第3話 RED(レッド):赤

  「お待たせ~もっちゃん!」

「もう、遅いよ、健人くん!」

次の日曜日、健人は約束通り、もっちゃんを山まで迎えに行った。

 しかし、連日の超過勤務がたたってか、健人は寝坊し、待ち合わせの時間に、少し遅れて到着した。

 「ごめんごめん。実は俺、昨日も10時頃まで働かされてさ~。

 遅れるつもりはなかったんだけど、疲れがたまってるのかな?なかなか起きれなくて。ごめんね。」

「そっか。それなら仕方ないね…。私の方こそ、『遅いよ』なんて言ってごめんね。」

「いいのいいの!もっちゃんは気にしないで!」

「…分かった!」

こう言って2人は、笑った。

 「それで…、『森の妖精の抜き打ちファッションチェック』、今回の麻倉健人くんのファッションは…100点満点中、30点であります!」

「え…急に何!?

 ってか、30点って低すぎない?」

「だって、その服、今シーズン買ったものじゃないでしょ?」

「いや、まあ…。

 俺、ファッションは学生の頃から好きだったんだけど、社会人になってから、服を買う暇もなくて、今シーズンは買ってないんだ…。」

妖精とはいえ、女の子に自分のファッションのダメ出しをされた健人は、かなり恥ずかしそうな様子である。

 「そっか。

 それにしても今日の健人くん、ちょっとファッションが空回りしてるかな。グレーのパーカに白シャツに濃紺デニムって、確かにきれいにはまとまってるけど、もうちょっと、こなれ感が欲しいかな!

 例えば、簡単なテクニックだけど、シャツとパーカの裾をちょっとまくるとか…。それだけで、『ファッションに対する玄人感』が出るよ!」

「…はい、分かりました、もっちゃん先生!」

「分かればよろしい!」

もっちゃんは、さらに続けた。

 「そうだ、今日は私が、健人くんに似合うアイテム、選んであげる!

 せっかくだし…いいよね?」

「了解です!こちらに異存はありません!」

「ってか、いつまでそのしゃべり方続ける気?」

「それもそうだね!」

2人のやりとりは、これが数週間前に会ったとは思えないほど、息の合ったものであった。


 「それで、そういうもっちゃんは…今日もおしゃれだね。」

2人は、ショッピングモールに向けて歩き出した。そしてその道中、健人はもっちゃんにこう言った。

「ありがと、健人くん。素直に嬉しいよ!」

その日のもっちゃんの服装は、細身のロイヤルブルーのカットソーに、白のスカートを合わせたものであった。また、足元には赤色のパンプスがあり、それが差し色の効果を出している。ともかく、もっちゃんは…おしゃれだ。

 「今日は私も、いいアイテムがあったら買おうって思ってるんだ。

 でも、私一人では買えないから…買ってもらってもいい?」

そう頼むもっちゃんは、「妖精」というより、「小悪魔」だ、健人の頭の中をそんな思いがよぎったが、口に出すことは止めた。

 「…分かった。もっちゃんには良くしてもらってるし、1点くらいなら…ね。」

「嬉しい!健人くん、ありがとう!」

そうこうしているうちに健人たちは、ショッピングモールに着いた。


 「わあ、このベルト、かわいい!

 そうだ、今日は『ベルトの日』だね!」

もっちゃんは、レディースの、茶色のメッシュベルトを見て、興奮していた。

「…ってか、『ベルトの日』って何!?」

「このベルト、デザインもいいし、ウェストマークに使えそう…!」

「なるほど。

 …って、俺の質問…、」

「ごめんごめん。自分から変なこと言っといて、健人くんの質問流すのはおかしいね。

 いや特に深い意味はないんだけど、たまたまいいベルトも見つかったし…ね。

 そうだ、健人くんもベルト、買いなよ!」

そう言われた健人の今日しているベルトは、茶色のプレーンベルトであった。

 「ま、今してるベルトでもいいんだけどさ、やっぱり、小物にこだわってる男子って、素敵だと思うから…。

 健人くん、あれなんかどう?」

もっちゃんの指差す先には、黒のメッシュベルトがあった。

 「…これなんかだと、健人くんの手持ちの服とも合いそうだし、何よりさっきも言った、こなれ感が一気に出るよ!」

「なるほど。そっか。

 確かに最近は小物、買ってないしな…。

 よし、買うか!」

そう言って健人は、もっちゃんににっこり笑いかけた。

 「じゃあ健人くん、私にもあの茶色のベルト、買ってくれる?」

「分かった。いいよ。」

「じゃあとりあえず、お会計先にしよっか!」

もっちゃんはそう言ったが、ここで健人は、あることが気になった。

 「そういえば、もっちゃんの姿って、他の人には見えないんだよね?

