それにしても妙な話し方だった。気にはなったがそれ以上は聞かず教室を出る。授業が始まる時間はとっくに過ぎているし、急いだほうが良さそうだ。

 それにしても、こんな時にこのあたりに転校、と言うのはどういうわけだろう。どうしても事件のことが頭を過ぎる。

 実は、煌のクラスだけではなく、この学校にはまだ被害者がいない。ただ、事件はこの街の学校に集中していて、この学校からだけ被害が出ていない事実は議論を呼んでいる。

 何にせよ、普通の親ならば今この街に子供を連れてくるなんてことは、回避したがる筈だ。彼女も家庭に何らかの事情があるのだろうか。転校時期も学期の途中、と普通ではない。かくいう煌も八ヶ月ほど前に止むに止まれぬ事情でこの街に来た。去年、中学三年の十一月だ。そしてその十日前の朝が、それまでの平穏な、凡庸だった日をぶち壊された記念日だった。思い出したくもない。

 指定された教室は渡り廊下で繋がれた旧校舎、その名の通り、古い校舎にある。旧校舎と聞くと使われていないと誤解されそうだが、全教室の半分に満たない程度とはいえ、現役で稼働中である。一部が文化部の部室や特別教室に充てられているらしいが、帰宅部の煌がここに来ることはあまりない。

 言われた通り、一番隅の教室まで来ると、そこは妙に薄暗い部屋だった。ドアについた小さな窓を含め、窓という窓が暗幕に覆われ、中は伺えない。暗幕の裏地が変色してくすんだ臙脂になり窓を覆い尽くしていた。

 引き戸をスライドさせようと力を込めると、すぐにそこは開いた。本当に開けてあるらしい。なんとなく違和感を覚えたが気を取り直して踏み込む。酷く埃っぽい気がした。かなり前から空き教室なのだろう。

 予想通り、何故か部屋の窓全面に暗幕が貼られている。とはいえ、完全ではなく、戸口から見て正面、窓側の中程あたりで、一部がカーテンレールから外れ垂れ下がっていた。そこから帯のような光が差し込んでいる。日の光の中に、埃が舞っているのが見えた。昔ながらの黒板のある教室前部に寄せられた机と椅子。その手前に、見慣れた古いタイルを敷かれた床が、半分ほど露出している。

 奥側に乱雑に積み上げられている机から、せめて綺麗そうなものを選ぼうと近寄った所で。

 ざっ、と音がした。次いで、ガタン、と音を立てて引き戸が閉まる。人の気配はない。風で閉まるほど軽い扉のはずもない。明らかに異常だ。そう思いはしたが妙に冷静だった。

 日中なのに室内は暗く、蒸し暑い。

 ざり、と床を掻くような音が聞こえた。目を凝らす。よく見えない。とりあえず、暗幕を引き開けようと思った所で気付いた。足が全く動かない。地面に張り付けられたように…否。何者かに足首をがっちりつかまれているように、足の裏を床から離すことができない。さすがに全身の血が下がる気がした。

 ざり、ともう一度、音が響く。積み上げられた机と椅子の山。その方向から音が聞こえる。そこは暗幕の作った影と、机と椅子の影で一層、闇が深い。凝視する。何も見えない。思っていたが――。

 ぷつっ、と。

 突然眼帯の紐が切れた。はら、と垂れ下がったそれは煌の全身を一気に冷えさせる。へたり込むにも、体が凍りついたように動かず、ただ冷たい汗だけが体中を伝う。

 ざり、と再び音がした。なんとなく近づいてきている気がする。再び、闇を見る。部屋の中央あたりの机の下から黒い塊のようなものが這い出してきていると気付いた。どす黒い、けれど質量の感じられない、影のようなものだった。

 逃げようにも体が動かない。

 反射的に足元を見る。靴を押さえる黒い手が見えた。

「ッッ!!!」

 声が出ない。全身から熱が引く。ぐっしょりと濡れた背中。尚も動かせない足。せめて、なんとか動く上半身を捻って手をのばそうとする。だが無論、それに触れるのは躊躇われる。そもそも、明らかにこの世のものではないこの腕を物理的に振り払えるのだろうか。

