第3章 決着-2

「ファンを装った本人?」

 思わず桃瀬の声が裏返った。対局前、奈古からの電話。

「はい。有名なエンジンさんは、車先生本人です」

「いやいやさすがにそれは」

「見たんです」

「書いているところをか」

「はい」

「本当だとしたら、隠れてやらないか」

「もちろん隠れてましたけど……私、手の動き全部覚えられるんで」

 奈古は、遠くにいる人の手の動きを一目見ただけで完璧に覚え、それを再現することができる。スマホを操作する車の姿を見て、何を打ち込んでいたかがわかったのである。

「そうなの」

「そうなの、です。で、打ち込んだ言葉を検索したら、エンジンさんがまさにつぶやいていて」

「なんでそんなことを」

「本心じゃないですか」

「本心?」

「車さん、車さんのことが大好きで、ファンで、勝つか心配して、勝ったらうれしいんじゃないですか」

「ううむ」

 常人にはありえない。しかし、車は常人ではない。

「了解ですか?」

「あ、ああ。けど、先月から持ち込み禁止になったじゃないか、電子機器」

「そこです。私も思ったんです。最近もエンジンさんは対局中書き込んでますし。別の人に頼んでいるのかとも考えたんですが……多分違います」

「なんでわかるんだ」

「書き込む時間が、ちょうどだったので。10時ちょうど、11時50分、15時30分、19時25分。それまでの書き込みと比べても明白に、0か5の時間」

 桃瀬は、電話であることを幸運に感じた。今彼は、苦笑していたのだ。それは、畏れの感情からだった。

「つまり、指定時間に投稿するようにしていると」

「持ち時間と対局相手から、からだいたいの流れは推測できるということでしょうね。それでも、完全というわけにはいかないはずです」

「大したものだ」

「いえいえ」



 それでも。車の秘密を知っても、それを利用しても、桃瀬には勝てる自信がなかった。

 車の力はずば抜けている。動揺しても、おそらく家族を人質に取られても、将棋に負けることはないだろう。

 よって車は、布石を打つことにした。車の心を少しずつ弱らせるのである。

 桃瀬の目には、作戦は成功に見えた。


【車四冠、一年間の休場】


「え」

 思わず桃瀬は、間抜けな声を出してしまった。

 体調不良により、車四冠が一年間の休場を申し出た。タイトルは全て返上。

 桃瀬は、動けなくなった。体も心も、何かに縛り付けられてしまったようだった。

「その程度なのか、車」

 出てきたのは、小さな小さな声だった。



 そして、「好調エンジン@車先生応援」も沈黙していた。車休場の報は将棋ファンの間にも衝撃をもたらしており、ファンがいつもと違う様子でも、特に驚くべきことではない。「大の車ファン」のことは、多くの者が心配していた。本人だとは知らずに。


  

 車のいない将棋界。突然世界は、群雄割拠になった。

 桃瀬にとっても、チャンスのはずだった。しかし彼は、大事な一番で負け続けた。

 夜、布団に入るたびに胸が小さくなっていく感覚が強くなった。心の底の方から、声がしてくる。「何のために、勝とうとするのか」

 彼は、本当ははっきりと気づいていた。車に勝たなければ、意味がない。

 確かに、車の心を折るつもりだった。しかしそれは困難なことだからこそ、意味があるのだ。強靭な心、のはずだった。

 それがこんな簡単に。

 桃瀬は、目標を見失ったのである。



「先生、大丈夫ですか」

 奈古は、思わず尋ねた。見るからに桃瀬には、覇気がなかったのである。

「どうだろう。今日は勝ったよ」

 桃瀬は、ビールに手を伸ばしたが、飲まなかった。

「車先生のことは……私も後悔しています。伝えないほうがよかったかもしれないと」

「そんなことはないよ。このチャンスを生かせない俺が悪いんだ」

 いつもよりも、沈黙の多い二人となった。

「こんにちは」

 扉の向こうから、声がした。誰も呼んではいなかった。しかしその声には、二人とも聞き覚えがあった。

「そんな……」

「車」

 二人の視線が集中する中、その人は現れた。坊主頭の若者、車九段。

「ここにたどり着くまで、大変だった。でも、努力は必ず報われる」

「元気そうだな」

「はい。もちろん、病気は嘘だから」

 車は、桃瀬の横に腰かけた。

「でも、びっくりだよ。まさか本当の敵が君だったなんてね。奈古さん」



「……私は、力をお貸ししただけです」

「だとしても。正直、桃瀬君をマークする必要はないと思っていた。だから、見くびっていた。でも、はずれたよ。まんまとやられた」

 桃瀬は、目をつぶっていた。唇を噛んでいた。

「わざわざ、桃瀬さんのためだけに休場したんですか」

「復帰すればいくらでもタイトルは獲れるから。桃瀬君の心を折るには、それぐらいの犠牲が必要だと思った」

 車は、米焼酎のお湯割りを頼んだ。

「それだけですか」

「攻めてくるね。もちろんショックはあった。自分にとって、半身を失うような」

「そうですか」

「車」

 桃瀬はビールを飲みほしてから、口を開いた。

「なぜそれを伝えに来た」

「負けを宣告しに来たんだ。桃瀬君、君は一生トップになれない」

「……」

「そうだとしても、いいじゃないか。僕は僕の限界と戦っている。君も、君の力でたどり着けるところを目指せば」

 隣同士、姿は見えない。桃瀬の代わりに、奈古が目となった。

「車先生は、傲慢です」

「突然、なんだい」

「私たちは、名誉が欲しいんです。そういう生き物もいるということに、興味がないでしょう」

「そうだよ。ないものは、ない」

 車は、運ばれてきたお湯割りに少しだけ口を付けた。そして、最後の宣告をした。

「弱者なりによく頑張ったよ、桃瀬君。君の健闘は記憶しておく。でも、君はタイトルをとる運命じゃないんだ」 



 結局、一年が経過したが、桃瀬はタイトルをとれなかった。その代わりなのか、B級2組への昇級が決まった。

 そして、復帰してきた車は連勝を続けた。スポンサーは休場発表時とても憤慨していたが、「復帰してすぐに六冠は獲りますから」と車は言い、実際それを実現しそうな勢いであった。

 誰も、「トップに挑むもの」としての桃瀬には注目などしなくなっていた。



「まだ35じゃない」

 眠る前、桃瀬はつぶやいていた。自分に言い聞かせていたのだ。

「まだ、30ですらない」

 対局相手が決まると、すでにその時点で迷ってしまうのだ。まっすぐにぶつかっていくべきなのかどうか。何か手を使うべきか。その読みが、全く以前のようにはうまくはまらなくなっていた。

 そして将棋界において、情報がどんどん重要になっていた。研究会だけでつぶされ、実戦で指されないままに消えていく手。ソフトによって検討され、全く新しくなっていく戦法。孤独は、日に日に足枷となっていった。

 そして、朝。その朝は、いつになく太陽の強い、雲のない朝だった。ランニングのために一歩足を踏み出したときに、桃瀬は思った。

「歩こう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る