8月12日 慰霊祭の清掃

 昨年と同じく慰霊祭の清掃の連絡が来た。俺達は日本に帰ったら、かつての戦争の話をお年寄りから聞きたいと思っていた。もともとびいは小学生の時には、父親の本棚から拝借してきた、新聞社編の「戦争の聞き書き」の本を読むくらいだったのだ。そしてその文体に「これならわたしでも書けるかも」と不遜にも思ったらしかった。思えば、びいはその頃から既に、小説よりもドキュメンタリー志向が強かった。


 それでも、長生きした祖母から戦争の話を聞いたことはほとんどなかった。明るかった祖母は弟を戦争で亡くしていて「戦争の話? 大っ嫌い!思い出したくもない」と必ずそんなふうだった。聞かれても一切、当時の詳細を口にすることはなかった。


 海外に出て、初めて日本語の神風特攻隊の生き残りの人の手記を見てから、びいが小・中学生のうちにもしも戦争の聞き書きをしていたら、と悔やんだ。もう既に遅かった。当時であれば、たくさんまだ、戦争を経験した人達がご存命だったに違いなかったが。びいは子どもの時、案外と、まだ戦争経験者がたくさんいたことに安心していたらしかった。いつでも話は聞けるだろう、と。


 大学生の時にたまたま電車で隣り合わせになったというだけで、そのご老人は、びいに昔の恋人の話を語って聞かせた。びいがその恋人を彷彿とさせたのか、どこか面影があるとか、何とかで。よく知らないが、宝塚歌劇にでもいた人なのか? とても綺麗な女優さんみたいな人だったのかもしれない。びいが、あの時の話、書き留めておけばよかった、と言っていた。今頃になって。記憶が風化していくなんて思いもよらず。悲しい悲恋の純愛の物語だった。


 びいは出会ったばかりのご老人のお話を、まるで孫のように熱心に聞き、引き裂かれた恋人同士の心中を想い、憂えた。短い時間だっただろうに、まるで長い長い列車の旅を、時空を超えた旅を、そのご老人と供にしたようだった。


 びいも俺も、戦争の悲惨さは体験してよく知っていた。でも、そんなことを真顔で言えば、そんな気がするだけだろう、と言われるに違いなかった。いくらナイーブな人であっても、俺達の話をそのままに鵜呑みにするというのが信じられない、誰も疑問を呈さないの? と言ったのは京都でこの間、久しぶりに会ったお兄ちゃんだった。


 びいはお兄ちゃんのことが大好きだったので、暑い、怠いと言いながらも、考えられない遠方をゲンキンにもいそいそと出かけて行ったのだった。びいはそんなふうに、本当に自分のしたいことなら、フットワークが軽い。特に近年、たいていのことは、積極的にやりたがらないが、突然、思い立って行動する。


 2019年、6月くらいのこの記録では、戦争の話は何度も出たかもしれない。

俺たちが過去生で体験した戦争の話。戦記の人というのは、結局、俺たちを助けてくれた人。戦記の人にこの話をしたところ、覚えてない、記憶にない、とのことだった。既に書いたかもしれないが、びいは制服姿で、俺は、もっと幼かった。土豪と言うんだろうか。戦記の人は前世、兵隊さんだった。


 ここにいれば助かる、生き残るんだ、自分は行かねばならない、と兵隊さんは出て行こうとして、俺は「置いて行かないでください」と泣いてすがった。出て行けば死ぬ。それよりも俺たちとここに隠れている方が。だが、兵隊さんは俺に、君も男だろう、幼くとも、一緒にいる女の人を守るんだ、この人を守ってあげて、と言い残した。そこにいたのはびいだったが、俺とびいの関係はわからない。びいの方が年上で、ずっとお姉さんだったが、気丈だった。とても気丈だった。俺の方がみっともなかった。


