「!!!」

 ガバリ、と勢いよく上半身を起こして、両の手指で顔を覆う。広い和室の中に忙しない呼吸の音だけが響いていたが、程なくしてそれも落ち着いた。

 きらは視線を上げる。未だ平静を取り戻せない。どこか恐怖がこびり付いている。そんな胸の内を包み隠す様に表情を打ち消しながらも、指の間から正面に見える障子の方を窺った。

 その、真っ白な障子の先は中庭だが、鳥のさえずりはおろか蝉の声すら聞こえないまま、既に明るくなっている。そこから差し込む白い光に安堵を覚えながらも、連日続くあの夢の余韻に固く目を閉じ、頭を振った。

 夢だ。

 夢の筈だ。何度も繰り返し、自分に言い聞かせてきたことを、もう一度強く念じる。

 気を取り直す様に深い息を吐いてから、枕元の携帯を手繰り寄せ、時間を確認する。

 まだ五時少し前だ。でも、もう眠れないのは判っている。重い布団を捲りあげ、枕元に置いておいた真っ白な眼帯を持ち上げて、そのまま廊下に出た。

 広い中庭はしんと静まり返っている。

 明るい朝日の中にあっても、この屋敷はどこか暗く重たい空気が流れている。この家に住むようになって半年以上経つが、慣れる気配は一向になかった。

 そもそもこの、十部屋は下らない大きな屋敷に一人で住まう状況を受け入れられる人間がどれほどいるのだろうか。まともな神経なら屋敷を売り払って身の丈にあう規模の家に住みたがるはずだ。彼自身は間借りしているだけで自由がきかないが、正直この屋敷は苦手だった。

 廊下を突き当りまで進んで左に曲がり、少し進んだ先で右に折れる。正面に玄関が見えるが、その手前の左側が洗面台だった。

 手早く歯を磨き、顔を洗うと、左目を眼帯で覆った。そうして鏡を見ると、どうしてもあの女を思い出す。頭を振ってどうにかその暗い笑みの残像を振り払いながら、廊下に出た。

 玄関を背に進み、突き当たったガラス戸の先が台所だ。

 屋敷の広さから察するに、食事は別の部屋でとるよう設計されているのだろうが、移動が面倒臭く、丁度テレビも、手ごろなテーブルも設えられていたことから、キッチンで食事をとるのが常になっていた。

 トースターにパンを差し入れながら、テレビを付ける。丁度五時になったところだったらしい。いつも通りの、取り立てて特徴のないキャスターが話し始めた。

「中国地方の、ニュースと気象情報です」

 コップに牛乳を注ぐ。次いでマーガリンを取り出しながら、殆ど空の冷蔵庫を見る。毎朝の事だが、この瞬間どうしても、空き家に勝手に住んでいるような後ろ暗さが過った。

 不意に、父の事を思い出す。そしてそれも、記憶の隅に押し込んだ。冷蔵庫を閉めながら溜息を一つ吐く。

 ――と。

「…さん、十七歳の行方が分かっていません。警察では、一連の行方不明事件と関連があるものとみて、捜査を進めています」

 耳に飛び込んできたのはそんなニュースだった。画面を見ると、部活中に撮ったのだろうか、ジャージ姿で微笑む若い女の子の写真が大写しにされている。また一人、行方不明者が増えたようだ。

「警察では、行方不明者の人数が二十人を超えたことから、何らかの組織的な犯罪の可能性もあるとして……」

 そうか、昨日、二十人を超えたんだった。無感情にそう思ったところで、自らの感覚が異常であると感じる。この環境に慣れ過ぎていると。

 二十人なんて数の人間が消えたことに、取り立てて感慨を抱かない事実に戦慄した。

 慌ててテレビを消す。

 何もかもが異常で、徐々に自分もおかしくなってきているのではないだろうか。それが、酷く恐ろしかった。



 今日もだ。

 ここに来て約八か月。ほとんど毎日のように重たい雲が空を覆っている。ぼんやりと遠く見える空を、そしてその下の薄墨で塗り込めたような山を見やる。

 山の中腹には愛想のない、白い箱のような空白があった。ぼんやりとそれを眺めて、そういえば、と思い出す。この街に来た日、真っ先に目に入ったのもあの山と建屋だった。未だに、何の施設なのか知らない。

