唇は音を出さずにその名をなぞる。

 すめらぎ真秀まほ

 彼女だ。遠目に見ただけだったがすぐに判った。室内に入ってきた彼女は起き上がっている煌を見て驚いた顔をした。そして笑う。

「目が覚めたんだね」

 正直なところ、驚きすぎてどうしていいか解らなかった。明らかに異常な状態だ。異常なことばかりが立て続けに起きていて、もはやこの状況の意味や意図を推し量る事ができない。とりあえず警戒を解かず頷くと、彼女はゆっくり室内に踏み込んできた。

「皇、だったか」

「そうよ、事代ことしろくん」

 彼女の笑顔はなんとなく不気味だ。暗い室内で向き合う。彼女はベットの足元に立っている。横にパイプ椅子があったが、勧める気も起きなかった。近づかれるのが恐ろしかったのだ。

「今何時だ?」

 問いかける。彼女はポケットからピンクのカバーのスマートフォンを出した。覗きこんでからすぐ、元の通りしまう。

「午前二時…半、ね」

「そんな時間に…」

 そんな時間に面会をする必要があるのか。何故居るのか。何のために。聞きたかったが何故か聞くのが恐ろしくて、続く言葉を紡ぎあぐねる。彼女はやわらかな笑みのまま、「うーん」と声を上げた。見た目の快活さの通り明るい笑顔だと言うには状況的に少々厳しい。

「聞きたいことがあります」

 彼女は説明を諦めたようで、唐突に切り出す。煌はそれを遮った。

「その前に。聞いてもいいか」

「どうぞ」

 彼女は動じない。煌はどうにか、口を開く。

「この状況について。…俺は、何故入院してる?」

 聞きたいことなんて整理できていない。とりあえず時間を稼ごうという意味もあったのだが、彼女はあっさりと答えた。

「私の机を取りに行ってくれた後、空き教室で倒れてました。あんまり遅いから私と恵比葛さんで見に行くことになって。あとはもう、大騒ぎだよ」

 煌は考える。あの時ドアを開けてくれたのは二人だったのだろうか。そんなこと確かめようもない。黙っていたら彼女のほうがそれで、と口を開いた。

「何か、見た?」

「なにか、というのは?」

 逆に問いかける。彼女の行動も彼女の言動も、酷く怪しい。まともに答えるのは危険だと思った。真秀は少し考えるような顔をしていたが、やがてベッド脇まで近づいてきた。そして上体を屈めて来る。思わず身を細くしたが、そんなことで近づくのを拒めるわけではない。

 漸くその顔がはっきり見えた。くりっと大きな瞳は猫の目のように軽く吊っている。肩より少し長い髪は柔らかそうだ。自然で明るい栗毛だったと、昼間見た彼女の色を思い出す。今は暗いせいだろう、黒っぽく見えた。鼻はつんと高く、唇は少し小さめだが、充分整った顔立ちだと言えた。

 美少女だ。だがそれ故に、逆に作り物めいて、恐ろしいものなのではないかと思えてくる。

 その唇が静かに、言葉を紡ぐ。

「見えてはいけないもの、見なかった?」

 小さな声で、囁くような問いかけ。冷水を掛けられたように体の芯が冷える。

 見えた、と。そう答えたらどうなるのだろう。煌は答えずに彼女の顔を見た。目が合う。くしゃっ、とチェシャ猫のような笑顔を作った彼女は、身を起こして唐突に背を向けた。プリーツスカートのシルエットが花のように広がった。

