第2章 苦境-2

 9時40分。二人の男が、同時に対局室に入ってきた。大きな袋を持って。

 上座に座る、針目六段。そして、下座には桃瀬。

 二人は同時に、全く同じものを取り出していた。おしぼり、喉スプレー、コップ、ティッシュ。そして最後に、空気清浄機。

「やりおった……」

「相空気清浄機とな」

 ほかの対局者たちは、野次馬と化していた。

「あれ、しかも……」

 若手の一人が、指さす。皆もつられて目を凝らす。

 桃瀬の持ち込んだ空気清浄機は、針目のものとは少し違った。同じシリーズだが、少し小さくて、デザインもとがっていた。

「桃瀬君、新型を入手したのだね」

 穏やかで、少し芝居がかった口調だった。

「はい、先生が欲しいとおっしゃっていたので気になって、買ってしまいました」

「それは結構至極」

 本来挑発となるはずの行為だが、針目の機嫌はよくなってしまった。これには周囲も驚いたが、桃瀬は落ち着いていた。

「重イオン効果が従来の五倍らしいですから、今日の対局は無菌室のようになりますよ」

「五倍は大変魅惑的だ」

「そうでしょう」

 和気あいあいとした空気のまま、対局開始時刻になった。

 対局者だけでなく、二つの空気清浄機が向き合っていた。効果のほどはわからぬが、不思議とどの対局もすっきりとした戦型になっていた。いつもは独特の戦法を用いる針目も、すっきりとした美濃囲いで戦っていた。

 途中、トイレに立った桃瀬は、廊下でつぶやいた。

「気づいてるのかね……重イオンのボタンは押してないことに」

 その後、桃瀬は優勢になり、そのまま勝ち切った。

「流石最新型の効果は抜群だったということか」

 針目は、感想戦でも気分が良さそうだった。



 桃瀬は、じっと盤を見ていた。駒は並べられていない。

 勝利の後にもかかわらず、自宅に帰ってからの顔は、冴えなかった。

 部屋の隅には、大きな空気清浄機が置かれている。電源は入っていない。

 勝った。桃瀬は勝ったのだ。それでも、彼は最善の策を取ったのかを自問自答していた。針目は強い。ただ、圧倒的というわけではない。今の桃瀬の実力ならば、普通に対局しても勝つ可能性の方が高かっただろう。

 捕らわれていたのではないか。策を思いついた時点で、それを使いたいと思っていたのではないか。策を使った時の光景に皆が驚くのを、期待してしまったのではないか。

 勝てる将棋は普通に勝つことこそ、いざというときのためには必要である。桃瀬にもそんなことはわかっていた。それでも。どうすれば相手が油断するか、どうすれば相手が嫌がるか。それを考える時の方が、将棋の研究よりも楽しくなっていたのである。

 捕らわれるな。桃瀬は唇をかんだ。負けていい将棋もある。勝ってはいけない勝負はない。目標は、ぶれてはいないはずだ。



 奈古は、じっと盤を見ていた。駒が乱雑に並べられていた。

 女流鳳凰戦が迫っている。成績は全くよくない。

 彼女が並べていたのは、男性棋士と対戦した時の棋譜だった。若手のみ参加できる棋戦で、女流棋士代表になった。タイトルホルダーということで順当な選出ではあったが、女流棋戦でも勝てていない奈古が、活躍する姿は誰も予想できなかった。

 ただ、彼女は善戦した。大きなミスなく指し続け、終盤には勝ち筋すらあった。

 それでも、勝ちきれなかった。

 惜しくても、完敗でも、負けには変わりがない。

 鮮烈な記憶となって、棋譜が脳に焼き付いていた。指し手だけでなく、息遣いや体の揺れまで覚えていた。

 離れない。頭から、記憶が離れない。

 奈古は、対峙するしかなかった。負けたという事実と、向き合うしかなかったのである。



 奈古の朝は、メモの確認から始まる。彼女は、予定をほとんど覚えることができない。

 子供の頃からそうだった。忘れ物も多かった。けれども、テストの成績は良く、ただのうっかり屋さんだと思われていた。奈古自身、そう信じていた。

 けれども彼女は、抜き打ちテストや実力テストではかなり成績が悪かった。薄れていく過去の記憶と、鮮明に映る今日の出来事。彼女は極端に長期記憶の能力がなく、短期記憶の能力が優れていたのである。

 将棋を始めて、さらにそのことははっきりとしていった。級位者の頃から、感想戦で指し手を覚えていないということはまずなかった。そればかりか何秒ほどかかって指したか、駒の乱れ具合がどの程度だったかまで、鮮明に記憶していた。その代わり、一か月もすると対局したこと自体を忘れてしまうのだった。

 過去の蓄積が生きない。棋士にとってそれは致命的だった。ただ、彼女は人の何倍も一夜漬けすることができる。そして調子のいい時は、人の何倍も盤面を読むことができる。

 ちょっと耳にしたこと。ちょっと目にしたこと。それらのことを短期間ならば確実に覚えておくことができる。そうやって得られた情報は、桃瀬へと伝えられるのである。

 