 ここに来てからはずっと、そんなことばかりだ。と溜息を吐く。

 まあ、何より判らないのは会ったこともない孫と思われる子供を引き取ったというのに一度も顔を見せず、広すぎる家を貸し与えている祖父の存在だが、それはもうそろそろ、諦めた方がいいとも思い始めていた。

 多分このまま、あの家で一人で暮らし続けるのだろう。生活費の名目で、顔色の悪い家政婦が置いていくお金を頼りに。

 不意に過ったその五十がらみの女の陰気な目を思い出して、ぞくり、と肌が泡立つ。何故だか判らないが、あの家に関わる人間はどうにも、酷く暗い顔をしている。揃いも揃って、長患ながわずらいをした後のような、土色と表現したくなるような顔色で、陰気な表情をしていたのを思い出した。

 そうはいっても件の家政婦と、運転手にしか会ったことはない。自分を引き取った祖父以外に親戚の一人もいないというのも不自然で、誰も接触してこないのが兎に角不気味だった。

 溜息を吐いて気を取り直そうと努力する。ここに来てから、考えても無駄な事、考えると憂鬱になる事、考えれば考えるほど恐ろしくなる事しかなく、いつしか気持ちを殺して記憶を押し込めるようになっていた。

 元々多少はあった傾向だが、今は、そうせねば身を守れない気すらする。

 何気なく、教室の前に掲げられている時計を見上げた。始業時刻を十分過ぎたが、教室の中は相変わらずで、仲の良い生徒の席で話し込んでいる者ばかり。別に学級崩壊だとかそういうことではない。担任の教師も、代理の教師も、まだ現れていないのがこの状況の理由である。咎めるものも居ないのに雑談を辞める理由はないし、ある意味自然な姿だった。

 二つ前の席ではいつも通り、二人の女子が話し込んでいる。席に着いている山木和海やまきかずみのポニーテールはいつも通りゆらゆらと小刻みに揺れる。横に立つベリーショートの篠井葉月ささいはづきと二人、同じ運動部に入っているらしい。何部かまでは知らないが、毎日のようにそこに居るのでなんとなく覚えてしまった。相変わらず仲が良さそうだ。

 教室中、ざわざわと話す声がしているというのに、その中に笑い声は一つもない。聞こえてくるのは他愛のない話ばかりなのに、なんとなくどこか重苦しい空気が漂っている。

 こんな陰鬱な朝を迎えるようになって、どのくらい経つだろうか。教員が毎朝のように長い会議を持つ理由を皆が知っていて、そしてそれを話題にすることはほとんどない。意図的に避けている。そんな風に思えた。

 原因は勿論、あの事件だ。付近の女子高生の行方不明事件。確か今朝の事件で…

(二十二人目、か)

 警察も相当叩かれているというが、噂を聞く限り簡単に解決するとはどうにも思えない事件だ。

 溜め息を一つ吐く。誰も彼も――勿論、彼自身もこんな日常に疲れ始めていた。

 何気なく、教室内をぐるりと見回してみる。田舎の学校だから生徒数はそんなにいない。今座っているのは全体で七列ある席のうち一番窓に近い最後尾。教卓側から六席目だ。

 見る限り異常はない、いつもの朝。まだ、一人も減ってはいない。それに安堵しつつも、怠さを感じて机に突っ伏していたら、右脇を通過して前方に向かうクラスメイトが「おはよ」と軽い調子で声をかけてきた。チラリと視線を上げると、彼女はわざわざ戻ってきて、