 兵隊さんは出て行った。残された俺達は、兵隊さんよりは確実に生き延びた。でもどうなったか思い出せない。そのことを戦記の人に電話で言った。国際電話。その前後、魔物が飛んできて、斬って斬って。それはそもそも俺が、びいを生贄に差し出すようなことを言ったせいかもしれず、それは自動のダウンロードのようだったが、目を見張るような、異常な光景だった。何事も経験しないとわからない。俺は、結構、浅はかな方かもしれず、物事の単純化は後々問題になる。そう思うと、びいが何にでも逡巡するというその理由が、今や分かる気がした。


 戦記の人は、過去生のことは何も覚えてないと言い、でも、君達がそう言うのなら、きっとそうなんだろうね、と言った。そういうところが微妙に親分肌な戦記の人は、話していると妙に安心した。俺がかなり若いというのも、確か戦記の人には早い段階で言い当てられた。「岬くん、君、かなり若いだろう」と。フランスにいた時の国際電話、あの時、あの時期、戦記の人はかなり参っていた。今思い出しても、あの時は魔物とか、どうやら、戦地がそのままに再現された状態になり、びいが大変だった。


 他の先生との漫画原作の仕事の時もそうだったが、人の思念なのか、何の思念か知らないが、目に見えて「魔」が飛んできていて、首を捻る。誰かも言ってたが、死霊だとそこまでのパワーはない。戦記の人はその思念を飛ばしたのは自分じゃない、びいに会ってない、会いに行ってないと言っていた。そもそも、びいと戦記の人は、会ったことさえなかったのだ。ネットの中でのクライアントさんが戦記の人で、俺たちは雇われて仕事をしたことが何度かあっただけ。それがなぜ、こんなことになるのか。


 文字通り、びいを襲った思念は、過去に、戦争に参加した人で、現在、意識不明で病の床に伏せっている人の念だとか、そういう可能性はあった。漫画原作の仕事の時も、似たようなことが起こり、物理的にこれは継続無理、と結局、降板することになった。漫画の時の魔物は、もっと「ごく普通の本物の魔物」で、人ではなかった。いつも枕元をウロウロしていたが、無視した。びいも俺も、見て見ぬ振りをして、影響はほとんど受けなかった。


 ただ、そんなものが頻繁に自分達の周りをうろつくことについて、貰い事故の原因になってはいけない、と、俺は常に、気がつけば般若心経を口にしていた。そういう簡単な結界で祓える程度だが、いつもそんなものを携えて行動するほど自分達は鷹揚でもなかった。いつでも足を引っ張ろうなんていう魔物が側にウロウロしていたら、うっかり自転車にも乗れなかった。


 とにかく、既に亡くなった英霊の慰労というのは、自分達にとっての責務らしいということは感じていた。結局のところ、戦記の人も、そこに飲み込まれているに近いと見えた。こんな国を護るために自分達は死んだんじゃない。


 戦争の負のエネルギーというのは、想像を絶するものだった。俺もびいもフランスで実写、実写というより実映像だな、日本人の海外での玉砕シーンをテレビで見たことがある。それこそ、鮮明ではない引きの画像であるにもかかわらず、直視に耐えなかった。多分あれが、いわゆるバンザイクリフなんじゃないか。日本人旅行者に長い間、最も近いと言える海外。


 自分達にとって、遺族会に入り、慰霊祭に出かけるというのは、まるで自分で自分を弔うような、そういう重要な意味を持つことだった。知らねばならない、調べねばならない、何かしなければならない。そういうご縁だった。


 たまたま遺族会の会長は、田村さんのギャラリーで新春小品展に出品していた作家先生だった。もうリタイヤされておられたが、校長先生を長くされていた。どうして校長先生というのは、目線がものすごく平等なんだろうな。それでいて、温かく、統率力があり、解決になる答えをすぐに手渡してくれる。びいは遺族会に入ったことについて、とても喜んでいたが、びいのお母さんは渋い顔をした。そんなわけのわからない昔に死んだ人を助けるより、まずわたしを助けなさいよ、と。


 びいのお母さんはダブルワークだったし、老体に鞭打って、それこそ、人の何十倍も時間を有効に使い、コマ回しで時間を過ごすかのように、たくさんのことを同時にこなしていた。何の役にも立たない娘と現役で働きながら、家事も手を抜かず、地域に貢献する母。