 だが直後、躊躇ったことを後悔した。

 足元から伸びる二本の手の脇からもう二本、四本、六本、飛び出してきた腕は這い上がるようにして煌の体を絡めとっていく。全身が動かなくなるまで五秒とかからなかった。ぞり、ぞり、と這う音は段々ピッチを上げて近づいてくる。体に巻き付く腕のうち二本が、首元に絡んだ。ギリギリ、と締めあげられる。這い寄る影が光を横切る。一瞬消えた様に見えたが、直後、そうではないと気付く。

 光があたっているところだけ、見え難くなるだけだ。気付いた所で絶望が深まるだけだった。状況を打開する方法がない。大蛇にでも巻きつかれているようだ。段々と意識が遠のいてきた。

 もともと今の煌に身寄りと呼べるものはほぼない。死んだ所で、誰も悲しまない。

 意識が遠くなる―――。

 ガラ、と。戸が開く音を聞いた気がした。次いで束縛が解ける。ただし、意識を留めることはできそうにない。何が起きたのか解らなかった。尚もいうことを聞かない体、視界。

 ぐらり、と世界が揺らいだ気がした。硬い地面に倒れるより先に光を見る。光に透けた、白銀の髪と。



 校内放送が、何度も、何度も、何度も、繰り返し煌の名を読んでいる。また、あの夢だ。

 遠い町の、中学校。誰もいない懐かしい校舎の廊下に一人立っている。

 また、歩き始める。どこまでも続く廊下を只管歩く。進むしかない。でも辿りつけない。いつも通り、向かうのは職員室だ。

 いつもそうするように進み続ける。歩いて、歩いて、汗を拭って、走って、立ち止まって、結局再び歩いて。

 そこで、ふと気付いた。

 いつもと違う。

 

 消失点のように見えていたところに、何かが居る。何か、とても怖いものが居る。逃げなければ。

 あれは―――だ。踵を返す。反対側も、同じ廊下が続いている。否、同じように、消失点にそれが居る。

 どちらにも進めなくなった。狂ったように教室の扉を引き、蹴り、壁のようなその感触に絶望し、窓を叩く。そちらもとても硝子とは思えない感触がした。

 頬を伝った汗が頤を離れて落ちる。元通り、進んでいた方向を向き直って、それが少し近づいている事に気付く。悲鳴を上げたかったが、声は出ない。再び、後ろの方向を向く。そちらのそれも、近づいてきていた。

 逃げ場がない。逃げられない。壁に背を預け、蹲る。この世界には、逃げ場がない。丸くなって、息を殺す。そんなことはなんの意味もない。黒い人影はまだ、遠い。あの速度では近くまで来るのに相当の時間を要するだろう。

 真綿で首を締められるようなジワジワとした、それでいて強い恐怖が襲う。目を閉じる。耳をふさぐ。何も見聞きしたくない。校内放送も、アレが這う音も、空気の振動ではない。頭の中で響いている音だ。耳を塞いでも、意味なんてないのに。

 何も起きない。一分経ったのか、十分経ったのか、一時間経ったのか、よく判らない。とても長い時間そうしていたような気もしたが、ほんの数十秒のことのようにも感じられた。

 何も起きない。

 眼を開く。

 目前に顔があった。三つの黒い影、否。三人のあの女が自分を囲み覗きこんでいる。三人の女は、自分を見下ろしている。顔は見えない。影になっている。長い髪が、頬をくすぐった。

 絶叫したつもりだった。でも声は出ない。目を見開き、口を大きく開けて、息が止まるまで叫んだつもりだった。でも、喉から出るのは空気ばかりで音にはならない。

 それでも、叫び続ける。

 女の口から、生臭い、赤黒い液体が溢れはじめる。

 為す術もなく、絶叫し続けた。



 そこで、目を覚ました。

 ぐっしょりと汗をかいていた。後頭部が痛む。そこを手で抑えて、動作を阻む点滴の管に気付いた。周りを見回してみる。室内は暗い。それでも一目見て、おそらく病室だと察する。心拍をモニターしているらしい、機械を走るグリーンがかった光が目に入る。壁も床も白い。カーテンも白い。