 と、いうことは、あのベルト、そのまま買うのはちょっと、恥ずかしいな…。

 もっちゃん、目の前にいるのに何だけど、あのベルト、プレゼント包装してもらってもいいかな?

 それだと『誰かに渡すプレゼント』ってことで、恥ずかしくないから…。

 やっぱり、レディースものをそのまま買うのは、気が引けるんだ…。」

森の妖精は、ここでも「小悪魔」に転生した。

「え~どうしようかな~。」

「ちょっと、頼むよ!」

「ごめんごめん。もちろんいいよ!

何か、目の前で自分のプレゼントが包装されるのって、新鮮だもんね!」

 もっちゃんの承諾を得た健人は、プレゼントを購入した。またその間、

「あっ、プレゼント用のリボンは、こっちの色の方がいいな!」

など、もっちゃんの意見も加わり、プレゼントの包装が完了した。そして、

 「ありがと健人くん!これ、私の友達にも自慢しよっかな!」

「友達って、妖精の友達?」

「え、ま、まあね…。」

もっちゃんは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに満面の笑みに変わった。


 「じゃあ、他の健人くんのアイテムだけど…。」

その後、そう言ってもっちゃんは、健人と共に店内を回った。

 「このTシャツ、健人くんの雰囲気に合いそう!」

「こっちのカーキのカーゴパンツはどうかな?素材もリネンで今からの季節にピッタリ!」

そうやってショッピングは、ほぼ一方的に、もっちゃんが健人の服を選ぶ、という形で進んだ。もちろん健人はそれらを全て買うことはできないので、

 「ありがとう、もっちゃん。今後の参考にするよ。」

と言ったが、健人の方も、満更ではないようであった。

 そして、この時の健人は―、もっちゃんの「想い」に、全く気づいていなかった。

 もっちゃんは、お気に入りのベルトを見つけた時、本当に嬉しそうにした。しかし、もっちゃんにとってもっと嬉しかったのは、「健人からのプレゼントをもらう」、また、「健人の着るものを選んであげる」ということであった。

 『私は、森の妖精だ。だから、健人くんに恋をしても、結ばれることは、ない。

 でも、私は…目の前にいるこの人を、幸せにしたい。この人が困っているなら、その辛さを分かち合いたい。そして、この人を、笑顔に導きたい。

 健人くん…。』

満開の桜の季節もそうだが、その後訪れる新緑の季節も、時間にすれば短く、あっという間に終わってしまう。「森の妖精」と人間とのかけがえのない時間も、そんな新緑の季節のように、早く過ぎ去っていってしまうものなのかもしれない。

 『でも、私のこの想いは、本物だ。思えばこの想いは、『新緑』の色より、『情熱の赤』の方が近いかもしれない。』

健人の近くにいる森の妖精は、ふとそんなことを思った。真っ赤に燃える太陽は、(程度は違っても)春夏秋冬どんな時でも、地球を暖かく、照らしている。自分も、そんな風に、健人くんを照らし、健人くんを見守り続けたい…。森の妖精は、そんなことを思った。


