キラーソウル

清水らくは

第1章 覚醒-1

 午前九時五十分。長身で細身の棋士、桃瀬だい六段が対局室に入ってきた。

 対局のある日に棋士が来たのだから、本来なら特筆すべきことではない。しかし、多くの人々がこの事実に注目していた。彼は時折、遅刻するからである。

 桃瀬は、グレー無地、体にぴったりのスーツを着ていた。ここも注目されていた。時折彼は、実に予想外の服装で現れるのである。

「ノーマル桃瀬か」

 別の対局を控えた、ベテラン棋士がつぶやいた。何人かがうなずく。

「おはようございます」

 そんな人々の注目は意に介さず、桃瀬は自らの席に就いた。目前には小柄で少しぽっちゃりとした棋士、野々原五段がいた。

「おはよう」

 野々原の方が段位は低いが、棋士になったのは一年早い。でん、と上座に座っていた。

 後輩だが段位が上。このややこしい関係性は、時に上座の譲り合いというちょっとした儀式を誘発する。しかしすでに上座を確保している野々原に対して、桃瀬は何も言わなかった。

 野々原が駒袋から駒を取り出し、二人は駒を並べ始めた。隣の棋士は、これも気になるようだった。基本的には線の下に合わせて駒を置く桃瀬だが、時には真ん中に、時には無茶苦茶に配置する。これに関しても、今日はノーマル桃瀬だった。

 野々原は今年度に入って勝率七割を超え、タイトル挑戦リーグにも勝ち上がったりしている。絶好調棋士のひとりと言っていい。対する桃瀬も、ずっと高勝率を維持している。

 期待の若手同士の対決……であるはずなのだが。ほとんどの棋士は、そういう目では見ていなかった。

「桃瀬、観念しろ」

 それが、棋士たちの思いだったのである。



 桃瀬の持ち物も、注目の対象だった。棋士によって対局に持ってくるものは様々である。

 飲み物、お菓子、時計、加湿器、お盆……。個性的な棋士たちが個性的なものを持ってくるわけだが、桃瀬の持ち物はある点で他とは一線を画していた。それは、対局ごとに全く異なる、というところだった。

 ある日は何も持ってこなかったかと思えば、ある日はいろいろと持ち込み、ある日はなぜかぬいぐるみを持参する。風呂敷だったり小型扇風機だったり、とにかく一貫していないのである。

 今日は何もない日か、と皆が思っていたところ。対局開始から五分ほどして、桃瀬は鞄から扇子を取り出した。棋士が扇子を使うのはいたって普通である。ノーマル桃瀬であるという評価は続いていた……ただ一人、対局相手を除いて。扇子が開かれた途端、野々原は目を見開いた。そこに書かれていたのは、「直線一途」という文字。揮毫は、琴原女流三段。

 桃瀬は、ゆったりと頬を仰ぐ。野々原は、少しずつ奥歯に力が入っていった。

 琴原は美人棋士として有名で、タイトルを獲得したこともある。人気があり、扇子が売り出されているは不思議なことではない。ただ、男性棋士が対局中に使用するのは、珍しい。

 盤面は、相掛かりになっていた。桃瀬は、歩を突き捨て、銀を出る。琴原が得意にしていた戦法だ。

 職員が、昼食の注文を取りに来た。

「焼き餃子定食で」

 野々原は、唇をかんだ。焼き餃子定食は、琴原がいつも頼んでいたものだった。

「なぜだ!」

 これは、心の叫び。口に出して言うわけにはいかなかった。「誰にも知られていなかったはずなのに……」

 桃瀬は、ポーカーフェイスを貫いた。終局まで、いたって普通にふるまっていた。

「今日の桃瀬はおとなしくてつまんねえなあ」

 控室で、ベテラン棋士が軽口をたたいていた。実際には、全くそんなことはなかったのだ。

「お待たせ」

 桃瀬の挨拶に、首を少し傾けたのは、小柄で柔和な表情をした女性だった。桃瀬は戸を閉めて、彼女の向かいに座る。居酒屋の個室であった。

「快勝でしたね」

「おかげさまで」

 桃瀬は表情一つ変えず、メニュー表へと視線を移す。

「感想戦はなかったんですか」

「ああ。すぐに帰ったよ」

「でしょうね」

 桃瀬はビール、そして女性はウーロンハイを頼んだ。

「あんなに効果が出るとは思っていなかったよ」

「別れて一か月も経ってないですからね、二人。野々原さんの方が未練ありありみたいですし」

「付き合っていることも知らなかったよ」

 二人は、淡々と話し、淡々と飲み、淡々と食べた。

「奈古さん、いいのかな。君に得はないと思うんだけど」

「また言いますか、それ。私、桃瀬さんが勝つと嬉しいんです」

「変な人だなあ」

「変ですかね。ふふ」

 笑顔がとてもかわいい、と評判の彼女。それを見ても、桃瀬は眉一つ動かさなかった。



 奈古椿女流鳳凰。ほんわかとした雰囲気ながら、鋭い攻めと豊富な知識、将棋愛溢れるコメントで人気の女流棋士である。

 今日も彼女は、ネット中継で聞き手を務めていた。たまに天然ボケな様子を見せながらも、全てをそつなくこなす。

 ファンのみならず、棋士からも愛される彼女。

 そんな彼女が、言い知れぬ冷たい目をするところを知っているのは、この世に一人しかいない。

「わあ、こんな筋があるんですねー」

 完璧な表情。心の中では、全く笑顔ではないのだ。

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