 個室らしく、他に人の気配はない。スライド式の大きな扉が見える。窓の外を見ようにも、点滴が心配で思うようにできそうにない。恐らく、消灯時間は越えているのだろう。建屋自体がひっそりと寝静まっているような気配がする。諦めてベッドの周りに視線を落とした。

 繰り返し見るあの夢。今日は違った、とぼんやり思う。昼間にあんなものを見たからか?否、あれも夢だったのだろうか。転校生も夢か?そもそも何故自分は病院に居るのだろう。判らない。ただ、一つ判るのは、繰り返す学校の夢は父の死を咀嚼しきれていない心の作用だということだ。

 去年の十月十一日、朝。登校して教室に入り、もう席に座っていたように思う。予鈴のなる直前の校内放送が発端だった。名指しで職員室に呼び出す内容で、その時点でなんとなく嫌な予感はしていた。でも、心の準備ができていたのかといえばそうではない。事実、教室のドアを開けた後の記憶は酷く混乱していて、未だに再構築することが出来ない。

 何度もよみがえるその日の記憶は大きく歪んでいる。ただ2つの単語だけが何度も頭を殴りつけてきた。交通事故、即死、ニュースでよく聞くそれだけの単語なのに、体中の力が抜けた。

 長い間、父親と2人だけで暮らしていた。母は死んだと聞かされてきたけど実際は知らない。祖父母も死んだと聞いていたから、何かあった時の費用としてお金のありかは聞かされて育った。けれどそれはおまじないみたいなもので、普通の家庭のように父も当たり前にずっと居てくれると思っていた。

 葬式も火葬も近所のおばさんが世話を焼いてくれてなんとか済ませた。これからどうなるのか…とりあえず役所に相談に行くようにと助言を受けたのは荼毘に付したその日の夜。

 その話の最中に現れたのが、父親の事故を担当した警察官、村田だった。

 最初に会った時は体も大きく怖そうな印象をもったが、煌に同情的なのはなんとなく分かった。遺体と対面した時もただ黙って側に居てくれたが、それが酷く有りがたかった。言葉など何一つ受け入れられそうになかったからだ。

  いつも通りの制服姿で現れた中年の警官は「ちょっとお邪魔したい」と前置きして靴を脱いだ。片付けの為、部屋に残ってくれていた親切なおばさんは、お茶を入れてくると言って台所に行った。そのおばさんは、母が居ない事を何かの折に父が話したようで、ここに越してきてからずっと親切にしてくれた人だ。

 好意が今はただありがたかった。

 学生服の襟元のボタンを止めようとしたが、楽なままでいいと止められる。正座して向き合うと、村田はすぐに切り出した。

「身寄りがないとこの間聞いて、役所にも連絡をしておいたんだが」

「はい」

 まだ何か手続きが要るのだろうか。電話でもいいのにと少し申し訳無さを感じていると、村田は少し言い淀んでから言葉を繋ぐ。

「事故のニュースを見た遠方の人物から連絡があった。事故死した人物が失踪した息子ではないかとの照会で…君に聞いていた話とは違ったがもしかしたらお父さんが意図的に黙っていた可能性も考えてね。念のため戸籍を確認させてもらった」

 そこで切られた言葉。続く言葉が、自分の知らない何かを示しているのは明白で、彼は息を詰める。村田は慎重に言葉を選んでいるようだった。少し間を置いてから言葉を繋ぐ。

「君のお父さんは就籍許可申立しゅうせききょかもうしたてを出して認められている…これは、記憶の喪失などの理由で戸籍の確認が取れない人物が、新しい戸籍を作って貰うための申請だ」