 「もっちゃん、どうしたの?」

「え、あ、ううん。何でもないよ。」

もっちゃんは、少しばかりの物思いから、覚めた。


 ―その日、健人は、いつものように事務所に出勤した。そして、そこで待っているのは、いつものように大量の業務と、午後10時にまで及ぶような残業―、と、思っていた。

 「麻倉君、これ、君への通知。今すぐ中身、確認してくれる?」

「はい、分かりました、支部長。」

健人はそう言い、いつもの書類と同じように、その通知を受け取った。そして、封筒をハサミで開け、それを見た瞬間―、自分の目を疑った。

 「支部長、こ、これって…。」

「見て分からない?解雇通知。あなた、もう今日からうちの事務所に来なくていいわよ。」

「え、あ、いや、でも…。」

「聞こえないの?あなたはもう、うちの職員ではありません。今すぐ荷物まとめて、出ていってちょうだい!」

その通知を見、またその言葉を聞いた健人は、完全に固まってしまった。そして、いつものことであるが、こんな時事務所の同僚は、何もしてくれない。

 その後数十秒間、事務所は真空状態であるかのように何もなく、音一つない状態になり、そしてその状態を切り裂くように、健人が、声を出した。

 「どうして、ですか…?」

「解雇になった理由?それは簡単ね。あなたが、使えないから。

 ここに就職する時のオリエンテーションで、言ってなかった?ここは、3ヶ月間は試用期間で、その間で職員としての適性がないと上の人間が判断した場合は、その職員を解雇することができるの。

 だから、あなたに適性がなかった。それだけよ。」

 その発言を聞く前から、健人の中で「怒り」のボルテージは高まっており、支部長の発言は、そんな健人のヒートアップした心に思いっきり冷や水を浴びせたかのように、冷たいものであった。しかし、その水も一瞬で湯に変えてしまうことができるほど、健人は怒り狂っていた。

 「でも、それって、不当解雇ですよね?」

「そうかしら?最初からそういう契約だったと思うけど?

 それにあなた、私のこと嫌いなんでしょ?ちょうど良かったんじゃない?」

『それが原因か!』

健人の頭の中の、かろうじて冷静な部分は、その言葉で状況を、飲み込むことができた。つまりは、前の面談だ。この事務所は、支部長と課長、いやそれだけでなく、上の人間が結託して、不必要で邪魔な下の人間を、消そうとしている。

 『こんなの、福祉とは名ばかりだ。そうだ。俺たちは車椅子とかの、福祉用具と変わりない。その車椅子みたいに、俺たち平の人間は、例えば古くなったり、どこかが故障したりすれば、スクラップ扱いで捨てられるんだ。』

健人はそう思い、激しく憤った。

 そして、

「でもそれだけじゃないわよ。あなた、仕事をサボって、デートしてたでしょ!?」

『な、何でそれを…?もっちゃんは他の人には見えないはずなのに…?』

健人は動揺し、そしてその動揺が支部長に伝わったらしく、

「どうやら図星のようね。

 うちの職員の1人が、あなたがその彼女のために、プレゼントを買う所、見てたわよ。」

支部長は、そう言い放った。

 そして、

「確か私、その日も出勤するように電話、したわよね?それをあなた、『用事がある』とか何とか言って、結局女の子に、うつつをぬかしてたわけね。

 それで、福祉の仕事が勤まると思う?この仕事は、いつ何時、何が起こるか分からないの。だから、職員は24時間365日、常に臨戦態勢でいないといけない。

 それを、女の子にプレゼントを買うために仕事を休むなんて、あり得ない!あなた、福祉の職員としての自覚が足りないわ。そんな人間は…、クビよ。

 じゃあ、早く荷物をまとめて出て行きなさい!」

 健人はそこまで聞いてから、荷物をまとめ始めた。繰り返すが、こんな時、同僚は健人に何もしてくれない。せいぜい、この話が出た間、他の人間は業務を一旦止め、健人と支部長のやりとりに耳を傾けていたくらいだ。

 「ほら、こんな奴のことなんか気にしないで、仕事に戻るわよ!」

支部長の号令で、無音であった事務所に、パソコンのキーボードを叩く音や、電話の声など、「仕事」の音が復活した。


 『俺、この先、行くあてなんかない…。』

荷物をまとめ終わり、事務所を出た健人は、ふらふらと、街をさまよい歩いていた。

 すると、外回りであろうスーツ姿のサラリーマンたちが、健人の横を、通り過ぎていく。『この人たちは、今の職場に不満とか、持ってないんだろうか?

