夢想
どうやら机に伏して眠っていたようだ。
慌てて周囲を見回すが、誰もそれを咎める者はいない。
黒板にはチョークの音が響くが、それを見たって何を書いているかわかったものではなかった。年老いた小太り気味の教師が何やらひたすら書き連ねた数字だか文字だかよくわからない羅列が並び、アルファ波を放出するかのように退屈な抑揚の少ない声でぶつぶつと話す。ああ、そういえば大林の授業を受けていたんだった。
もう一度周囲を見渡すと、つい今しがたまでの僕と全く同じ格好で机に突っ伏している人間が大体教室の三分の一を占めていた。机に伏してこそないものの座ったまま舟を漕いでいる生徒も加えると教室の三分の二程度いるのではないだろうか。残りの三割三分三厘は一見真面目に授業を受けているように見えるが、実態はわからない。
大林は眠っている生徒を咎めることもせず、問題を生徒に解答させることもせず、ただ一人黒板にチョークを叩きつけるように解読不能な羅列を並べ立ててはこちらに振り返りもせず黒板に向かってコミュニケーションを取っている。真面目に受けていると思われる三割強の生徒が必死に書き写そうとする。そんな中、チャイムは鳴った。授業終了後の起立、礼、着席の儀式が行われ、大林は教室をそそくさと出て行った。
今の授業で使った教科書を机に仕舞っていたところで、誰かが欠伸をしながら近づいてきた。後ろを振り向くと、
「あー疲れた。めっちゃ退屈だったな」
という声と共に、友人の西村が近づいてきた。
「お前、退屈だったも何もぐっすりと寝てたじゃないか。涎の跡ついてるぞ」
西村の口元を指差すと、彼は慌ててティッシュペーパーをポケットから出そうとするが、その顔はすぐにしまったと言っているようなものに変化した。
「何、ティッシュ忘れたの」
「ああ。…貸してくれないか」
「返す必要はない」
僕からティッシュを奪い取るかの勢いで掴み、口元を拭く。
「取れた?」
「いやまだだ、もう少し右も」
すごい勢いで拭く。肌に悪いのではないかと余計な心配をしてしまう。
「今度は取れた?」
「取れたよ」
そういうと、彼は安堵の表情を見せた。
「それにしても、あのハゲの授業が退屈すぎるのが悪いだろ。みんな寝てるし聴いてても何言ってるか全然わからんし。」
まあな、と応える。あれを聞いて真面目にノートを取ったって労力がかかるだけで、それならまだ教科書をノートに丸写ししたほうがマシだろう。
「じゃ、ホームルーム始まるし戻るわ」
「ああ」
ホームルームも終わり、そそくさと鞄を背負って教室を出ようとしているとまた西村に声をかけられた。
「なあ高橋、今日どうする?」
「いや、何も決めてないが。なんか予定とかあるのか?」
「じゃあ今日もいつも通り俺の家でいいか?」
「ああ、じゃあ行くわ」
自転車置き場で自転車を取り出し、並走しながらいつものように西村の家に向かって漕ぎ出す。もう夕方とはいえ、じりじりと太陽光が体を温め、汗が出る。
「暑いな、最近」
そうだな、と返す。横を見るとかなり暑そうにしている西村がいた。
早く帰って冷房の効いた部屋でゲームでもしようぜ、と西村は続けた。
西村の家は学校から遠くはないが、帰りは上り基調の道程なので、なおのこと汗が首筋を伝う。それでも漕ぎ続けると、見慣れた赤屋根の家が見えてきて、僕は少し漕ぐスピードを上げた。
「お邪魔します」
お邪魔しますという挨拶は、もしかしたら邪魔をするかもしれないが許してほしい、ということなので、僕は本来あまり好きではないのだが、とはいえ他にいい挨拶もないので渋々使っている。それにお邪魔しますと言って機嫌を損ねる人間はあまりいないので、そのようなよくわからないものに拘泥するよりは良いだろうとの判断のもと使用している。何度も繰り返したこの思考をまた頭の中に浮かべていたところ、西村の母がこちらを見つけ、いらっしゃい、と声をかけてくれる。どうもこの人は僕の事が気に入っているらしい。最も、友人の親に好かれるのは良いことはあれど困ることは全くないので僕としては非常に都合がいい。
西村は彼の母が私に何か話しかけようとするのを遮り、
「わかったわかった母さん。とりあえず部屋行くから」
と僕を引っ張る。反抗期なのだろうか。僕はそれに従い、彼の部屋を目指した。
気が付けばもう夜の七時を回っていた。
「すまん西村、そろそろ帰るわ」
そう言い、立ち上がりドアに向かっていたところで、目の前のドアが突然ノックされた。
「和樹、晩御飯できたよ」
西村家は夕食の時間らしい。邪魔をしてはならないと思い帰ろうとすると。
「高橋君も一緒にどう?今日はカレーだよ」
突然夕食に誘われてしまった。どうしたものか。西村の顔を見る。その顔には一緒に食べようと書いてあった。
「母さん、ちょっと待ってて。すぐ行く」
そう言った後、西村に促される。
「でも今日家に連絡してないんだよな…」
「これからすればいいじゃん。どうせまだだろ?」
「まあ、ね」
「じゃあ決定、行くぞ」
ダイニングキッチンに行くと、そこには西村の母だけでなく、もう一人いた。
「あ、父さん帰ってたんだ。おかえり」
どうやら彼の父親らしい。まあそれもそうか、と思う。よく見ると鼻筋や口元あたりがとても似ている。
「こんにちは、お邪魔してます。和樹くんと仲良くさせて頂いてます、高橋です」
「ああ、君が高橋くんか。よく話には聞いてるよ、うちの息子と仲良くしてくれてて嬉しいよ」
いきなり感謝されてしまい、面食らう。
「うちの和樹はもともとあまり友達が今までいなくてね、家に友達呼ぶことなんてなかったんだよ。」
「そうなんですか?意外です」
振り返って西村の顔を見る。気恥ずかしげな表情で、
「父さん、そういうのいいって。いちいち言わなくても」
と訴える。わかったわかった、と彼の父が言い。
「さ、じゃあ高橋君も座って座って」
彼の母に着席を促される。
「すみません、お邪魔します。」
着席するとすぐに夕食が運ばれてきた。先ほど聞いていた通り、カレーライスが運ばれてくる。銘々に皿が運ばれ、食事会が始まった。
「今日はご飯まで頂いてありがとうございました、失礼します」
「いえいえ、全然いいのよ。また遊びに来てね。」
「じゃあ高橋、また明日な」
西村と彼の母に見送られ、家を出る。
日が長くなった今でも、この時間になると流石に周囲は暗い。
急いで帰らないと。下り坂を飛ばしていく。
ふと、僕の頭に、西村の父の言葉が蘇る。
「うちの和樹はもともとあまり友達が今までいなくてね、家に友達呼ぶことなんてなかったんだよ。」
その言葉を打ち消すように、急いで家を目指す。
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