 びいのお母さんにとって、びいは異質なだけでなく、興味を持つことから何から、感じ方や考え方、びいのお母さんにとっては、何でそんなものに興味を持つのか理解不能だった。


 びいのお母さんが昔、びいに、周りの人があなたの作品のことを褒め称えて初めて、じゃ、それくらいの価値があるのかしらね? とわたしは感じるだけで、正直あなたの作品の価値なんて全然わからないと言ったことがある。わたしは凡人だし、と付け加えて。びいのお母さんは、あなたの作品の価値がわかる人、あなたと気が合う人は、皆、物凄く優秀で教養がある人達ばかりね、とは言ったが、普通の人には全くその良さがわからない、と。びいはそのことに心底がっかりしたようだった。誰をおいても、父や母に理解してもらいたかったのだろう。


 当時、パリで出したコンペに勝って、制作して、ある程度の結果を出したつもりだったびいは、それでいてさえ、この程度の理解しか得られないということについて、自分が無理矢理に単身、海外に渡り、奇跡を積み重ねて制作していったことが、まだ母にとってゼロ以下、お金と時間を使うという意味で、マイナスでしかない、ということについて、軽く絶望が入ったようだった。何もかもお金のため。お金に換算した結果を出さねば、無意味と言われることについて、びいには大きな否定の気持ちが最初からあった。文化を金の天秤にかけると言うのがおかしい。


 お金に換算できるような結果を追うということは、今の時代の大衆と寝そべらねばならず、そんな遅れた感覚で何かするということに抵抗を感じるびいは、常に何でも早すぎて、後からブームに来るのは大抵、5〜20年後だった。同じことを続けていれば、先頭になれるのに、まあ言えば、早すぎてダメだ。それはびいの兄弟も同じことをびいに言い、びいが遥か昔にやっていたことが今、金が稼げる筆頭のこととして台頭してきてる、と愚痴った。


 びい自身、同じことをし続けてるようには見えないが、実はびいの大きな計画の中では同じことをやっている。そしてその目的は、金や名誉でなく、ただただ「自分の作品を作る」というところに集約していた。完結の具合が、全て未完なのも、もはやそれがびいのカラーなんだと俺は最近になり、パターンに気づいた。それはずっとずっと早い段階で、東京のカメラマンの人に指摘されていた。びいのアートは池に小石を投げるようだ、と。それが言い得て妙だと思ったのは、技術や見せ方、美術的な仕上がりなどにびいはあまりこだわらないせいだった。そのことが、完成度に関わって、2019年のNAC(パリ日本人会アーティストクラブ)の日仏文化会館のビエンナーレ展でも、びいの作品は賞に選ばれなかった。完成度が引っかかる、と。あ、これは俺の落ち度か。作品制作、設置、コンセプト、ポスター。


 そのことをわざわざ、実行委員の人から聞かされたのだが、そのことの意味というのが、俺には今ひとつ分からなかった。親切心?


 絶対に誰よりも新しいもの、今の日本のアートシーンの中でも、多分、最も新しい。高校生や美大生はどうか知らないが。びいがやろうとしていることは、ぞっとするくらい今や、人間存在のあり方を全く変えてしまうものだろう。俺は、漫画家の先生の後ろについていた存在が「まだ人類には早すぎるからダメだ」と言ったことについて、心底、ぞっとしていた。自分達では気づけなかった。


 俺もびいも、今放り込まれている現実の中で、「狂人」とされることを恐れる。既に、そんなふうに包囲されている網が固められつつある。


 思ったよりもまともじゃないか、と言われる時、俺はぞっとした。やめてくれよ、俺はまともだ。だが、人というのは、自分が理解できないことを話す人を狂人扱いするからな。


 俺もびいも、平和に生きて死のうと思ったら、もうこれ以上、何も話さないことだ。まさか自分達が、そんな扱いを受ける立ち位置に来るとは思わなかった。


 そのことはよくわかっていて、できるだけ黙っていないといけないことについて、俺は本当に多大なストレスが自分にかかっていると感じていた。誰かに話して共感されたかった。でもそれは無理な話だった。何度も繰り返して、無理だとよくわかった。まだ、戦記の人だけが、受け入れがあった。