「だいじょうぶー?」

と、間延びした声で問いかけてくる。どうやら後ろ側のドアから入ってきたようだった。

「見ての通り」

 言いながら身を起こすと、彼女、恵比葛えびかずら乃莉子のりこは赤い縁の眼鏡の奥の垂れ気味の目を細めて困ったように笑った。

「見ての通りってことは調子悪い?」

 煌は少し狼狽えつつ、彼女を見上げる。すぐに視線を戻して短く返した。

「元気だよ」

 答えると、乃莉子は少し悲しげな顔をした。なんとも言い難い気持ちになる。彼女の視線を感じて、思わず眼帯に触れた。

 別に眼病ではない、ただ、病気ではないとも言い切れない。

「目、まだ悪いんだね」

 小さな声で、囁く様に彼女が呟く。煌は少し俯きながら頷いた。

「ああ。まだ、だよ」

 言うと、乃莉子は「そう」と溜息を吐いた。

「最近体育の時は外してるじゃない?もうそろそろとるのかなって」

 その推測は当たっていない。元々いつも見えないわけではないのだから。突然、見えなくなることが度々あるだけで。

 ただ、それを説明していたかどうかは記憶にない。最近あまり寝付きがよろしくないせいか、頭重感が酷くてうすぼんやりともやでもかかったように不明瞭な思考しかできなかった。

「見えないとかじゃなくて…突然暗点が出て驚くことがあるんだ。脇目の時に多い」

  言うと乃莉子はちょっとびっくりしたように目を瞬かせた。赤縁眼鏡がちょっとズレているように感じる。以前それを指摘したことがあったが、彼女は元々遠視なだけで目が悪いというほどでもないらしい。

 ハーフアップにした髪はいつも通り、赤いリボンで止めてある。よく見たら可愛い。目も大きめだ。けど地味な印象が拭えない。彼女は美人ではあるものの近寄りがたくはない、むしろ話しやすい、優しい娘といったイメージが強かった。

 クラス委員をしている優等生なんて立場の彼女は、臆さず声を掛けてきてくれたから、転校してきた当時――中学三年だったのだが――真っ先に気安く話せるようになった相手でもある。彼女の方も煌が嫌がらずに手を貸す為か、あの日までは気安くいろいろ相談して来ていた。

 だが、煌の目がこの状態になった日を境に、彼女は頼み事を遠慮するようになった。煌はそれを指摘しない。彼女の性格を考えれば、無理もないと思った。実際のところ、この目の状態と彼女には全く関係がないのだが、偶々その日、煌を呼び出していた為に責任を感じているのだろう。

 正直、あの日のことは思い出したくない。そんな気持からか、反射的に目を逸らす。あの夢の和装の女が笑う、その口元が過る。歯を食いしばって身を固くする。恐怖はすぐに、戻ってくる。いつでもだ。

 その日、彼は路上で倒れた。後で、恐らく貧血だと言われた。その時見た悪夢に出てきたのがあの女だ。記憶にはないが、気分が悪かったために悪夢を見た。そう理解しようと努めているが、困ったことに彼の脳はあの女を見た記憶を事実として扱っている。そしてそれを毎日夢に見せる。

 それだけならばまだよかったが、困ったことにあの日の夜、意識を取り戻した彼の左目は異常を来していた。

 それから、もうふた月が経つが、良くなる様子は一向にない。

 左目でものを見ようとすると暗転が現れたり、視野狭窄きょうさくがあったり。そしてそれが唐突に起きる。見えていたものが突然見えなくなるのは結構なストレスで、結果、常に覆ってしまうようになった。

 確かに、あの日は彼女に頼まれて早朝に学校に向かっていたが、もちろん彼女のせいではない。けれどそう言ったところで、彼女は悲しそうに笑うだけだった。

 黙っているのをどう思ったのか、彼女は本当に心配そうに問いかけてくる。

「本当、悪い病気じゃないの?検査しないと」

「倒れた時に一緒にして貰ってる」

 そうだった、と赤い舌をチラリと出した彼女は表情を曇らせた。

「本当ごめんね」

「関係ない。俺が一人で倒れただけだ。その日が偶々待ち合わせだっただけで。…こっちこそ、あの日は待たせて悪かった」

 乃莉子は少し安心したように笑って「うん」と頷いた。反応が段々落ち着いてきたな、と息をつく。最初、クラス代表とか言ってお見舞いに現れた彼女はぎょっとするくらい赤い目をしていたから。