 …でも、どんな職場であれ、この人たちには、働く場所がある。そして、給料ももらえる。それに比べて、俺は…、

 今の俺には、何もない。』

健人は、知らない街で迷子になった子どものように、泣きそうになりながら街をさまよった。また、健人の目からは、今まで普通に生活していた街が、自分自身の解雇によってその色を変え、本当に「知らない街」になってしまったかのようであった。

 そのまま健人はふらふらし、気づいたら健人は、森の妖精、もっちゃんがいる、小高い山に来ていた。


 「どうしたの、健人くん?」

山にやって来た健人をどこかから見ていたのか、もっちゃんは、健人が山のいつもの場所に来るとすぐに現れ、健人にそう訊いた。

 そして、もっちゃんは健人のただならぬ様子に、すぐに気づいた。

 「…健人くん、何かあった?」

「うるせえよ!」

しかし、健人はこの時、もっちゃんに冷たくあたってしまう。

「…えっ?」

「だからうるせえって言ってんだろ!」

「健人くん…。」

「今日俺、クビになったんだよ!明日から、俺は無職だよ!」

「ホ、ホントに?

 でもそんなの、不当解雇なんじゃ…?」

「ああそうだよ。不当解雇だよ。

 でも、どうしようもねえんだよ!それが、組織ってもんなんだよ!」

「でも、どうして急に…?」

山に入ってからの健人は、いつもの健人ではなかった。健人からは、自分の本当の思い、もっちゃんに対する感謝の気持ちとは裏腹に、次々と、もっちゃんに対する罵倒の言葉が出て来る。

 「そうだ、それはお前のせいだよ!

 この前、俺とお前とで、ショッピングに行ったよな?その時、俺はお前にプレゼントのベルト、買ったよな?それを、俺の元職場の人間に見られてたんだよ!それで、

 『福祉の職員としての自覚が足りない。』

って、言われてこのザマだよ!

 そうだ、お前と一緒にあんなとこ行かなきゃ、そんな風には思われなかったよ!だから今回の件、全部お前のせいだよ!」

 健人は、何かに取り憑かれたかのように、まくし立てた。さらに、健人の言葉は続く。

 「そうだ、森の妖精さん?あんた、魔法でこの状況、良くしてくれるのかよ?」

「それは…、できないよ。」

「だよなあ!そんな力、ねえよなあ!

 何だよ!何の役にも立たねえなあ!だったら、こんなとこ居ねえで、さっさと天国にでもどこにでも、帰ったらどうだ!?」

自分でも最低のことをしているということは、分かっている。しかし、その日の健人は、そんな自分を抑えることができなかった。

 「…分かった。今日の所は、帰るね。

 でも、私知ってるよ。健人くんは、本当はそんな人じゃない、ってこと。

 だから…、

 また会える日を、楽しみに待ってるね。

 また、遊びに来てね。」

森の妖精は、そう言って、その日は消えていった。

 

 もっちゃんが去った後の山には、静けさだけが漂っていた。

 『俺、最低だ…。』

そして、健人の心にも、そんな山の静けさにも負けない、寂寥感が漂っていた。

『悪いのは、全部あの事務所の方だ。俺を、一方的に解雇して…。

 なのに、俺は、もっちゃんにあたってしまった…。』

その寂寥感の後、健人の心の中には、激しい後悔が、あった。

『とりあえず、今日は帰ろう。それで、今度この山に来た時、もっちゃんに会った時、ちゃんと、謝ろう。』

健人はそう思い、家に帰ろうとした…その時。

 健人は、それを発見した。

 それは、手のひらサイズの、サッカーのユニフォーム型のもので、中に綿が詰められた、手作りのお守りであった。そして、そのお守りの後ろ側には、「中高校(なかこうこう)」と、健人の出身校が刺繍されている。

 『…あっ!?』

健人はそれを見た瞬間、あることを、思い出した。そして…、健人は一目散に、自分の家へと向かった。


 家に着いた健人は、鍵を開けて中に入り、そして着替えもせずに、自分の机の引き出しを開けた。そしてそこには、さっき山で拾ったものと同じお守りが、大切にしまわれてあった。そして、その山で拾ったものとは、異なる点が一点…。それは、健人の持っている方には、後ろ側の「中高校」の刺繍だけでなく、前側に、

