8月12日 びいの過去、成功から一転

 この話は書いたのか忘れてしまった。俺もびいも記憶の残りメモリが足りないのか、何を話したのか全く覚えていられない。

 

 パリのコンペに勝ち、800メートルの布と大きな白いバルーンで天国のインスタレーションを作り、評価され、さあこれからという矢先、もうこれ以上、援助できないと家族からの支援が途絶えた。


 物価の高いパリでやっていくのが困難になり、都落ちした先の国で、ベネチア・ビエンナーレに選出されたアーティストのアトリエを訪れたびい。そのアーティストの作品は美しい虹のようなインスタレーション作品が主で、びいはあっという間にさっとアポイントを取り、出かけた。


 自分の作品ファイルを見せ、お金に困っているので、アシスタントの仕事ないですか、とそう頼み、運良く雇われて。この国は貧しいところから発展して来た国だから、相互扶助の精神がすごい。この国であれば、何とか生きていけるんじゃないかと思ったのは、俺だけでなく、びいもそうだったに違いなかった。


 そのインスタのアーティストはびいの作品を見て、あなたも制作続けた方が良い、作品発表するべき……と言い、雇うという雇用、師弟関係というよりも、平等にきちんと同じランクのアーティストとしてまるでお客さんのように丁重に扱ってもらったが、びいは結局、その国にいた3年の間、自分の作品を発表することはなかった。


 美大の教授をしていたそのアーティストはまだ若く、アメリカと行き来があり、その国でトップのアーティストだったために、びいはとても恵まれた。あの頃、たくさんのアーティストと交流を持てた時期を振り返ると、やはりびいが生き生きしているのはアートの現場にいる時なのだとわかる。不器用なびいに、アシスタントなんていうものが務まるのか大いに疑問だったものの、そのアーティストは無理矢理に、びいでもできそうな仕事を作り、ある時はバス代を貸してくれた。相互扶助の精神が本当に……温かかった。


 あの国にいた間、びいはとても恵まれている、と楽しそうに下積みの生活をしていた。日本語教師なども、掛け持ちでたくさんバイトして。びい自身、美大を出たわけでないから、周りの皆がアートをしているという環境がとてつもなく楽しく良い環境に感じられたらしかった。その国はアーティストに対し、とても理解のある国で、首都の一等地にアーティストがたくさん入る綺麗なアトリエ、スタジオがあり、いつもギャラリーのオープニング・パーティ、その国で中心となっていたアートシーンに重要な人の側に着くことで、びいは既婚なのに、屋根裏部屋に住む6人のシェアフラット生活と、考えられないキツイ生活が、そうは思えないくらいにアート面では充実していた。今でこそ、シェアが日本でも認知されるようになったが、当時は、びいはこの都落ちについて、身ぐるみ剥がれるような想いでいたらしかった。部屋でもカウボーイハットをかぶっていたのは、斜めになった天井で思い切り頭をぶつけるせいだった。びいがこの家の家政婦のようになってしまったのは、結局のところ、人が良すぎるせいだった。


 こんなふうにびいの歩いてきた軌跡をずっと知っているギャラリストの田村さんとは、びいがアートしたくとも環境に許されず、陶芸をしながら大型写真を焼くプロラボに就職し、せめて写真表現を、と、もがいていた時期に出会っている。だから田村さん繋がりのご縁で出会う人達というのはびいに対する理解が他の人と違っていたのかもしれない。びいは都落ちからパリ郊外に返り咲いた後も、資金と気力がなく、小さな作品規模で、思うように表現できない場所に落ち込んでいた。いや、小さな作品でも気に入ったものになればいい。なかなかそうならず、どれも未完のような出来だった。


 近年、お金を稼ぐためのフリーランスの仕事で戦記の人の仕事をたまたま受けた。びいは、都落ちしてきた小島で、偶然見つけたサイト主から依頼が来たことについて、心底ショックを受けていた。でも黙ってた。このことは書いたと思う。びいは戦記の人のサイトを見つけた時、出会ったら運命が変わる人だということで、そっと閉じて、連絡はおろか、そのサイトにコメントすることさえもなかったのだ。運命というのは恐ろしい、出会う予定になっている人は、どんなに回避しようが、出会ってしまうのか。海外にいようが関係なく。


 神風特攻隊員の肉声テープ。びいが申し込んで受けた依頼は、運命と知って、出会うことなく黙って立ち去ろうとした人からのものだった。それでもびいは、そのことは話さなかったのだが。なぜこんなことになったのか、運命というのは本当に強引で、今その全てが、静かに既に終わったことなんだろうということについて、もしそうなら俺は安堵する。単にびいが日本に戻らねばならないがためだけに、戦記の人が、そのきっかけとしてだけ存在するのなら。


 せっかく、フランスに戻り、パリ郊外に住み、アーティストとしてなんとか仕切り直しに成功し始めた矢先だった。苦労して手に入れた自分達の小さいながらも城である屋敷。そこをアトリエ兼、自宅美術館にするのはびいの積年の夢だったのにもかかわらず、今のようになった。


 今のように行くに行けない、来るに来れない、その状況になると誰が思っただろう。びいは一切夏服を日本に持ってないから、日本の暑い夏を乗り切ろうと、リサイクルで考えられないくらい安い値段の洋服を買っていた。だが、合気道だけに出かける日々だから、Tシャツにジャージだけで良いのだ。びいが普段にジャージを着るなど、びいの人生の中で、ありえることだと誰がいつ思っただろうな?


 中学生や高校生の時のびいでさえ、普段着にジャージなんてありえないが、びいは、自分が浮いているのが、合気道の帰りのジャージのままだからということについて、たまに我に返って、さすがに着替えた方が良くない? たとえ自転車で5分の距離でも、と言った。やっとそこまで精神状態が復活したということだろうが、裸足で外に駆け出してもわからないくらいになってしまっている人を助けるのには、そこまでのいろんなショックの原因から遠ざけて、落ち着けるしかない、と。


 俺の地道な努力が実を結んではいっていたが、びいの状態がそこまで酷いことについて、びいのお母さんはおろか、誰も知らなかった。俺は入院させるわけにいかないし、間に入って、できるだけ上手に立ち振舞うしかなく、人というのは、長い時間をかけ、耐え難いことを無理矢理に我慢した結果、こんなふうになるのだな、と妙に、俺らしくなく、しんみりとした。


 ただ、完全な狂人にはなっていない、不可逆ではないということで、俺はそのことについて、まだどうにかなるとは思ってここまで歩いてきていた。俺のわけのわからない努力、知る人はほとんどいなかった。びいの状態は、本当に一進一退だった。目を離した隙に、電車や河に飛び込んだり、窓を突き破って、階下にダイブするかもしれない。まともな精神状態の人はそんなことしない。


 もはや、何がまともかなんて、どうでもいいし、自分の何がおかしいのか、わからなくなっている。とにかく死なせないためには、精神安定の薬を飲ませることが不可能なら、今、俺がしているように、24時間、見張るしかない。もう俺も意地になっていた。そこまでして死なせないというのは不可能だと誰しも感じるだろう。


 俺は不可能を結局、可能にした。I先生でさえ、ほぼ匙を投げたに近い状態のびいだったが、俺はめちゃくちゃに根気強かった。こうなったら意地だった。

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