第1章 覚醒-2
桃瀬は走っていた。
早朝五時から。晴れた日は、だいたいランニングをしていた。ゆっくりとしたペースだが、たっぷりと時間をかけて走る。そして、帰りは電車に乗る。通勤時間と重なり、平日はほぼ満員だった。彼はそこで、人間観察をする。
帰宅するのは八時ごろ。そこから夕方まで、彼は将棋と向き合う。棋譜並べ、研究、詰め将棋。
今の彼には、将棋に取り組む時間が十二分にあった。対局以外の仕事が入っていないのである。
デビュー当時は普通の若手として、普通の仕事があった。いや、ちょっと多いぐらいだった。すらっと長身、顔も悪くない。そして、強い。
対局以外の仕事では、特別目立つようなことしなかった。それすらも、彼の作戦だったのである。
二年目までは、普通の若手と変わらない成績だった。それは彼の観察期間であり、周囲を安心させるための期間でもあった。
三年目、桃瀬は新人王となる。実績自体は、それほど驚くべきものではなかった。しかし、対局相手から疑問の声が上がるようになる。桃瀬の様子は何か変だ、と。
しかし、彼はルール違反をしていない。また、様子がおかしくない時も普通に勝っていた。だから、しばらくは明確な対策がされなかった。
すべて、彼の計算の内だったのである。
まずは、実績を作る。誰に勝ってもおかしくないという空気を作る。人は一度思い込んだことは、簡単には覆さない。それを桃瀬は知っていたのである。
彼にとって、時間はどれだけあっても余ることがなかった。すべての未来を、計画の内に入れることができたのである。
「三十五歳までに」
呪文のように彼はつぶやいた。
「それまでに」
キラキラとしたライトの下で、桃瀬少年は満面の笑みを浮かべていた。
県予選、ライバルの病欠で代表の座が転がり込んだ。東日本大会では、かつてなく調子がよく、そこでも代表になることができた。ベスト4からはテレビ中継がある。夢のような展開だった。
「僕にも、ファンとかできるかな」
対局が始まる前、彼は母親に尋ねた。母親は、苦笑しながらうなずいた。昔よく遊んでいた友達が、サッカー部で活躍しだし、みんなから人気者になった。その一方で、桃瀬少年が将棋が強いということすら、多くの同級生は知らない。
友達より先にテレビに出られる。それは、彼にとって何よりの自慢になるはずだった。
準決勝の相手は、車くん。坊主頭の、気の弱そうな子だった。その一方で、桃瀬少年は自信満々の顔つきだった。何せここまで、実力以上の結果を残し続けてきている。どこまでもいける気がしたのだ。
畳の上に、分厚い将棋盤。プロ棋士が、別室で解説をしている。すべてが、桃瀬少年の心を高揚させていた。けれども対局が始まってすぐ、彼の心は沈んでいくことになる。実に13手目、序盤の一手をとがめられ、形勢を損ねてしまったのであるる。ちなみにそれが緩手であるとは、解説者も気が付いていなかった。
桃瀬少年は、後にプロとなり四冠王となる車の、最初の餌食となった。
何もさせてもらえなかった。そして、車少年は、たったの四分しか時間を使わなかった。
桃瀬少年は、泣くことすらできず、ただ坊主頭を見つめていた。
「桃瀬、お前将棋弱かったんだな」
それが、クラスで唯一掛けられた、放送を見ての感想だった。彼は、自分がテレビに出ることを誰にも言わなかった。だから、多くのクラスメイトがそのことを知りすらしなかったのだ。
あんな奴に勝てるはずがない。桃瀬は思った。決勝戦でも、車は圧勝した。もはや、小学生の枠に収まるような強さではないことは、その場にいる誰もが感じていた。惨めだった。浮かれていたこと、何とかなると思っていたこと、同じ年代でも、圧倒的な差があるという事実を知らなかったこと。
桃瀬はすでに、理解していた。一生かかっても、車より強くなることはできない。ただ、それでも。強いから勝つばかりではない、ということも彼は知ったのだ。ライバルが病気にならなれば、チャンスすらなかっただろう。だとしたら。相手が万全ではない状態を、自ら作り出せばいいのではないか。
桃瀬は、自分の一生を計画した。運動もできない。協調性もそれほどではない。学校の成績はそこそこ。一番得意なのは将棋。
棋士が、最適だ。
彼は両親に、こう言った。