 だが、あの人の方がまずい、あの人はこのままいけば、乗っ取りに遭うだろう。びいも俺も、それを目の当たりに見ていたので、自分たちになんとかできる霊力はないかと思ったが、びいも俺も、そういう意味で素人だった。ただ、戦記の人は、自分できっと何とかするだろう。何とかできないとすればそれまで。俺は大人の男を助けるほど暇じゃない。びいで手一杯だった。ただ、びいはそれでも納得できないんだろう。全く連絡を取らずにいても、思い出したように泣いていた。誰かに言われたとかでなく、自分には力がないということについて、びいも俺も、よくわかっていた。そして気をつけないと、俺たちが使える、とわかった途端、今度は魔物が俺達を使役しに昼夜問わず、それこそ飛んでやって来るから、大変な世界だ。


 実家からの仕送りが終わり、せっかくのチャンスを生かせないまま、配偶者が何とか生き延びる手立てとして、国外に目を向け、びいもせっかくこれからという時に、と抗ったが、結局そこから、都落ちし、パリを出て、アルバイト生活に入る。



 びいが2020年の新春小品展で、戦記の人の本を手伝ったと、本を見せ、たまたまそこにいた遺族会の会長の作家の先生とお話した時に、遺族会とご縁ができた。祖母の弟が戦死しているということで。そもそもびい達には、戦死した弟がいるどころか、その存在さえも知らされていなかった。びいがなぜそれを知ったのか。俺には全く覚えがないのだが、びいが、祖母の弟の奥さんに電話して、聞いていた。今、施設にいる。びいの所の家族の親戚づきあいは密接で、よくよく見知っていた。だから、びいも帰ってくるたびに配偶者とお見舞いに出かけていた。そんな縁で、ふと、戦争のことを電話して聞こうとしたに違いなかった。


 自分達は祖母の弟の名前さえも知らなかった。とにかく、戦争で死んだということくらいしか。出身地はここからかなり遠かったが、そういうご縁で、遺族会と去年から関わりがあった。昨年の清掃も、慰霊祭も参加している。幼い頃、必ず暑夏の朝礼で、一番にでも倒れていたようなびいだったが、先の戦争で亡くなった方々と繋がりがこれでできたことについて、びいはすごく喜んでいた。そんなふうによくわからない過去を偲ぶことは、ものすごく重要なことで、それは俺も同じかもしれなかった。まるで時空を超えて、全てが繋がるかのようだった。それは戦記の人が墜落した零戦や、まだ南洋の島に眠ったままの遺骨収集の作業と関わった理由と似ているのかもしれない。そのままに、放っておいて、朽ちさせることなどできないというような、駆り立てられるような感覚だった。


 びいは一番最初に戦記の人のブログを見つけた時、直感し、すぐ去った。もう遅すぎる、自分は結婚しているし、決して出会ってはいけないと。その通りになった。人生が180度変わってしまった。自分達は発見されるのを洞窟でひっそり待っている遺骨なのかもしれない。


 日本に帰ってきてから、俺は思い当たる節があり、びいの過去作品を引っ張り出した。やっぱりだ。そのままになっていたが、割れたメガネと、汚れたTシャツ、そして、血みどろになったような陶器のオブジェが出てきた。そのオブジェ作品は、東京のコンペに落ちて落選したものだったが、前を通りがかると、センサーで音が鳴る。電源を入れたら、ちゃんと機能した。その繰り返す音を聞いていると、まるで民族音楽のように、浮揚感があった。After Darkという黒いプレートが貼ってある。箱の中身は脳。人が亡くなって、いろんな記憶が剥ぎ取られるように亡くなっていく過程の中で、最後に遺っていく想いや言葉は一体なんだろう、という作品だ。とても原始的な欲求や、言葉にならない断片的な触感や記憶。バラバラになり、乾き、サラサラと砂のように無になる前。


