スローダウン

「ただいま」

そっと家の扉を開け、玄関の電気を点け、靴を脱ぐ。散らかった玄関に脱ぎ散らかされた大きな革靴を見ると、帰ってきたんだなと思った。キッチンに向かうと、とてつもないアルコール臭と煙草臭が鼻を刺す。

「おお、健一か」

野太い声になんとなく突き刺されたような感覚を覚える。

「ごめん、遅くなった」

「ああ、構わん構わん。とりあえず座りな」

椅子に座るように指示される。鼻が曲がりそうな臭いに頭が痛くなるが、着席する。机の上にはビールの空き缶が5本くらい転がっている。

「今六本目?」

訊くと。

「ああ、お前も飲みな」

と、冷蔵庫の中にストックされた500ミリリットルビールを取り出し、縺れる足で椅子に戻りながら僕に手渡す。

「今日は一本だけだけどいい?」

「なんだ、一本だけか。遠慮すんなよ。」

露骨に不服そうな顔をし、ビールを呷る。早く飲んだほうがいいと判断し、プルタブを開き、缶を口につけ、傾ける。口の中が苦みで満たされる。全く以て美味しいと思えない。精一杯の作り笑いで、美味いね、と。すると彼は、

「全然美味くねえけどな。もっと美味いビールはいっぱいあるんだよ。高えからそう簡単に飲めねえんだけどな。」

と、またもビールを飲み干す。空き缶がまた机の上に転がる。

完全に真っ赤になった顔をこちらに向けると、彼は続けてこう言った。

「おい健一、お前の飲んでるビールをくれよ。冷蔵庫にとりに行くのが面倒臭い」

手渡すと、彼はまたそれを口につけ、飲み始めた。

「じゃあごめん、今日はもう寝るから」

そそくさと立ち上がり、その場を離れようとしたところで、いつものように。

「じゃ、あいつになんか食わしとけ。水と飯だけやっとけばあとはなんとかなるだろ。物置な。鍵はこれな」

僕はそれを了承し、鍵を受け取って物置に向かった。


物置のドアを開け、電気を点ける。きついアンモニア臭を感じ、顔を顰める。

それと同時に、声がした。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

心がどす黒く染まる。声のする方を見る。

そこにいたのは、服を着ていない、檻に入れられた痣だらけの少女だった。

わかっている。服を着ていないんじゃない。服を着せてもらえないのだ。

腫れた口元を必死に動かし、ごめんなさい、と続ける。

「大丈夫、僕だよ。痛いことなんかしないよ。大丈夫だから」

そう言うと、ようやく彼女は謝ることをやめて、こちらを見る。

「……兄さんか…」

安堵の表情を見せる。その表情は、途轍もなく惨めで、途轍もなく痛ましい。

「ごめんな。ジュース飲みたいか?部屋から取ってきたからな、好きなだけ飲めよ」

しかし彼女は首を振った。

「飲み物飲んだらトイレに行きたくなっちゃうから飲みたくない…」

その言葉で、状況の悪化を察した。

「なあ、ここに鍵があるんだ。今晩は布団で寝たくないか?」

しかし、彼女は首を振る。

「大丈夫、今日は父さんはもう酒の飲み過ぎで歩けないよ。多分そのまま寝るから。だから一晩ここから出たってばれないんだよ。魅力的な提案じゃないか?」

彼女は答えない。ただ子供がいやいやをするように首を横に振るだけだ。

彼女の手を取る。その手はやせ細り、骨と皮だけになってしまったかのようだ。

「ごめんな、本当は毎日来たいんだけど、父さんが鍵をくれないんだ。本当にごめんな。ジュース、飲みなよ。トイレも連れて行ってあげる。な。お願いだから、飲んでくれないか?」

蓋を開けて手渡すと、彼女はそれを口につけた。細い喉が上下する。とてもそれは儚いもののように見えた。

「兄さん」

か細い声で、僕を呼ぶ。どうした?と訊くと。

「ごめんなさい、私なんかに…兄さんに迷惑かかっちゃうよね…」

大粒の涙が頬を伝う。それを拭きとってやりたいが、顔が腫れていて触れるのが躊躇われ、結局僕はそれを眺めているだけだった。


今日も夜が更ける。

僕は今日も眠れない。

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青い宝箱 @5-hydroxytryptamine

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