 「けんとくんへ」

と書かれた、刺繍があることだ。

 それを見た瞬間、健人の頭の中には、遥か彼方にあるようで、実はそれほど昔ではなかった、ある記憶が、蘇った。


※ ※ ※ ※

 〈5年前〉

 『萌花が、帰ってくる…!?』

18歳、高校3年生の健人は、母親から萌花が健人の住む街に帰って来ることを聞き、びっくりすると共に、嬉しい気持ちになった。

 何でも、

「萌花ちゃんと鈴ちゃんの家族、だいぶん前に仕事の関係で引っ越しちゃったけど、またうちの地元に転勤が決まって、そのままうちの近くに、住むらしいわよ。」

とのことである。

 また、

 「鈴ちゃんは今は大学生だから一人暮らししてるけど、萌花ちゃんは健人と同じ高校生で、一応、健人と同じ高校に編入することも考えてるらしいわよ。

 まあ、高3で編入っていうのも、なかなか大変だとは思うけど…。」

ということだ。

 「まあとりあえず、萌花ちゃんが健人とおんなじ高校に通うことになったら、仲良くしてあげてね。」

「もちろんだよ、母さん!」

健人は、二つ返事で母の呼びかけに答えた。そして、健人の心の中に、晴れやかな光が差した。

 『萌花…。』

思えば、この時点から9年前、両想いであった2人は、家庭の都合で、離れ離れになった。またその当時は2人は小学生ということもあり、携帯電話も持っておらず、2人は連絡先も、交換できなかった。

 そして、その後の健人も中学時代、また高校時代、彼女ができたことも何度かあるが、その恋愛もうまくは続かなかった。いや、健人は萌花に対する気持ちが強すぎて、それ以外の女の子を、真剣に好きでいようとは思わなかったのかもしれない。

 『萌花。やっぱり俺には、萌花しかいない。逢いたい、逢いたいよ…。』

中学・高校時代の健人は、度々こう思うことがあった。

 そして、時にはこんなこともあった。それは、「萌花が健人の夢の中に出て来る。」と、いうことだ。そこでの萌花は、身長はもちろん小学生の時に比べて伸び、それなりに成長してもいるが、その顔は、少女のようなあどけなさが残り、かわいらしい萌花の雰囲気を保っている―。そして、

「萌花!」

と健人が夢の中で叫ぶと、決まってその夢は終わり、健人はそれを夢だと気づき、それが悔しいやら、切ないやら、複雑な気持ちになるのであった。

 そんな萌花に対する気持ちを持ち続けていたある日、どこから聞いたのか母親が「萌花たちが帰って来る。」というニュースを健人に伝え、健人は、

 『これは夢なんかじゃない!萌花は、本当に帰って来るんだ!』

と思い、胸の中が甘酸っぱい気持ちで満たされた。それはまるで、小学生の時に埋めた「感情のタイムカプセル」を、高校生になって久しぶりに開け、その時の恋する男の子の気持ちが、胸の中いっぱいに広がる、そんな感情であった。

 いや、健人にとって、その感情は「タイムカプセル」などではなく、小学生の時からずっと続く、「現在進行形」の気持ちであったのかもしれない。

『俺、やっぱり、萌花のことが好きだ。』

健人は、自分の気持ちを再確認した。


 「そういえばさ俺、今度、サッカー部のインターハイがあるんだよね。萌花たち、見に来てくれないかな…。」

健人が母にそう提案したのは、萌花が帰って来ると聞いてから、数日後のことであった。

 「あ、そっか。健人、そういえばもうすぐインターハイか。

 分かった。元木さんのお母さんの連絡先は聞いているから、伝えてみるね。」

「ありがとう、母さん!」

健人は、今までで1番、そしてこれ以上ないくらい、母親に感謝した。

『俺、若干反抗期もあったけど、やっぱりうちの母親は、良い母さんだ。』

健人はそう思ったが、口に出すのは恥ずかしいので止めておいた。

 『もうすぐ、萌花に逢える…。

 俺、小学生の頃に比べて、サッカーがうまくなったんだ。それで、一応今のサッカー部で、レギュラーを獲っているんだ。…まあ、対して強くはないチームだけど。

 でも、俺は萌花に、いい所を見て欲しい。だから次のインターハイ1回戦、俺は絶対に、勝たないといけない。絶対勝って、活躍して、萌花に自分のかっこいい所、見せるんだ!』