「12歳で奨励会試験を受けて、19歳までに三段、23歳までにプロ棋士になる。学校は高校までは行くのがいいと思うので、行かせてほしい。35歳までにタイトルをとって、引退するまでには九段になる。プロ棋士に、なりたい」
迅王戦予選トーナメント一回戦。桃瀬六段の相手は、三原四段だった。
昨年デビューした三原は、驚異の勝率八割越え。すでに早指し棋戦で二つ、優勝していた。今もっとも当たりたくない相手、と言われている。
しかし、「なぜか」強豪と当たることが多い桃瀬は、この組み合わせを予想すらしていた。そして対戦が決まってからは、徹底的に相手を研究してきた。
桃瀬は、対局開始三十分前には将棋会館に到着していた。上座で、じっと待っていた。そして十五分前、三原はやってきた。まだ高校一年生、顔つきはどこかあどけない。
前局よりもさらに注目される中、桃瀬に変わった様子は見られなかった。今のところ変な小道具も持ち込んでいない。
対局は、普通に始まり、淡々と進んでいった。局面も、穏やかだった。
さすがに高校生相手には普通に指すのか、そう見る人もいた。
桃瀬は、背筋をピンと伸ばして指す。今日は、扇子もない。盤外戦術のことを除けば、桃瀬の対局姿はとても美しいものだった。
夕食休憩が終わり、形勢が傾き始めた。三原の攻めが、桃瀬の陣形を乱す。何とか耐えている状態。
桃瀬は、肩を落とした。
「さすがのゲスも、天才にはかなわんかったかね」
棋士室で、ベテラン棋士が笑っていた。彼は最近、「ゲスの極み桃瀬」と呼ばれているのである。
ここまで来たらもう逃さない、すでに三原にはそこまでの信頼があった。
桃瀬は、思い直したかのように背伸びをして、上着を脱いだ。左腕に、緑色の大きな腕時計をしていた。
「なんだあれ。おもちゃか」
「変なもんしてますねえ」
三原は、眉間にしわを寄せた。そして、桃瀬の左腕を凝視する。
「このピンチ……一人で乗り切れるだろうか……」
その視線に気づかないふりをして、桃瀬はつぶやいた。
「一人ではとても……でも……」
そっと、駒を動かす。首を振り、深いため息をつく。
三原は、動かなくなった。口をへの字にして、うなだれていた。
しばらく、手が止まった。桃瀬が、時折意味の分からないことをつぶやく。
「ごめんね……」
そう言った後ようやく指された三原の手は、悪手だった。
三原は泣いていた。初めて見る光景に、皆の驚きがやまなかった。いや、桃瀬だけは心の中で笑っていた。
三原の手が、単調になっていく。そして桃瀬は、小刻みに時間を使って、丁寧に有利を拡大していく。
流れをつかんだ桃瀬は、決してそれを手放さなかった。それぐらいは簡単にできる実力を持っていた。
新鋭、敗れる。そして、何かをしたには違いないのだが、桃瀬が何をして相手を動揺させたのか、その謎は誰にも解けなかった。
「グリーンの死?」
奈古は、きょとんとしていた。いつもの居酒屋で。
「そう。ブルーの助けを待ちながら、死んでいった。『カラフルサイド』というアニメでね」
「三原君、それが好きなんですか」
「なかなか気づかなかったけれどね。ただ、彼、青いものが好きだろ。特集を見ていたら、部屋にも青いものが多かった。で、一瞬映ったんだ。彼の勉強ノートから透ける、下敷きの柄が」
「そこからアニメを探し当てたんですか?」
「アニメかはわからなかったけれど、何かあるんじゃないかと思って。昔将棋の大会に、そういう下敷きを持ってきて仰いでいる奴がいたんだ。それを思い出した」
「でも、ただ好きなだけかもしれないじゃないですか」
「半年間、中継や特集で細かく確認したよ。一見わからないようにしているけど、いろんなところでブルーを意識してコーディネートしている。あと、アニメ放送の翌日は攻めっ気が強いこともわかった。気分が高揚しているんだろう」
「すごいですね」
桃瀬は、グラスに手をかけたまま固まった。
「すごいのだろうか。なぜみんな、勝利のために最善を尽くさないのか、そちらの方が疑問だ」
奈古は笑った。引き笑いだった。
「そうですね、確かにそう」
「そんなにおもしろいかな」
「おもしろいですよ。痛快です」
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