第2話 バナナ農場

 兄貴でもいればよかったのにな、塚崎はバナナを担ぎながら思った。

 日本を出ると告げたとき、母は嫌な顔をした。

 もはや二十代も後半に入り、仕事を辞めると言った息子に対して、おおよそ真っ当な言葉で思いとどまるように言った。

 だけど、塚崎は仕事を辞め、プロのキックボクサーになるために日本を出た。

 その自分がバナナを担いでいると知ったら、あの母のことだ。笑うだろうと思った。


 まあ、弟が二人もいるし、その辺はどうにかなるだろ。


 考えても仕方ないのでバナナに集中する。

 バナナの木は穂先に大量の実を繁らせる。収穫はその果実部分のついた穂先を幹ごと切り落とすという荒いものだ。

 もっとも、塚崎はバナナの専門家ではないので、他のバナナ生産地どころか、隣の農場だって同じ方法をとっているかはわからない。

 

 重てえ。


 一株あたり、切り落とした穂先の重さは七十キロにもなる。

 塚崎は自分の身長と体重に匹敵するバナナの枝を持ち上げる。

 上手く重心を探して持ち上げないと腰を痛める。

 隣ではトンガ人の男がヒョイ、と持ち上げて歩いていた。

 どうもこのトンガ人というのは先天的に怪力に生まれているのか、やたらと頼もしい。

 塚崎も遅れないようにバナナを肩に担ぎ、近くに止まっているトラクターの荷台に載せた。

 この作業はハンピングと言うらしい。

 塚崎は朝から夕までハンピングを繰り返した。

 女の子や華奢な男は比較的軽作業に従事しているので、中途半端に頑健な我が身を呪う。


 どうせならトンガ人みたいな体がよかった。


 そんな事を考えたところでしょうが無い。

 父は筋肉質ではあったものの、大きくはなかったし、母はホッソリしていた。それでここまで大きくなれたのは幸運だっただろう。

 辺りに漂う強烈な腐臭と、トラクターがはね散らす泥、それにもはや耳の中で唸っているんじゃないかと思う羽虫の大群が疲労を促進する。

 

 楽しいと思えば、楽しい。


 いつだってそうやって苦しい練習を続けてきた。

 なぜキックボクサーを目指して日本を出た塚崎がバナナ農場で働いているかというと、そういう制度を利用しないとオーストラリアに滞在出来ないからだ。

 ワーキングホリデーでオーストラリアに入国した塚崎は四ヶ月間の英語研修を受けた。これで一年間は滞在出来る。

 しかし、ワーキングホリデーには滞在期間をもう一年間延長する手続きがあった。

 それがバナナファームである。

 いや、正確に言えばちょっと違って、政府が指定する労働に実働で八十八日間従事すればセカンドビザが下りることになっていた。

 

 塚崎はたまたまバナナファームだった。

 とはいえ給料は出るし、休日は休みだ。しかも、時給はオーストラリア・ドルの高騰から、日本円換算で二千円を超える。

 まあ、その分物価が高いので貯蓄が出来るわけではないのだけど。


 とにもかくにも、先進国の一次産業が担い手不足だ、というのは万国共通なのだろうか。

 農場の社員が言うには常に人手が足りないという事だった。

 そのバナナ農場だけでも、世界中から人間が来て働いていた。

 日本人、トンガ人、アフリカ人にフランス人、韓国人、アメリカ人。

 性別も男女問わず。

 日本人では塚崎が年長者の部類だったが、他国籍には制度ギリギリの年齢の者もかなりいた。

 休憩時間になれば皆で集まって雑談を交わす。

 男女の恋愛もちょこちょことあり、塚崎自身、バナナ農場の女の子達と関係を持っていた。

 どうも、わざわざオーストラリアにやってくるほど行動的な人間が集まると、性欲は各所で発散されるものらしい。

 台湾人、韓国人、日本人など、振り返ればアジア人同士が多かったのだけど、フランス人やイタリア人とも寝た。

 塚崎はバナナ農場の苛烈な労役に辟易しながらも、生活そのものは確かに楽しんでいた。

 


「ヤーシャ、試合に出ろよ」


 キックボクシングジムのトレーナーが言った。

 かつてはヘビー級で鳴らしたという丸太のような腕を持つ黒人だった。

 

「でるでる。ファイトマネーはいくら?」


 塚崎は二つ返事で答えた。

 いくらバナナ担ぎで疲れていても、練習はサボらなかった。

 それはプロのファイターになるためだ。

 安定した仕事を捨ててオーストラリアくんだりまで渡ってきたのはファームで働くためじゃない。

 おかげで、トレーナーも塚崎を気に掛けてくれてプロの試合を持ってきてくれた。

 

「ええと、七〇〇ドル。体重は確か一五〇ポンドだったかな。減量は大丈夫だろ?」


 一五〇ポンドと言えば六十八キロである。

 体力に自信が無い連中が日々の労役で痩せる中、塚崎をはじめとした肉体派の一部は饗される高カロリーの賄い料理にむしろ体重を増加させていた。

 

「え、俺八キロも落とすの?」


 塚崎の問いにトレーナーが笑う。


「ファームで仕事してるなら三日も喰わなきゃそれくらい落ちるって」


 喰わなきゃ死ぬぞ。


 翌日からの労役を思って塚崎は暗澹たる気持ちになった。



 試合前日。

 計量会場で塚崎は自分が出る試合がタイトルマッチだと知った。


「え、なんかカメラとかあるんだけど」


「顔が売れてよかったじゃねえか」


 トレーナーが楽しそうに言う。


「ヤーシャ・塚崎」

 

 計量の係員が呼ぶので体重計に乗ると、周囲がざわついていた。


 事前にジムで計量してきたので体重は問題ない筈だけど。


 なんて思っていると、試合の内容が壁に書いてあった。

 一七〇ポンド契約マッチ。


「おい、一〇キロも違うよ!」


 塚崎は思わず叫んだ。

 試合は当然の様にボコボコにされ、オーストラリアの初戦は判定負けに沈むことになった。

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