第2章 苦境-1
「岱、話がある」
対局を終え帰宅しようとする桃瀬に、声がかけられた。背が高く筋肉質で、強面の男。
「小堂さん」
桃瀬は、少し唇を噛んだ。
小堂八段。桃瀬の兄弟子であり、タイトル経験もある強豪である。
「場所を移そう」
「はい」
二人は、焼き肉屋に入った。小堂が、淡々と注文をする。
「よく勝ってるな」
「はい」
「何が言いたいかわかるか」
「詳しくはわかりません」
「簡単にはわかるんだな」
桃瀬は、目をつぶって、奥歯をかみしめてから、笑顔を見せた。
「変えませんよ」
小堂の目が、大きく見開かれた。拳が握られている。
「言いたくはないが、迷惑をこうむっている。解説はキャンセル、副立ち合いの話もなくなった。理由は知らされない。だが、予想はつく」
「ついに僕意外にも、ということですね」
「正直、俺たちは兄弟弟子だが、これまでそんなに関わってきたわけでもない。そんな俺にまで手が回っている。このままだと、お前、居られなくなるぞ」
「顧問弁護士がいます」
小堂は、口を半開きにした。全く予想外の言葉だったからだ。
「裁判になった時のことも考えています。多分、負けません」
「お前……」
「僕はただ、将棋に勝ちたいだけです。そのために努力をしています」
「そのうち、師匠や妹弟子たちにも迷惑がかかるぞ」
「正直なところ……それは何かをやめる理由にはなりません」
「お前ってやつは……」
小堂は、頭を抱えた。
「名人に、とは言いません。けれども僕は、必ずタイトルを取ります。必要ならば、それを一門の誇りにしてください。ただ……僕はただ、勝ちたいんです。勝負に、勝ちたいんです」
勝率十割の棋士はいない。
各棋戦で勝ち上がっている桃瀬だったが、順位戦では苦戦していた。C級1組で、4勝5敗。本日の最終戦に敗れると、負け越しである。
二期目に、全勝でC級2組から昇級した桃瀬だったが、実のところそれは予想外だった。彼の人生設計に、名人挑戦は含まれていない。
順位戦は対戦相手が早くから決まり、相手も自分のことを研究してくる。そして、皆気合が入っている。桃瀬は、着実に一歩ずつその空気に慣れていくつもりだったのだ。
時間が長いことも影響してくる。一度精神的に優位に立っても、次第に相手が立ち直ってくることがある。そして、体の方は桃瀬だって疲労してくる。優位を維持しきれないのである。
午後十時過ぎ。桃瀬は負けた。
そしてもう一人の敗北者。彼女の方は、勝率五割にも満たない。
奈古椿女流鳳凰。女流棋士は、そもそもの対局数が少ない。そして、所持しているタイトルの予選には参加しない。今日は、一か月ぶりの公式対局だった。
完敗だった。
相手は、女流3級。まだ、正式には女流棋士ではない。既定の成績を収めなければ、研修会に戻らなければならない存在だ。
そんな相手に、全くいいところがなく負ける。それでも彼女は、棋界に四人しかいない女流タイトルホルダーのひとりだった。
手を抜いているわけではない。努力していないわけではない。
タイトル獲得ができすぎだったのだ、と周囲は思っている。けれども彼女は、それも違うことを理解していた。
一筋の光を、つかめるかどうか。
それを見失ったままの奈古は、ずっと飲んでいた。酒が彼女を楽にさせるからではない。彼女を酔わせる相手を、待つためである。
負けた日も、桃瀬はいつもと同じ顔で現れる。
「酔ってるね」
「お酒って、そういうものですよ」
奈古の顔は、とても暗かった。
「fraketta」
突然、奈古女流鳳凰がつぶやいた。桃瀬は首を傾げた後、その言葉の響きを知っていることに気が付いた。
タクシーには他に運転手と、奨励会員が一人乗っていた。疲れからか、奨励会員は眠っていた。
地方で開催することになった、早指し棋戦の予選。桃瀬は対局者として、奈古は聞き手の解説者として前夜祭に呼ばれていた。今は、ホテルまで戻るところだ。
二人は、会話を交わしたこともほとんどなかった。仕事で一緒になるのも初めて。それでも桃瀬は、感じ取った。
味方だ。
彼には敵ばかりだった。それは、彼のせいだった。
だから、初めての感覚だった。それでも、はっきりとわかったのだ。
部屋に戻った彼は、インターネット対局場に入った。確かに、frakettaという名前のユーザーはいた。対局数は少ないが、レーティングはかなり高い。ただ、これまでは桃瀬のアンテナに引っかかっていなかった。
彼は様々な将棋サイトで、棋士を特定してきた。棋譜や対局時間、持ち時間の傾向などから推測する。中には同じ名前でチェスや囲碁をしていることから、判明する場合もあった。
しかし、frakettaという名前は一つの道場にしか存在せず、指し手も特徴的とは言えない。たまに独特の戦法を指したり、信じられない寄せをすることがあるが、常に、というわけではないのだ。
「待てよ……」
桃瀬は、棋譜の種類をいくつかに分類して考えた。すると、分類されたものたちには、強い共通性が見られるのだった。
「五人いる……のか」
しかし、奈古が伝えたかったのはそんなことなのか? と桃瀬は思慮する。
「昨日、二局。角換わり……」
桃瀬の口元に、笑みが浮かんでくる。
「俺対策もしてくれてるってことか。なるほどね」
こうして桃瀬は、明日対局する相手の練習風景を覗き見ることになるのであった。
「私を参謀にしてほしいんです」
「は」
初めての二人きりでの会談。予想外の言葉に、珍しく桃瀬の顔が呆けた。
「参謀です。桃瀬先生が、もっと勝つための」
「意味がよくわからない」
棋士には師弟制度はあるが、コーチなどは基本的にいない。ましてや参謀など、これまでの歴史上おそらくいなかった。
「桃瀬先生は、勝つために手段を選びませんよね」
「そう見えているならばそうかもしれん」
「でも、そのせいで入ってこない情報もあるんじゃないですか」
桃瀬は、目を見開いてから、グラスへと視線を落とした。
「そう思うかい」
「閉鎖的な世界ですから。でも、私はまだ内側にいます。いろんな話を聞けます」
「奈古さんのメリットは」
「育成ゲームが好きなんです」
「なるほど」
「納得するんですか」
「嘘じゃないんだろ」
「さすがです」
二人は思った。波長が合う、と。
奈古は、桃瀬の参謀になった。
唯一の、味方になったのである。
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