健人はそう思い、次のインターハイに向けて、気合いを入れた。

 また、

『でも、もし萌花に、彼氏がいたらどうしよう…。萌花、モテそうだし、そうだとしたら俺、辛いな…。

 それに、確かに俺、萌花からラブレターもらったけど、それは小学生の時の話だし、萌花の気持ちは、変わってるかも…。

 ああ~!そんなのやだなあ…。』

とも、健人は考えた。そのせいか、

『萌花ももう高校生だし、携帯くらい持ってるだろう。

 でも、母さんづてに番号訊くのって、違う気がする…。

 後で萌花に逢った時に、直接訊こう…。』

と、母親を通して萌花の連絡先を訊くことに、健人は及び腰であった。

 しかし、

 『何はともあれ、俺は萌花のことが好きだ。だから、俺はこの気持ちを、萌花に伝えないといけない。

 そうだ、前回は、萌花がラブレターをくれたのに、俺はそれに『はい。』ということもできなかった。だから…、

 萌花の気持ちが変わっていてもいい。俺は、ちゃんとこの気持ち、あの時言えなかったことを、伝えるんだ!』

健人は、そう思いを新たにした。


 「健人、良かったわね~!

 健人のインターハイの試合、萌花ちゃんと鈴ちゃんが、見に来てくれるんだって!」

健人がその提案をしてから次の日、母は早くも、健人にそう伝えた。(前日、健人は母親に、インターハイの日程を伝えていた。)

 「そ、そうなんだ。

 でも、決まるの早いね。」

「まあ、『善は急げ。』って、言うでしょう?鈴ちゃんもその日は大学の講義はないらしいし、萌花ちゃんも予定はないそうだし、大丈夫らしいよ!

 とりあえず健人は試合、頑張らないとダメね。」

健人は、萌花に逢える喜びで、試合はまだ始まっていないにも関わらず、気分が高揚した。また、

 『そういえば、鈴さんに会うのも久しぶりだな。

 鈴さんにも小学の時は良くしてもらったし、久しぶりに会うの、楽しみだな。』

とも、健人は思った。

 そして、健人は来たるインターハイに向けて、練習に練習を重ねた。

 『ドリブル・パス・シュート、そして、フリーキック…。もっと精度を高めないといけない。それに、チームの士気も、高めないといけない。俺は、次の試合、萌花のために、絶対勝つ!』

健人は、燃えていた。


 そして、インターハイの1回戦、当日。

 試合前の緊張感がチーム全体に漂い、その競技場は、独特の雰囲気を醸し出している。また、その日は5月を間近に控えた4月の終わりで、ちょうどその競技場の近くにも桜の木があり、その木が新緑の色に、染まっている。

 そして、健人はその日、サッカーの試合から来るもの、そして「萌花に逢える」ことから来るもの、その2種類の緊張感に、支配されていた。

 また、健人はちょうど試合前のその時間、スタンドを見回したが…、萌花たちの姿がない。

 『萌花たち、遅いなあ…。

 道が、混んでるのかな?』

健人は競技場についてから試合開始ギリギリまで、競技場を見たが萌花たちの姿は一向に見つけられなかった。

 そして、試合開始の時間となった。


 健人はこの日も、いつも通りMF(ミッドフィルダー)のレギュラーとして、スタメンで起用された。そして、選手たちがピッチに立った瞬間、両チームのブラスバンド部を中心とする応援団が管楽器等を鳴らし、応援合戦を繰り広げた。また、これは普通の公立高校のインターハイ、1回戦であるにも関わらず、そのスタンドは満員となっている。

 そして、健人はそのスタンドの、自分の高校の応援団の辺りを最終確認したが、萌花らしき姿はない。

 『おかしいな…。

 もしかして、萌花の顔と雰囲気が変わった?まあ最後に会ったのは小学生の時だし、その可能性はあるかも…。

 いやいやでも、俺なら絶対に、萌花がいるなら分かる!』

その部分に関して、健人は確信を持っていた。

 『まあでも、この観客の入りようじゃ、萌花がいても見つからないか…。

 ともかく、俺は良いプレーをして、勝つんだ。見ててくれよ、萌花!』

健人は、萌花のためにも、ここは試合に集中しようと思い、気持ちを切り替えた。

 そして…、キックオフ。

 その試合、健人たちは相手に先制されはしたものの、前半終了間際に健人側のFW(フォワード)がミドルシュートを決めて追いつき、1―1の同点で前半を折り返した。そしてハーフタイム、監督からは、

 「私が思うに、前半のお前らは少し固くなっていて、思い通りのプレーができていなかった。ただ、前半終了間際のゴールは、見事だった。

 だから、後半は大丈夫だ。いつも通り、練習でやって来たことを発揮できれば、この試合、必ず勝てる!

