高一貫校なので暫くあいだ受験の心配はない。だからという訳ではないが、なんとなく手芸部なんてものに所属していたりする。

自クラスにとどまらず、他クラスの子も自然と交流が増え、友人と呼べるような子も出てくる。


人は集まると、自然と情報を共有するようになるらしい。


近くの寄り道スポットだとか、テストの山張りだとか、教師のセクハラまがいの言動だったりとか。


、だとか。


そういうのがあるというのは、それとなく小耳に挟んだことはあった。


ここは女子校であって、男がいないという環境では、そういう突然変異的な(当人たちには失礼かもしれないが)事もあるのだろう。


―まあ、いずれにせよ、私には関係のないことだ。

私は、そういう、恋愛だとか、独占欲だとか、ナニしたいだとか。

そういう気持ちが、いまいちよく分からない。



手芸部で一緒の美果は、手先が器用だ。

私はどちらかと言うと不器用な方なので、いつも助けてもらっている。

ぱっと見、真面目そうで話しかけづらい雰囲気だけれども、困っているとさりげなく手を差し伸べてくれる優しい人だ。

そう、優しい人なのだけれど。

得てして、優しい人は多数の人に好かれる。当たり前と言えば当たり前だ。優しい人が嫌いな人なんていないだろう。

そう、私もその多数の1人なのだ。


時々、なんか、嫌だなぁ、と思ってしまう。


果たして、この謎な感情の正体が何なのかはわからない。独占欲、みたいなものなのだろうか?


ここの所、意識が手先に集中しきれない気がする。

針で指を刺してしまう回数も心なしか増えたような気がする。


いつものように隣にいる彼女の存在が、私の心に混乱の渦を巻き起こす。




「――最終下校の時間です」

薄くオレンジに染まり始めた校舎に下校時間の放送が鳴り響いた。

そろそろかと思ってはいたが、時間切れの様だ。

今日は土曜日、下校時間はいつものそれより幾分か早い。

他の部員は先に帰宅していたようで、部室には私たち2人しかいない。

本当は今日中に終わらせたかった作品だが、下校時間になっては致し方ない、と針を動かす手を止めた。

とっ散らかっている机周りのあれこれを集めはじめたが、ふと目をやると、隣の紗由利はまだ必死に針を動かしていた。

「紗由利、下校時間」

驚いて手元が狂わない様にそっと呼びかける。

「……あぁ、もうそんな時間」

「凄い集中力。羨ましい」

「そんなことないよ」

2人で、少し急ぎながら片付けをする

「うーん、完成はまだまだかなぁ」

「私はもうちょっと。家でちょっと進めれば終わるかなぁ」

「凄い技術力、羨ましい」

「そんなことないよ」

その時、紗由利の片づけの手が止まった。

「……紗由利?」

紗由利は何かを考えごとをしているようで、返事がない。

とはいえ時間があまり無いので、返事を聞き洩らさない程度に片づけを進める。


「あの、さ」


「んー?」

片づけの手を止めずに返事をする。

紗由利も手を動かし始めて、少し時間がかかってしまったものの、埋もれていた机の木目が見えてきた。


「美果の家、行ってもいい?」


ちょっと予想外の話であったものの、別に友人宅に課題やなんかを手伝ってもらうのに尋ねる事はなんらおかしい事ではない、と思う。

だというのに、紗由利から漂う謎の緊張を感じた。

単純に慣れていないのだろうか。

この時は、そうとしか思わなかった。



「―お、お邪魔します」

普段、部活動で行動を共にすることは多いものの、美果の家に上がったのは初めてだった。

小学生の頃なんかは、よく友達の家に遊びに行ったはずなのだけれど。

帰り際、思い切って声をかけた。でも、こんなに緊張するとは思っていなくて。

胸の内にある、強迫観念とすら思える焦りの、緊張の、原因はなんなのだろうか。


ごく普通の戸建て、そんなイメージ。

美果の部屋は2階の奥にあって、そこそこ広いのが地味に羨ましい。

インテリアがモノクロ調なのが意外だった。

「ここ、使っていいよ」


部屋の中央にある座卓に裁縫道具を広げ、作業を再開した。

部室ではある程度集中して作業していたので、自分にしては珍しくミスは少なかったが、美果の家に来てみるとどういう事か、平時の自分よりミスが増える増える。

目の前に広がっている裁縫道具は部室にいたときのそれとなんら変わらないはずなのだけれど、何というか、こう、落ち着かない。

ずっと心臓が高鳴りっぱなしだ。

はっきりとはわからない。

けど、多分、原因は、美果だ。


そういえば美果は部屋を出て行ったきり、しばし戻ってきていない。



友人とはいえ、お客さんである。

台所で緑茶と軽いお菓子を用意して自室に戻る。

あれだけ集中していた紗由利の事だ、邪魔しないように、とそっと扉を開ける。

しかし、扉を開けると、ベッドの顔をうずめてもたれかかっている紗由利の姿があった。

「……えっと、眠い?」

私に見られるのは想定外の事態だったのか、声をかけると紗由利は跳ねる様に飛び起きた。

「――あ、っとごめん!別に何でもない……」

「そっか」

お盆を座卓近くに置いて、紗由利の斜め前に座った。

なんだか様子がおかしいなとは思ったが、気にせず作業を再開する。


「ねえ、美果ってさ」

「ん?」

「好きな人っている?」

「うーん、特にいないかなぁ」

「――私は?」

「えっ」


痛っ。

変な事を聞かれたせいか、珍しく手元が狂った。

布地を押さえている人差し指に鋭い痛みが走る。

久々にやらかしたな、と思いつつ、出血で布地が汚れる前に手を放した。

指先には、赤い球体ができていた。

「ごめん、絆創膏取ってく――」


不意に紗由利に手首を掴まれた。

唐突の出来事に、身動きが取れなくなる。

そのまま、赤い球体を湛えた人差し指は吸い込まれるように、紗由利の唇に引き寄せられる。

仄かに温かく湿っぽい感覚に、微かなざらっとした感触。

それが紗由利の唇の、唾液の、舌の感覚だと気づくまでに、時間はかからなかった。


「――ごめん……。これで大丈夫、だと、思う」


彼女の顔が赤いのは、窓から差す夕焼けのせいではないと思う。

何故かって、私の顔も燃える様に熱いから。

気持ち悪い、とは思わなかった。

ただ、なんというか、猛烈に恥ずかしかった。


そして、思いの他、嫌ではなかった。


それは、紗由利だからなのだろうか、それとも私は実はの人なのだろうか。

そう思った理由はわからない。

ただ、わかっているのは、私の心の中で何かのスイッチが入った事。

ただそれだけ。



その時私は思った

彼女が欲しい。

彼女の唇を、奪う権利が欲しい。

たったひとつ、欲しいもの。



彼女がいるのは、私のベッドの前。

掴まれた腕はそのままに、マットレスの壁に彼女を追い詰めた。

指先は、微かな湿っぽさを残してひんやりとしている。

彼女の表情には困惑の色が滲んでいる。


「紗由利」

「……」

「ごめんね、どうにも収まらなくなって」


紗由利の唇に人差し指を当て、私の影に沈む瞳をじっと覗き込む。


「確かめてみてもいい?」


「……っ!」


紅潮の中に、緊張が見え隠れしている。瞳は今にも零れそうな程潤み困惑の色は消えないが、拒絶は無い。

ああ、私が欲しかったのは、これだ、と。

確信を宿した瞳で、

ただ困った顔を見ていた。

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