8月23日 セクハラ?
びいが本当に嫌、としつこく言うにあたったくだらない件がまだあった。8月に合気道をやめたいと言って、月謝を忘れそうになり、俺が、あと一ヶ月でちょうど一年なのに辞めるのか?と言って、先生の自宅にわざわざ月謝を届けたことがあった。
辞めたい辞めたいと言う理由は、例の気の強い女の子のせいもあった。先輩風を吹かせているとその子は思ったんだろうが、本当にくだらない。俺は気にすんなよ、と言ったが、びいはとにかくあの子と組むの嫌、と言った。
まあなあ。
びいも俺もそうだが、そもそも、触るだけで相手のことがある程度わかる感度の持ち主なので、嫌な人に触るなど考えられないだろう。触っただけで大体のことはすぐわかる。俺なんて触っただけで、どれくらいセックスが上手かわかるよ?
うっかりびいにそんなこと言ったら、手に持っていたノートで殴られそうだが。
びいは赤面しながら「人前でそんなこと、言わないでよね!!」と言って、口をつぐんだ。岬くんと縁が無くて何より!!と思ったようだった。
なんでそんな恥ずかしがるんだよ……。
びいが合気道、嫌と言うのも他に理由があった。何でか知らんが先生は他の人の前でびいのこと、「胸がなさすぎて魅力がない」と3回も言ったのだ。わけわからんね。
まあ確かにびいはびっくりするくらいスレンダーなんだが。確かに最盛期に比べたら、胸もかなりボリュームダウンだからな。昔はもうちょっとあった。食べてないから当たり前だが、拒食症特有に細いわけではない。
びいが三度目に当たり、そのセクハラ発言に我慢ならない、と言い出した。最近のびいはとてもキレやすく、前は静かにずっと泣いてるだけだったのだが、攻撃的になってきた。恐らく、自分が不当に扱われているということについて我慢できなくなってきたんだろう。鬱々としている時はそういう反発のエネルギーはゼロだが、回復の兆しということだと思う。
正直びいは能力もあるし、経験もあるし、頭も良かった。それがこんなふうに扱われることについて、我慢ならなくなっても当たり前だった。パッと見て鈍臭く、すぐに泣きそうで、弱々しいと、集団の中では下目に扱われる。誰もびいが海外で活躍していたことなど知らないからな。またびいはそんなこと一切、言うつもりもなかった。フランス語はともかく、英語での会話は不自由しない。海外の市役所の人達の前でプレゼンをし、海外での自分のアートイベントの中心になり……なんて、やってた人間にはとても見えない。
70歳の先生から胸がないから女性的な魅力がないなんて、三度も皆の前で言われねばならぬ筋合いはない、とびいはとても怒っていた。そもそも、そこまで胸がないということは決してない。俺は見て知って……なんて言ったらまた殴られるので言えないが。
あのさあ、それさあ、背筋も落ちてるし、体幹を鍛えろっていうことなんじゃねーの?
俺はそうフォローしたが、びいは激怒してしまってて、辞めると言い張る。
馬鹿馬鹿しいね……
びいは自分にだけそんなことを言われる、軽々しく扱われ、その他もいろいろ我慢できない、と言い張った。
あの先生の生きてる現実と、俺らの現実は全く世界線が違うから仕方ねーだろ。
俺はそう言ったが、びいは自分の世界が否定されることについて、どうしても我慢できないと言う。
あの先生は強い。ヤクザと喧嘩してきて、修羅場も潜ってるから、そこだけ知識を得ればいいじゃんか。
居合の先生には、カルチャー教室のようなライトな合気道です、と言ってあったが、稽古はぬるくとも、ここの先生はまあ、近所の教室の中では、正統派でない、喧嘩という意味での強さはある先生だった。まあだから、頭打ちになり、段がそれ以上認められなかったというのは見て取れるが。
俺たちがここの教室を選んだのは、他では断られたせいだ。そのことも何度も先生から、自分が拾ってやったと言われていたために、びいはそれが我慢ならないようだった。まあ、他で断られたのは、フランスと繋がりがあれば、コロナを持ち込む可能性があると思われたのと、俺がうっかりとかけた技が強すぎた?ということはないが、先生の痛めた肩を悪化させてしまったというのがあった。
知らねーじゃん、肩壊してたということ。言われなかったらわからない。40代後半か、50代後半の先生だから、おじいちゃんじゃないしな。まあ、そんな経緯で、ここの道場しか受け入れられなかったいうわけ。
俺はあの先生が日本刀の扱いの知識を、どこで得たのかについて興味があったが、そんなことは聞けなかった。何より俺は、うっかりたくさん話して地雷を踏みたくなかった。あの先生と俺たちは分かりあえない。びいのお母さんと俺たちが分かりあえないのと同じく。最初の頃、もう少し理解があるのかと思ったが、俺はすぐに合気道の技だけ習えば良いと感じた。精神性というのを求めない。
日本のこれからについて興味ない、と先生は言った。
先の戦争で負けたことについても、自分さえ良ければいいと。残りの余生を楽しく遊ぶのだと言った。俺はそういう先生から学ぶことはないと思っていたので、技だけを習得することにした。遊ばないと損だといつも先生は言ったが、俺もびいもそんなことにはあまり興味がなくて、日本の将来を憂えていた。
とにかく子ども達を強くして、乗り込んで来られた時、泣かないようにしてあげないと、かわいそうだという思いがあった。海外にいた時は、遠すぎて何もできなかったが、今自分達がすれ違う子ども達に、緊急事態にどう対処するのか教えてあげたいというのが俺とびいの共通点だったのだ。
余生を楽しく過ごしたい人と、俺たちと、余生という意味では期間は似ていても、生きる目的が全く違う。あと2年程度で寿命かもしれないんだが。
そういう意味で俺達は、まだ年齢が若い方の居合の先生の方に気持ちがシフトしていた。先生は自分の技が消えてしまうことをとても残念に思っているしな。あの先生は本物の天才だ。天才ゆえ、誰も真似できない。その技が廃れる事が本当に残念で、俺達がもしも唸るほど金を持っていたら、あの先生に技術を伝える道場をプレゼントしたいほどだった。子ども達が剣術を習えば、きっとシャキンとする。
弱々しい、殺す前から死んでるような、そんな子ども達ではダメだ。どんな事があっても生き残るという根性があるような、そんな子ども達を育成しないと、何のために先人が命をかけて日本を守ったのか、無意味になってしまう。
鍛えれば鍛えるほど、人は強くなる。
俺は正直、子ども達に世界の現実を知ってもらいたかった。今ならまだ間に合うこと。鍛錬と自信。俺のようにそう強くなくとも、精神的には鈍感なくらいに強くなって欲しかった。俺だって最初からこうだったわけじゃない気がした。多分、びいのようにどうすることもできないくらいに弱い子といると、俺が何とかしてやらないと、と、思えるのかもしれない。そもそもびいは、ここまで弱かったわけじゃないのだからな。あまりに人生が困難すぎて、死にそうなくらいに弱ってしまっている。人というのは、亡くなる前はそうなのかもしれないが、みすみす、このままの状態で死なせたくはなかった。
俺達のことを、全ての人にわかってもらおうなんて考えるのがそもそも無駄だ。めんどくせーよ。いろんな人と、各々、お互いがプラスになるところだけでお付き合いして、自分の世界に活かせばいい話だろう。
びいは影響されるの嫌、と言い張った。自分まであんな低い波動になっちゃうわ、と。
おお、回復の兆しじゃん。俺は、こういう機会をバネに、びいに何とか立ち直っていって欲しいと切に願っていた。この流れはイケる。
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