 あと、後半はもう少し攻撃的に行くんだ。しっかり前線からプレスをかけて、ゴールにつなげよう!」

「よし、やるぞ!」

監督の言葉を聞いた直後、健人たちのキャプテンがそう、声を出した。そして健人たちは円陣を組み、残り45分、全力で戦うことを決めた。


 そして、後半―。健人たちは、前半以上に、相手に対してプレッシャーをかける。当然のことながら、後半は前半に比べて疲れており、体力も奪われているが、健人たちのチームは、それを感じさせないプレーをした。

 しかし、相手もやられっぱなしではない。どちらかというと後半の相手は防戦一方であったが、それでも数少ないカウンターのチャンスを作り、健人たちのチームにシュートを浴びせる。(その時は、キーパーのファインセーブで難を逃れ、健人たちはキーパーに感謝した。)

 そうこうして、お互いが点を決められないうちに、後半40分を迎えた。その時ボールは健人に渡り、健人はドリブルで、相手のペナルティエリアに切れ込もうとした。その時―。

 健人が、ファウルで倒された。

 「ピー。」

審判の笛が鳴り、相手DF(ディフェンダー)の選手に、イエローカードが出される。そして、健人たちは絶好の位置で、フリーキックを得た。

 『惜しいなあ…もう少し中に入っていたら、PKだったのに…。』

健人はそう思ったが、それでも大きなチャンスであることに変わりはない。

 そしてキャプテンが、

「よし、健人。お前がもらったフリーキックだ。この1本、確実に決めて、この試合、勝とうぜ!」

と、健人に告げた。

 「…分かった。」

健人はそれを聞いた瞬間、頭の中で自分のキックがゴールに吸い寄せられる瞬間を思い描き、蹴る準備をした。

 そして…、

「ピー。」

 試合再開の笛が鳴り、精神を集中させていた健人は、ゴールに向かって、ボールを、蹴った。

 「やった、ゴールだ!」

次の瞬間、健人は、チームメイトの手荒い祝福に、包まれた。健人の蹴ったボールは、健人のイメージ通りに、きれいな、バナナのようなカーブを描き、ゴールに突き刺さったのである。

 「よし、あと5分ちょっとだ!全力で守るぜ、健人!」

「おう!」

キャプテンと健人は、そのわずかな間に、そう言い合った。

 そして、

「ピー、ピー、ピー。」

ホイッスルが、試合終了を告げる。健人たちはこの試合、インターハイの1回戦、2―1で、勝利したのであった。

 『やった、萌花!やったよ!』

健人は、試合に集中するため、心の中の引き出しに大事にしまっておいた、萌花に対する感情を、試合終了と同時に、丁寧かつ速く、引き出しから取り出した。

 「よし、お前ら、よくやった!

 次の試合も、勝つぞ!」

監督はロッカールームで、生徒たちにこう声をかけ、健人たちは、試合に勝った喜びに包まれた。


 萌花・鈴の2人が、事故に巻き込まれて亡くなった、と健人が聞いたのは、試合が終わってからしばらくした後のことであった。

 その悲報は、まず事故の現場に来た救急救命士から、萌花・鈴の母の携帯に連絡が入り、その後、健人の母親の携帯に萌花たちの母が連絡し、それを健人の母が健人本人の携帯に連絡したのであった。

 何でも、鈴の運転している車が、見通しの悪い小さな交差点で、赤信号で停止している所へ、信号を無視した車が突っ込んで来、鈴たちの車にぶつかったそうだ。

 もちろん、繰り返すがその交差点は見通しが悪く、事故が多発する所ではあったらしいが、そんなことは言い訳にはならない。

 また、相手のドライバーは、昼間からお酒を飲んでおり、そのまま運転していたということで、言い逃れは全くできない状況であった。(もちろん、そのドライバーは近所の人の通報後、現行犯逮捕された。)

