第3章 決着-1
女流鳳凰戦三番勝負、第二局。負ければ失冠の危機だが、桃瀬は奈古にこう言った。「先後が唯一わかる二局目こそ、君に有利だ」と。
先手の奈古は、これまで全く選んでこなかった、そして今もっとも流行っている戦法を選んだ。最近の棋譜を、一夜漬けですべて覚えた。
もし、予想が外れてしまったら。奈古は怖かった。それでも、桃瀬は自信がありげだった。「奇襲した者は、奇襲を恐れる。そして、タイトルの重みの前に、定跡形になったこと自体に安心するはず」
奈古は、心の中でつぶやいた。「あなたこそ、参謀です」
すべてが、桃瀬の読み通りだった。相手は、奈古の手に追随してくる。そして、途中で負ける変化に飛び込んだことに気が付いていない。
必然的に勝っていくとき、人にはこのような景色が見えるのか。奈古は、初めて知った。
棋譜を見ながら、桃瀬は苦笑していた。
あらゆることが、予想通りだった。こんな風になればいいな、ではない。こんな風になるに違いないということが、その通りに起こったのである。
奈古が能力を生かし切れば、もっと活躍ができることを桃瀬は知っている。そして彼の洞察力は、残酷なことに自らの限界も見極めている。
電話が鳴った。奈古からだった。
「どうした。珍しい」
「お礼が言いたかったんです」
「お互い様だから」
「でも……今日で、いろいろ救われた気がします」
「それはよかった」
しばらく、沈黙があった。桃瀬は、待った。
「これは、言うかずっと迷っていたんですけど……」
「うん」
「車さんの秘密です」
桃瀬は、一度スマホを遠ざけて、息をのむ音が聞こえるのを防がなければならなかった。
迅王戦挑戦者決定トーナメント、準決勝。あと二つ勝てば、タイトル挑戦である。
カードは、車四冠対桃瀬六段。同世代対決ではあるが、実績はかけ離れていた。
この対戦は、「聖者対ゲス」とも呼ばれていた。ずっと坊主頭で、穏やかで、求道者のような車。盤外戦術をいとわず、不敵な笑みさえ浮かべる桃瀬。
ライバルとは言われない。それでも、注目は集まっていた。
そして、対局室に現れた桃瀬は、予想以上の注目を集めた。いつものように、特別な荷物を持ってきているわけではない。しかしその姿が、いつもとは異なっていた。鈍色の和服。着こなしは、悪くなかった。そして、髪が短く刈り込まれていた。
もともと、端正な顔達でもある。行動は異質でも、顔つきは常に険しい。その姿は、美しかった。
そんな桃瀬が下座につき、数分後に車は入室してきた。いつもと変わらない、濃紺のスーツだった。
車は一瞬桃瀬を見て目を見開いたが、その後は何事もなかったかのように上座についた。
静かだった。二人は静かに時を待ち、そして駒を並べた。
「あれは、初めてじゃないね」
モニターの映像を見ながら、ベテラン棋士がつぶやく。
「慣れてますか」
「彼のことだから、ずいぶんと練習していたんじゃないの」
中継記者によって、一部がアレンジされて配信される。「桃瀬は和服を見事に着こなしているとの評判である」
そして、将棋はとてもシンプルな、居飛車対振り飛車になった。不自然なことと言えば、桃瀬がほとんど時間を使わないことだった。すべての手を1分未満で指すため、記録上は全く持ち時間が減っていない。
「今日はそういう作戦なんだろうね、ゲス桃瀬君」
このように楽しんでいる棋士もいるがそうでない棋士も当然いる。特に桃瀬の作戦にしてやられた者たちは、絶対許すまじ、と思っている。車よ仇を取ってくれ、と。
様々な思いが渦巻くものの、車自身はいつも通りに淡々と指している、ように見えた。桃瀬の目、以外には。
桃瀬がノータイム指しをするのは初めてだった。それがあまり有効でないことを、彼は知っていたのである。
将棋には、リズムがある。呼吸を安定させることが、思考も安定させる。ただ時間節約のために急いで指しても、思考を乱すことにしかならない。たとえ決まりきった定跡、深く研究した手順でも、だ。
桃瀬は百も承知で、ノータイム指しを続けた。リスクを冒すに見合うリターンを、知っていたのである。
車は最初こそいつも通りだったが、だんだんと時間を長めに使い始めた。まるで、桃瀬の指し手に負の比例をするかのように。当然、二人の残り時間はどんどん差がついていく。
昼食休憩の時には、三時間ほどの差がついてしまった。ほとんどないことだが、それでも桃瀬の作戦が成功しているとみている者は少なかった。形勢はわずかに車良し、そして車は優勢を維持するのがうまい、そう思われていたからである。
ただ、昼食を口にする桃瀬の表情は、非常に満足気であった。
さすがにノータイムということはなくなったが、桃瀬の指し手は早いままだった。まるで、形勢は二の次であるかのように。そして、見るからに車がソワソワし始めていた。時計を見て、盤面を眺める。時折席を外し、戻ってきて眉をしかめる。
「おかしいな、よくなるはずだったのに」
桃瀬がつぶやいた。とても小さな声だった。
「また、エンジンさんを喜ばせちゃうな」
ツン、と空気が固まった。記録係が、一瞬入口を見た。突然冷気が入ってきたように感じたのだ。
桃瀬は、攻めの手を指した。相手に駒を渡す攻め。自玉がかなり危なくなるが、そんなことはお構いなしに。
いつもの車ならば、しっかりと相手を仕留めるはずだった。しかし彼が選んだのは、受けの手だった。
残り時間切迫のせいか。見守っていた棋士たちは思った。けれども桃瀬は、心の中で高笑いしていた。
「そうだろう、まだ終われないだろう」
不思議な将棋だった。いつ決まってもおかしくないのに、なかなか終わらない。桃瀬が強靭に粘っている、と見る人もいた。だが大方の意見は、車が攻めあぐねている、というものだった。
桃瀬には、まだ時間が充分残っている。それでも、リズムよくそれほど時間をかけずに一手一手を指していった。
形勢が好転することはなかった。それでも、何か起こるのではないかと期待させるものがあった。桃瀬の表情には、余裕があったのだ。
夜になった。桃瀬の玉には詰みが生じていた。プロならば、それほど難しくない順である。車はそれでも、58秒まで考えてから指し続けた。
残り三手。とてもわかりやすい局面になって、桃瀬は投げた。勝ったのは車だ。しかし、見たことがないほどに、憔悴しきった表情をしていた。
「うーん、ちょっとずつ足りなかったですね」
無邪気に感想戦を始めようとする桃瀬に対して、車は視線を合わせずに黙っていた。構わずに車は続けた。
「早く終わっちゃうんじゃないかと心配しましたよ。ファンもそう思ったんじゃないですかね」
負けた方の桃瀬が、陽気だった。そしてそれは、演技ではなかった。
帰りの電車の中、桃瀬はスマホであることを確認していた。
「車先生、今日も頑張って!」
「車先生、形勢はどうなんだろう。ドキドキする」
「まだまだ! 桃瀬先生もやっぱり強い……」
アカウント名、好調エンジン@車先生応援。SNS上では有名な、車ファンである。今日も対局中、一喜一憂していたようであった。
桃瀬は、笑い出したい衝動を必死で抑えていた。
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