「事代くんは賢いね、それでいいよ」

 どういう意味だろう。皮肉だろうか?見つめるその背はもう一言、言葉を紡ぐ。

「見た、なんて言わないほうがいい」

 彼女はそう言って、そのまま振り返らずに戸口まで行ってしまった。

 これは、警告だ。直感して身震いする。どうしてだろう。彼女は何故、そんなことを言えるのだろう。

 扉をスライドさせた彼女は一度こちらを振り返った。通路の明かりで逆光になってその表情は見えない。

「じゃあね、事代くん。

 小首を傾げたシルエットの髪が揺れる。叫び出したかったが、できない。戸が閉まると同時に押したナースコールのボタンは命綱か何かのように思えた。

 否。蜘蛛の糸、だろうか。



 翌日の雲ひとつない天気は頭痛を悪化させた。

 することもなく病室の窓辺に立っていた。時刻は十一時を過ぎたところ。強い日が差し込んでいて、弱冷房では暑いくらいだ。朝一番で回診に来た担当医は失神した際に打ち付けた頭部について「異常なし」と言った。前回入院したのと同じ病院だったためか、それとなく目についても聞かれたが、状況が変わっていない事を告げると前回の検査直後と同じことを言われた。

 曰く、「境遇の変化に依る心因性のものかもしれないから心療内科の受診を勧める」ってものだ。

 この状況がストレスでないはずがない。でも、誰かと話をした所で、或いは薬で、楽になれるとも思えない。そもそも煌には吐き出すべきこと、吐き出したいことなんてものに心当りがない。結果、煌はその勧めを受け入れることはしていない。

 怪我の程度は大したことはないという話だったのに、何かと理由を付けて退院を伸ばされ、挙句、病室に留め置かれた。要はトイレ以外の外出を禁じられている。点滴も外され、身軽な状態で、着替えもしていいとの事だったので異常といえば異常だ。なんとなく、嫌な予感がする。

 どこか遠くから近づいてくる救急車の音がする。救急指定病院らしく、意識が戻ってから何度となく聞いた音だ。自分もひょっとしたら乗ったのかもしれないとぼんやり思った時だった。

 ノックの音が聞こえた。

 昨夜の事が過り、思わず身構えつつも返事をすると、すぐに扉がスライドして見知らぬ中年男性が二人、室内に入ってきた。一瞬だけ祖父か、と思ったがすぐに違うと気付く。彼らが懐から出した見覚えのある表紙の手帳のせいだ。二つ折りのそれをちらり、と開いてみせた二人は、ちょっとお話を聞かせてくださいと前置いて近づいてきた。

 警察だ。前を歩くのが中年の刑事、もう一人は少し若い。と言っても四十前位ではないだろうか。

 生憎と、知りうる限り室内に椅子は一脚しかない。

「椅子がひとつしかないんですが」

 言いつつ煌もベッドの方に近づくと、

「ああ、結構です。立ち話程度で」

と、年かさの刑事は答えつつ、パイプ椅子を引いた。煌は向かい合うベッドサイドに回りこんでそこにかける。

「なんでしょうか」

 なんとなく、察しがついた。というのも、彼自身が倒れた事自体はもちろん警察が来るようなことではないからで、彼らの用向きといえば恐らく、事件であり、最近この辺りで起きている事件といえば、あれしかない。

 つまり、ついに、煌の通う学校からも、被害者が出たのではないだろうか。

「連続失踪事件、もちろんご存知ですね?」

 丁寧な物腰だった。はい、と頷きながら答えると、老刑事は背後に立つもう一人の刑事を振り仰いだ。説明をしろということらしい。背後の刑事は懐から手帳を出し、数ページめくった後で切り出した。

「昨夜から、事代さんの学校…イフ、ヤ、とお読みするんでしたね」

「そうです、畏怖夜高校です」

 答えると、どうも、と一言置いて言葉が繋がれる。

「畏怖夜高校の生徒一人の、所在が掴めなくなっています」

 予想通りの言葉ではあったがそれでも実際に耳にすると、衝撃を受けた。汗がどっと吹き出たような気がした。

「というか、ね。キミの知っている生徒だ」

 知っている生徒、と聞いて真っ先に思いついたのは乃莉子、そして真秀だった。昨夜の異様な様子を浮かべて思う。もし、真秀が失踪したとしたら、それは被害とは言えないのではないか。

 昨晩のあれは明らかに警告だったから。

 しかし、刑事が告げた名前は想像もしていないものだった。

「篠井葉月さん、クラスメイトですね?」

 問いかけられて一瞬、答えられなかった。昨日見た横顔を思い出す。ベリーショートの白いうなじが脳裏を過ぎった。

 彼女が?