 そして、意識不明となった萌花・鈴の2人を、救急救命士たちは一生懸命に蘇生させようとしたが、2人は、そのまま帰らぬ人となってしまった。

 「母さん、嘘だろ!?そんなの、嘘だよなあ!?」

健人は、まだ勝利の余韻冷めやらぬロッカールームで、たまたま自分の携帯の着信に気づき、その事故を知った。

 「健人、私もショックだし、気持ちは分かる。

 でも、これは、事実なのよ…。」

そう言って健人の母は慰めるが、それはその時の健人にとって、何の効果もなかった。

 「どうしてだよ!?俺、試合に勝ったのに!萌花にいい所、見せるはずだったのに…!」

健人の号泣は、止まらない。

 また、それを傍で見て、状況を察した健人のチームメイトたちが、

「大丈夫か、健人?」

と声をかけたが、

「うるせえよ!お前らなんかに、俺の気持ちなんか分かんねえよ!」

と健人は怒鳴り、そのままロッカールームを飛び出してしまった。

 『萌花…、俺、今日は大活躍したんだ。フリーキックも決めたし、試合にも勝ったし…。

 萌花、なのに、何で萌花がいねえんだよ?

俺は、俺は…、萌花とこの感動を、分かち合いたかった。俺は今日、萌花のために戦った。それで、萌花のために、今日の試合に勝った。それで…、この後、俺は萌花に再会する、はずだった。なのに…、

 俺は萌花の笑顔が、見たかった。俺を応援してくれる、健気な萌花…。いや、それだけじゃない。俺は萌花が何かを頑張っているなら、それを応援したかった。一緒に、夢を見て、成長していきたかった。それが…、

 どうでもいい奴の、飲酒運転のせいで!』

健人は、その犯人を殺してやりたい衝動にかられたが、

 『そんなことをしても、萌花は帰っては来ない。』

と思い、何とか自制した。

 そして、ロッカールームを飛び出して来た健人の頭上では、4月の終わりにしてはやけに「真っ赤」な太陽が、辺りを照らしていた。そして、その「赤」は、健人の、泣き腫らした目の色にそっくりである、健人はふと、そんなことを思った。また、「赤」といえば、人間の体内に流れる血液の色―。萌花は亡くなる時、どれだけ血を流したのだろう。それは、とても痛かったのではないか。萌花は、かわいそうだ―。健人はそんなことも考え、「赤」い太陽が、恨めしくなった。

 『そうだ。太陽が赤いなんて、どれだけ嫌味なんだ。俺はサッカーが好きだから、知っている。アルゼンチンやウルグアイの国旗では、太陽は「黄色」で表されている。それを、日本では、「真っ赤」で、表すんだ。

 何て、不謹慎なんだろう…。』

いくら健人が考えても、死んだ人は帰っては来ない。健人はそれを思い、また、泣いた。


※ ※ ※ ※

 『俺、今まで何やってたんだろう。

 自分のことばっか考えて、大事なこと、忘れてた。

 そうだ。俺はブラックな職場でこき使われて、そのせいで萌花との思い出も何もかも、頭の隅の方に、押し込んでいたんだ。

 …俺、もっちゃんに、ちゃんと会って、目と目を合わせて、謝らないといけない…。』

健人はそう思い、次の日、山に行くことにした。


 「健人くん、おはよう!」

「おはよう…。」

健人は翌日、いつもの山に来ていた。そして、昨日の件がなかったかのようなもっちゃんの出迎えに、健人は少し、いやかなり救われ、安心した。

 「さあ健人くん、今日は何する?」

もっちゃんの笑顔での質問に、健人は直接答えず、

「あの、もっちゃん、これ…、」

と、昨日拾った、綿のお守りを差し出した。

 「あ、これ…。

 昨日帰った時、思ったんだよね。

 『あ、もしかして私、それを落として来たんじゃないか』、って…。」

「わざと、だよね…?」

もっちゃんは笑顔を崩さず、また健人の目は、真剣そのものであった。

 「え、私が、わざとそれを落とした、って言いたいの?」

「…うん。」

「そっか。ばれちゃったか。さすが健人くんだね!

 私、健人くんに話があるんだ。」

「俺も、もっちゃんに話がある。」

「…じゃあ先に、私から話していい?」

「もちろん。いいよ。」

そこまで話をした健人ともっちゃんの間には、少しばかりの緊張感が流れている。

 そして、しばらくの2人の間の静寂の後、もっちゃんが、口を開いた。

 「実は私、健人くんに嘘ついてることがあるんだ。

 私ね、実は、『健人くんより歳が3つ上』なの。」

「…でしょうね。

 だってあなたは…、

 『元木、鈴』さんでしょ?」

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