 そういえば、びいのごく初期の作品でフランスの核実験に反対したTシャツもあったんじゃないだろうか。探してはみたが、結局そっちは出てこなかった。確か、ゲーセンでキャッチしたメンソレータムのナイチンゲールのTシャツに核兵器反対のフランス語が蛍光オレンジ色で書かれていた。消費社会との対比。実はこのあいだ行った展覧会のデザイナーの作品がそのナイチンゲールで、その展覧会のチケットは、びいが日本に帰ってきてから、入った美術協会の会員さんの作品だった。その会員のデザイナーの方は日本を代表すると行ってもいいデザイナーさんで、物故者、今はその娘さんのデザイナーが引継いで、この会の重鎮になっているようだった。


 全てが繋がっているというパズルのピースが合ってきて、俺はゾッとしていた。


当時びいは、そんなふうに何かの会の会員になるなんて、すごく否定していたはずだろう。年月は人を変える。それにしても、全ては繋がっていることに俺は驚きを隠せず、びいの物語の結末はどこに落とし込まれていくのか、人生の終盤に近くなり、この劇的な変化にゾッとしていた。しあわせに海外暮らしをしていたはずのびいは、そのままでいたなら、制作は二の次になっていたに違いない。それは周りの望んだこと、多かれ少なかれ、びいは、結局抗っても、意思弱く、周りに流されていた。死に物狂いで全てを断ち切り、海外に出て頑張った数年の後は、そこまでのエネルギーを持続させることができずに、生活のために普通に生きようとした。


 今、本当にそれさえも全く無理という段になり、やっと遺されたものがアートだけという環境になった。死ぬのを待つ間。アートへの情熱が失われるなんて想像することも無理だったはずのびいは、生きていても死んでいても、今、同じになった。俺が、それじゃダメだろう、なぜなんだ、と言っても答えなかった。人は深い絶望の中にいると、ただ涙を流す。だからびいの時間のほとんどは、実は泣いているだけで、俺は、「エネルギーの無駄になる、自分で自分を傷つけるからよせ」と言い、眠らせた。本当は薬を飲ませたりするべきなのかもしれない。びいが頑なに、医者は嫌いだ、薬も要らない、絶対に飲まない、と言うから。


 そんなものは何の解決にもならない、自分は自分の人生が辛くて泣いている、泣く理由ははっきりしている、死にたい理由も。ただ悲しいとだけ言った。それは何度も同じ対話を繰り返したが、俺は地縛霊と会話してるとしか思えなかった。何をどう話そうが、諭そうが、結局のところ、自分が死んだことがわかってないような、世に恨みを抱えたまま死んだ地縛霊のような会話展開にしかならない。


 そんな中、俺はこの状態にイライラしながらも、2歩進み、4歩下がろうが、地道な努力を続けていた。俺も意地になっていた。簡単にほんのちょっとしたことで、立ち直るきっかけを作り出せそうなのに。周りの人を道連れに一緒に自爆しそうな霊をどう鎮めるのか、全くそれと同じ作業を俺は、びいと一緒にいて同じことをグルグル繰り返すことに付き合わされていた。それでも、フランスで泣きながら転がるように地面を這っていた時に比べたらマシだろうか。フランスは他人のことを気にしないから、そういう人を見かけても、別にそのままに通り過ぎるに近い。日本ではそんな人、いないだろう。ただでさえびいは、泣きながら自転車を盲滅法に走らせ、道に迷い、信号も確認せずに車道を渡ったりして俺は、お前死にたいの!? と何とか正気にさせようと、屋上から突き落とすように階下をのぞかせ、お前、死にたいなら今すぐ死ねよ、と迫ったりした。


 死ねないだろ!我に返ったら怖いだろ?


 本当にもう、俺までおかしくなりそうな日々で、これはヤバイな、と思ったことが何度かある。びいのお母さんはびいを追い詰めすぎるし、実のところ、びいの兄弟からは早く死んでくれと言われていた。それくらい兄弟も追い詰められているということなのだが、冷静に考えて、全ておかしいだろ。まだ黙って、どっかバイト行くとか、もうちょっと何とか、びい、お前、本当に気狂いとして死にたいわけじゃないだろ?