 雪が降っていた。

 以前も、大事な日に雪が降っていた気がする。けれども奈古は、どんな日か全く思い出せなかった。

 女流鳳凰戦三番勝負、第一局。挑戦者は勢いのある若手。年間二桁も勝てない奈古に、勝ち目はないとみられていた。

 奈古も自信はなかった。けれども、幸いなこともあった。負けた記憶も、どんどん薄れていくのである。

 頭が冷やされて、心が澄んでいくのを奈古は感じていた。

 ここ数日で詰め込まれた知識が、百人一首のように記憶の中に並んでいた。そして、今や彼女は、一瞬でその札を取る技術を持っていた。

 対局開始から、三手目。角が交換された。

 奈古は、視界が揺れるのを感じた。頭の中で、伸ばした腕がさまよっていた。

どこにも、この札はない。

 筋違い角。公式戦ではめったに見ない戦法。タイトル戦では初めてかもしれない。

暗い暗い道に、奈古は放り出されてしまった。 



 桃瀬は、日本酒を飲んでいた。すでに、二本目だった。

 つまみは少ない。ゆっくりと、飲んでいた。

 時折、スマホを見る。繰り返し、棋譜を並べている。

「こんばんは」

「来ないかと思ったよ」

 奈古は、ごく自然に桃瀬の横に座った。

「なんでですか?」

「君の棋譜を見ていた」

「……そうですか」

 奈古はうつむいて、それからビールを頼んだ。

「初めてだね」

「えっ」

「ビールから」

「覚えてないです」

 二人はしばらく、黙っていた。桃瀬は、鉄板焼きを頼んだ。

「そういえば」

「ん」

「約束、してるわけじゃないですもんね」

「ああ、そういえば」

 二人は、対局の日の夜に必ず店に訪れていた。最初はその都度連絡を取って集まっていたが、いつからか自然と訪れるようになっていた。

「今日は、神奈川に行ってたんですよ。来ないのが普通じゃないですか」

「まあ、その時はその時だ。それに……」

「それに?」

「君の行動ぐらい、俺には簡単に予想できる」

「怖い人ですね」

 奈古のビールは、減っていない。

「知っているだろう」

「忘れていました。ビールの苦さも……」

 桃瀬は、ウーロンハイを頼んだ。そして、やってきた鉄板焼きを小皿に分ける。

「すみません、あの……」

「ウーロンハイを飲んでいるときが、一番落ち着いた顔をしているよ」

「私……あんまり覚えていなんです。本当に」

「君はそれでも、タイトルを獲った」

「あの時は……見えていたから……」

「勝ちたいなら、聞けばいいのに」

「……」

「余白がありすぎて、とても簡単なんだよ。参謀で終わって、本当にいいのか」

 奈古はうつむいている。そして桃瀬も、額に手を当てた。優しさは、弱った心から生じることを、彼は理解していた。 



 迅王戦、挑戦者決定トーナメント。ここまで強敵を破ってきた桃瀬六段。他の棋戦では冴えない将棋を指すこともあったが、こと迅王戦に関してはよい棋譜が多かった。

 そして対戦相手は、車四冠。タイトルの半分を持ち、来期のA級昇級も決めている。若手実力ナンバー1は誰もが認めるところであり、五冠目の挑戦も濃厚とみられていた。

 二人が小学生名人戦で対戦したことは、話題になることは少なかった。車が勝つことは当時から当たり前であり、ライバル関係を全く築いてこなかったのである。すべての敗者は、ただの礎だった。



 桃瀬は、これまでにないほど頭を回転させていた。これまでで一番、タイトルに近づいている。ただしそれは距離であって、確率ではない。車とは二度公式戦で当たり、二度とも負けている。奨励会では出世のスピードが違いすぎて、当たることもなかった。車の持つタイトルに挑む、もしくは車を倒してタイトルに挑戦する。それはどちらも、かなり困難なことであると、桃瀬は自覚していた。

 車を倒した棋士をおいしくいただく。それが、最もタイトル獲得の近道である。だから今回は、チャンスであってチャンスではない。

 それでも。勝てるならば勝ちたい。そんな思いが、全くないわけではなかった。

 桃瀬は、胸を抑えた。勝つたびに、心臓が小さくなっていく感覚に襲われていた。後ろ指を指されながらでも、勝ちさえすればいい。その思いは変わらない。それでも、そこまでしても勝てない相手がいることを認めてしまっている。

 足元から蛇のように鎖が伸びて、絡めとられていくようにも感じていた。

 いっそ何の策も弄さず、全力でぶつかってしまおうか。それが次への布石になるのではないか。弱さを知らしめて、油断させればいいのではないか。

 様々な思いが頭の中を駆け巡り、そして駆け抜けていく。

 いつか、決断しなければならない。 

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