 え、と言ったつもりだったが、喉がカラカラでかすれた空気が漏れただけだった。弾かれたように顔を上げて、目を見開く彼を村田は眉間に皺を寄せたまま静かに見守る。

 おばさんが部屋に入ってきた。ゆっくり膝をついて、お盆を机の上に置く。コト、という音が酷く場違いだった。村田は彼女に「どうも」と頭を下げ、静かに飲んでみせた。煌も慌ててお茶に口をつける。暖かさに少し落ち着いた。ゆっくりと確かめるように口を開く。

「父は記憶喪失、だったんですか?」

 殆ど他人の彼に聞くのは間違っている。それでも思わず問いかけていた。意外な事に村田は無言で一度頷く。そして静かに続けた。

「身元不明で病院に入院していたようだ。…個人的に、当時を知る人をあたって来た。僅かに、この辺りの人間ではない訛りがあったということだった。電話をしてきた人物の居る地域の言葉だ」

 何を言っているのかよくわからない。表情でそれを悟ったのだろう、村田は黙って座っている。

 お茶を煽るように飲み干して、少し気が落ち着いた。一度も話してくれたことはないが、父は記憶喪失だった。事故を切欠に父が生きていると気付いた親族が連絡をくれた。…そういうことだ。

 胸がざわついては居たが、理解したと頷くと、村田はゆっくりと続けた。

「君のことを仄めかしたら子どもが居るのは知っているとのことで、君がいいなら引き取りたいとのことだ。どうかな?」

 正直、息が止まりそうだった。

 直感的になんだか嫌だと思ったのだが、よく考えたらどちらにせよ施設で見知らぬ人間の元に行くことになるのは目に見えている。それくらいならせめて自分の知らない家族の話を聞いてからのほうが良い。

 そんな気持ちもあって、気付けば答えていた。

「…行きます」

 言葉の裏の躊躇いを見て取ったのだろう、村田は渋面のまま頷き、懐から小さな紙片を出してテーブルに置きながら静かに言った。

「何かあったらいつでも電話してくれ。いつでも相談にのる」

 その紙片が名刺なのは分かったが、手描きの文字に思わず涙を零しそうになる。自宅、と添えられた、ただの数字の羅列が酷く心強かった。

 それから色んな人の手助けを経て部屋を引き払い、家具を処分してここまで来たのだが、ここで会うと思っていた、祖父を名乗る人物にすらまだ会ったことがない。

 この街に来た日、駅まで迎えに来た男性はこの屋敷に着くなり、祖父は仕事で戻らないとだけ言って消えてしまった。その運転手らしき男性はそれ以来一度も姿を見ていない。その代わり、日曜日だけ現れる家政婦がいるのだが、彼女は彼女で殆ど口を聞かない。歳は恐らく七十にはなっていないと思う。酷く痩せて顔色の良くない、静かな女性だった。

 この街にきて倒れるのは二回目。ここ半年、妙なことばかり起こる。この街は不気味だ。どこかがおかしい、何か恐ろしい。怖い。

 事あるごとに胸に蘇るのだ。はじめてこの街に来た時の、あの冷たい雰囲気――胸がざわざわと泡立つような不快感…皮膚が総毛立つような陰鬱な感触。電車を降りる前から車窓越しに感じたその不穏な空気は、駅に降り立った瞬間、強烈な悪寒となって襲った。その印象がどうしても拭えない。

 日常と非日常の境界線はどこにあるのか。

 冬の夕方、夏の薄暮、夜の闇、廊下の端、部屋の隅、敷居。何かの気配を感じる事は誰しも有るだろう。本能的な恐怖とでも言えるかもしれないその感覚を、何の疑問も抱かず受け入れてきた。でも今はできそうにない。

 あの教室で見た黒い影…体を締め付ける手の感触を思い出す。あれは、何だったのだろう。身震いしてシーツを引き上げる。眠れる気がしなかった。思い出さないように他のことを考えようとする。

 あれは、きっと夢だ。

 それにしても今何時だろう。そういえば、目がさめたことを伝えるべきなのだろうか。ナースコールを押そうかと思った瞬間だった。

 小さなノックの音が聞こえた。答えるよりも先にドアがスライドする。てっきり看護師だと思ったが、目を向けて硬直する。

 唇が、その名をなぞった。

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