 というか、びいは気狂いではない。びいがいまの状況や自分の気持ち、なぜこんなふうになっているのか、何が悲しく、何が辛いのか、理路整然と説明した時、大体の人は首をひねった。びいは正気なのだ。狂ってなどいない。俺とのことと。


 思い返すと突然に悲しくなった。びいは正気だから、今の状態に耐えられない。それはもしかして、配偶者も同じかもしれなかった。多分、誰も悪くない。


 それとも、それは違うんだろうか。自分達のこころが弱く、魔に付け込まれたとかか?


 それとも、俺たち自身が既に魔物になっているとかか?


 人というのにかかる負荷はある一定以上を超えたら、いきなり電源が落ちる。それでまた、リスタートすればいいんだが、一部データが壊れる、消失するなど、いろんなことが起こる。熱暴走だって。今のびいは、いろんなことのショックが大きすぎて、悲しいかな、壊れている状態に近くなっていた。ただ、不可逆ではない。


 このあいだ京都で、お兄ちゃんと会った後、お嬢様とも会ったが、お嬢様は前にモナコで、そうあれは最後の夏のバカンス、2019年の夏に言った。


「それは脳のバグですわ。過去生なんて。古いデータの書き換えがうまくいかずにどこかで、消えるはずのデータが消えずに残っているとか」


 俺は何とかして、そっとしておきながら、そして助けてあげながら、何とかならないか、道を模索していた。ちゃらんぽらんで適当な俺が、何でもどうでもいいんじゃない? と答える俺が、何でこんなことに関わってるのか、俺自身も不思議だった。


 ただ、俺はびいと似て、世話好きではあったかもしれない。それにしても、たまに、放り出して、忘れてしまおうかと思うこともある。ただ俺も、今回で戦記の人に対する恩は、一応返したつもりでいた。よくわからないが、あの人もびいと同様、似たような問題を抱えていた。びいがどうしてもまるで磁場のように戦記の人にこだわる理由も、二人は双子のように似たところがあるからかもしれなかった。


 二人とも、子どものように無邪気な部分があり、そして、他人と自分との区別がきっちりついていないかのように、共感性が高かった。こころが柔らかく、すぐに涙した。境遇。二人とも、他人の痛みに敏感で、そして自分の痛みにも敏感で。


 びいと戦記の人が、仮に俺の子どもであれば、子どもというのはこういうものだ、と考えたに違いなかった。それを無理矢理に矯正しようとするから、おかしなことになる。結局のところ、芸術系の子どもというのは、他の人にとってごく当たり前のことが当たり前じゃなく、そんな違いがなぜわかる? というような点にとても敏感で、感じ方が普通の人とは違う。びいも戦記の人も、おそらく英霊の魂に完全に共鳴していて、電波のようなものを拾ってしまうがために、何とかして自分達をそんなふうに浮かばれなかった人達のために、役立ててあげようと無意識の使役に自らを差し出していた。


 正直、この部分が結局のところ、全ての物事の原因となり、訳のわからない状態で自分の人生が自分のものでなくなる原因になっていた。二人とも、優しすぎるのと、善意の人過ぎる。自分を構成する世界のロジックが、他に通用しない故に、自分達の芸術世界に他の人を招くしか、生きる方法がなくなる。その迷路のようなそれぞれの世界は、柔らかいこころを守っていた。二人ともが、その外側の自分達の世界を成立させるために、時に他人の存在よりもその世界の成り立ちを優先させた。まるで、誰でもが棲むことのできる世界でなく、人を拒み、時に訪れる人が意図せず死ぬこともあるような酸素の薄い場所のようだった。