「ショックですよね」

 言葉の中身に反して酷く事務的に聞こえた。慣れているのだろう。否、麻痺しているというべきだろうか。煌は少し反感を抱いたが、すぐに打ち消す。無理もないと思ったからだ。

 自分とて、とうにこの状況、境遇に慣れてしまっているのだから。

「それで、ですね」

 刑事の目は決して鋭くはない。むしろ和らいだように見えた。それが、逆に怖い人だ、と思わせた。

「倒れた時のこと、参考までに教えてもらえませんんか」

 やはり、そういうことか。失踪が昨晩なら容疑者には含まれていないだろう。そういう気安さはあったが、逆に役に立たない、しかも言うわけにはいかないようなことしかなかったわけで少し心苦しく思った。

 言うわけにはいかないのは別に警告のせいではない。普通に考えて、ありえないとそう思えたからだ。目のこともあるしヘタを打つと強制的にカウンセリング行きになりかねない。結果、不明瞭なことを言おうと決める。

「そう言われても…。ただの貧血だと思います」

「と、いうと?」

「よく覚えていないんです。室内で気が遠くなったとしか」

 目前の二人は顔を見合わせた。少し難しい顔になった。少しの沈黙の後、老刑事が口を開く。

「何か、あったはずです」

「はず、といわれても」

 困惑して言い澱むと老刑事は困ったように眉根を寄せたまま煌の足を指した。

「ご自分の足、見られましたか」

「え」

 何を言っているか解らなかった。促されるままスリッパを脱いでベッドに足を上げ、裾を引っ張り上げる。

「!」

 さすがに驚いた。足首にくっきりと青痣ができている。それは丁度人の手の形のように見えた。心当たりはもちろんある。でもそれを口にするのは憚られる。結果黙っていたら畳み掛けるような声がかかった。

「誰かに攫われそうになったとか、そういうことじゃないんですか?」

「ありません…いや…ないと、思います」

「脅されている?なんなら護衛をつけることだってできるんですよ」

 力強く保護することを強調されたが、生憎本当に心当たりがない。確かに、記憶に残るあの黒い腕が掴んでいたのは丁度痣があるあたりだが、あれだって百パーセント現実だったかと言われれば答えられない。

 できる事なら忘れたい。それが無理なら、白昼夢ということにしたいのに…。

 しばらくの沈黙の後、煌は絞り出した言い訳を繰り出す。

「その…クラスメイトが運ぼうと思ってできたんじゃないですか?」

 咄嗟にとぼけたことを言ったが、刑事は溜息をついて言った。

「ちょっとやそっとじゃそんな風に内出血しませんよ。仮に、攫われそうになったと聞いても異常なくらいだ」

 背筋がぞっとした。思わず身震いして、首を横にふる。

「すみません、すぐ、気が遠くなったんで…」

 頑なな様子を見て取ったのだろう。立っていた刑事はため息をつく。老刑事もゆっくり立ち上がった。

「この事件に絡むようになってからは、黙りこむか妙なことを言う子どもにしかあたらないんですよ。その辺りについても何もご存知ないですかね?」

 端から答えなど期待していないのだろう。立ち上がって歩き出しながら聞かれる。少し引っかかった。態度ではなく言葉に、だ。

「妙なこと?」

 老刑事は立ち止まった。もう一人の刑事は既にドアを開けにかかっている。

「呪い、だそうですよ」

 溜息とともにそう答えて、老刑事は「では、ありがとう」と残して部屋を去る。スライド式のドアがゆっくりとしまるのを眺めながら煌はしばらく動けずに居た。

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