「体調悪かったらすぐに言ってね」

 彼女はそう言い置いて手でバイバイ、と合図をくれる。煌は再び机に突っ伏した。室内の状況は相変わらずで、落ち着かない空気が漂っていた。

 いくらなんでも遅くないか、と思った頃、唐突にガラリ、と音を立てて前側のドアが開いた。全員が自分の席に戻ろうと反射的に動く。が次の瞬間それはさざなみのような動揺を伝える。ざわ、と空気が揺らいだ。 

 妙だ。

 思って顔を上げると、見知らぬ生徒が教卓の前に立っていた。肩口くらいまでの髪は自然な茶色。染めたような感じは受けないから日に焼けたのかもしれない。色は白いがスポーツが得意そうな健康的な体型をしていた。脚力もありそう。快活なタイプだろうか。生憎と目がよくないので見えたのは大体そんなところで、それでも彼女が学内で見かけたことのない人間なのは判った。

 どうでもいいが酷く悪目立ちしている。自分たちは一年ではあるが、二学期までに大体の面子は覚えてしまう程度の規模の、所謂田舎の学校なわけで、見たことのない生徒が突然教室に乱入し、一番目立つ教卓の前なんて場所できょろきょろ挙動不審な行動をとっていれば当然の如く注目の的だ。

 誰も声を掛けるこ となく、静まりかえる教室内に彼女は完全な異物として存在した。

 可哀想だとは思ったがわざわざ話しかけて目立つのは自分だって御免被りたい。結果三十秒ほど経過した時点で地蔵化していた彼女は、微妙にひきつった顔のまま、更に二分後の本命の登場までぴくりとも動かなかった。

 再びガラリと開く引き戸と、顔をのぞかせる担任。藤川というその小太りの中年はペンギンか何かのように小刻みに足を動かして反転しながら入室し、引き戸を閉める。その様に石化を解いた少女は目に見えてホッとした顔をした。少し笑ったようだった。

 はっきりとは見えなかったが、その表情は悪くない。

「悪いな、遅くなった」

 言葉の割にさしで申し訳ないと言った様子を見せない担任はぐるりと教室内を見回し、はて、と首を傾げる。

「おかしいな、数、数を、間違え…た、か」

 下を向いてブツブツぼやいた後、教卓の後ろに立って件の彼女に手招きをした。どうやら、季節外れの転校生のようだ。背後の白板をさして何事か言っている。彼女はおもむろにマーカーを掴み、十五センチ角くらいの字を三つ書いた。書道でもやっているのか、整ったきれいな字だった。一つ目の後に開いた空白からして、苗字が一文字のようだ。彼女が脇に避ける。ぶれて見えるものの、判読は可能だ。皇真秀、というらしい。

「すめらぎ、まほといいます」

 彼女ははっきりした声で言った。よろしくお願いします、と頭を下げる。教師が後を受けた。

「ちょっとバタバタしていて伝え忘れていて申し訳ない。転校生だ」

 その言葉に引っかかったのは彼だけではないようで、またざわざわ、と空気が震える。彼女の方には動じた様子はなく、学生カバンを持ったまま、おそらくは笑顔で立っているようだ。

「席なんだが…勘違いしててな。すまんが恵比葛、運んでもらいたいんだが」

「どこからですか?」

 乃莉子は愛想よく答えながら立ち上がる。

「旧棟の、二階の右端…一番奥だ。皇も一緒に行け」

 乃莉子が前に出ようとする。だが、それより先に

「あ……あ、やっ、や、やっぱり、や…やめよう」

急にそう、言い直した。そして唐突に乃莉子の斜め後ろ、煌の方を指す。

事代ことしろ、隣になるからお前が行ってくれ」

 隣だから、という理由は乱暴だが、確かに机を運ぶのは男の方が適任かもしれない。単純に腕力の問題だ。黙って立ち上がると、悪いな、と声をかけらた。

「いいえ。鍵は職員室ですか?」

 問いかけると、藤川は何故か少し、虚ろな目をして言った。

「いや、確か、あそこは、開い…開いて、い、たような」

 それは妙にたどたどしく絞り出す様で、どこか苦しげに聞こえた。

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