 俺はびいになんとか、生き抜いて欲しかった。戦記の人についても同じことが言えただろうが、あの人は男。自分で何とかするだろうし、実際、何とかしていた。あの人の方が実際は、びいよりもずっと、状態が悪いのが見て取れたが、それを無理矢理に封じ込めて、それは文字通りの無茶苦茶な強引さで、だからおそらくいきなり倒れたり、救急車で運ばれたり、このままでは命が短いだろうことは見て取れた。びいはなんとかしたいと思ったようだが、そんなこと。自分も何ともなってないのに、他の人を助けられるわけがないから。


 とにかく、この遺族会との関わりは、びいを落ち着かせた。


 炎天下の下、一部は比較的新しい、立派な慰霊の石碑の立つ公園の草引きをしているのは七十歳の後半、八十の老人達ばかりだった。鍬や雑草を掘り起こす農業の道具を持っているところを見ると、こんな都会なのに畑があるんだろうか。去年よりも皆、くたびれて小さくなってしまったように見えるのは、ワクチンのせいだろうか。いくらお元気そうに作業していても、次世代に全く繋がっていないことについて、びいも俺も真剣に日本のこの状況を憂えていた。このままでは隣国に乗っ取られる。昨年は小学生のお孫さんが一人来ていたが、今年は、学童保育に行っているとのことだった。


 つい2週間ほど前、びいのお母さんの家に集まった時に姪や甥が来ていて、小学生、中学生のわけだが、あまりに小生意気で、それだけならまだしも、母親に固いおもちゃを投げつけてわがままを言いだしたので、俺はぐっと我慢していたんだが、我慢しきれなくなった。中学2年なんだが、今ここでガツンと言っておかねば、あと一年もしたら、もう間に合わないと感じて。


 まあ平たく言えば「何やってるんだ」と胸倉を掴み、思わず恫喝してしまった。「女に暴力を振るう奴はな、男じゃない、クズだ。お母さんに謝れ」と。中学生は震えながら「お母さんは女じゃないもん」と言ったが、俺は「屁理屈言うな」と。


 胸ぐらを掴んだのは、その他にどうするべきかわからなかったからで、俺は別に殴るつもりはなかったんだが、いかにも殴りそうな勢いに見えたらしく、びいの母親がすごい勢いで割って入ってきて、中学生の甥を庇い、俺の前に立ちふさがり、場が凍りついてしまった。俺も、他人様の子だから、ずっと我慢していたのに、調子に乗りやがって。人を小馬鹿にしたような、その性質は前から見て取れたが、俺も子ども相手に大人気ないのか、わからなかった。ただ、もしも自分の子であれば、そんなものでは済まなかった。


 


 まあそんなわけで「こんな情けない国のために、自分達は若い命を散らせたわけじゃない」と、つい口走ってしまった。あいつら、本当にヘニャヘニャすぎるからな。見るに見かねて。


 びいが親戚の集まりに顔を出しにくくなった、と後でもう本当に、びいとびいのお母さんから、凍りついたように「岬くんほんとにダメ。出入り禁止」とでもいうようなダメ出しを食らった。


 今の日本の教育は、全く前とは違うと言われた。俺が海外で見て来た子ども達は、まあ国にも寄るが、確かに悪ガキもいたな。俺は特に注意して見ていたわけじゃないから。びいのお母さんが、日本では俺のような態度は大問題になる、と言った。


 「先祖の供養してないからこんなことになるんじゃないか?」と言ったら、びいのお母さんは「気持ち悪いこと言わないで」と言った挙句、供養したいなら、俺が先祖供養をしろ、と。まるでそれは、俺に俺自身の供養しろとでもいうように聞こえた。


 とにかく、去年も今年も、俺たちは神妙な顔して、公園の清掃をしていた。びいも俺も100パーセントの夜型の人間なので、朝の光が眩しかった。今年は、とても涼しくて、本当にラッキーだとは感じていた。台風が去った後、このまま涼しくなるとさえ聞いていた。びいも俺も、何が矛盾がないって、そんなふうに粛々と、終戦記念日の式典のために草むしりしているとかいう状態が、これがあるべき姿のように思えた。そうだ、去年の式典の時、確かびいは他の人にわからぬよう、泣いていたっけ。

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