8月6日 コロナ開始から2年近く

 

 二人がこのまま会えることなく別れることになれば、びいは形的には、これでまるっきり自由な制作ができる環境になったわけだが、それにしても、子どもっぽいびいのダメージは大きかった。びいは本当にしあわせだった間、作品制作がまともにできなくなっていた。びいは配偶者のことを近年「ぱぱ!」と呼んでいたからな。そういう時のびいは本当にしあわせそうだった。思い出すと悲しいくらいだ。


 しあわせすぎると、制作する気がおきない、とびいは言っていた。実際、小島に渡ってから、5年くらいはグループ展さえしていない。たまに写真作品を撮っていたくらいだった。


 だが今のびいも、正直、作品制作どころじゃない気がした。生きてるこの状態が作品だというなら、正直、記録は他に任せないともう、本人自身は何がどうなっているのかわからない混乱の中にいた。だから俺がこうやって書いてあげているわけだ。びいが今、何を思ってるのかなんて、正直、俺にはわからないものの。


 どちらにせよ、ワクチンパスにノーと言うびいがフランスの家に帰れるアテもなく、それは旦那も織り込み済みだったのかもしれない。もしも、ロックダウンにフランスにいたとしたら、耐えられなかったと思うよ、とびいの旦那は言っていたが、それは真実だろう。


 「キミはいい人だから、別れようと言うような決心がなかなかつかないんだ」


 暗いベッドルームで、ふと目を覚ましたびいが、突然に聞いたところ、帰ってきた答えがそれだったそうで、今日のような日を予感していたんじゃないかと俺は思う。屋敷を購入してすぐの頃だったから2017年くらいなのか。何よりも、びいもびいの旦那も、日本人が考えるような夫婦では全くなかった。


 誰かが何かをアドバイスするとか、到底できないだろうと感じるのは、そもそも、二人は全くの自由な形式でのバディだったからだ。なぜこんなことになったのか、遡ろうとしても、それは不可能なくらい入り組んで、結局のところ、どこまで遡ろうが、不可避だったのかもしれない。あの当時、びいがとても仲良くしていた女の子の友達がいたが、旦那が体調不良で、約束をドタキャンしたところ「あなたはいつもご主人が大切なのよね、さようなら」とキレられた事件があった。


 ま、あの子はネグレクトの被害者だったからな。それでもびいは自分が切り刻まれたみたいにショックを受けていた。せっかくできた友達。田舎で、似たような若い子と楽しく友人付き合いできるというのは、本当にびいにとって希望になっていたというのに。この話は書いたのか忘れてしまった。びいはよく野菜のポタージュを彼女に差し入れしてたっけ。びいというのは、そんなふうにせっせと誰かの世話をしたりもする。思い返すと、俺は突然に悲しくなった。


 I先生も言ってたが、びいの場合、何でもすぐに運の悪い横槍が入り、いろんなことがダメになる。先生が言うくらいだから、そうだと俺も感じる。運が悪すぎる。びいが生き生きと楽しそうにお付き合いしていた同性の友達はみんな、引っ越しで遠くに行くなどすぐに移動になっていた。気の合う人が運悪く、側からいなくなる。そして逆に、ソリの合わない人とは、いつまでも縁が切れない。びいはまるでシンデレラのように、搾取され続けたり、それに甘んじたりしていた。優しいばかりじゃダメだ、と教えたが、びいが持っていた強さは、すっかり配偶者といるうちに消えてしまったようだった。それも全て、体調不良のせいかもしれなかったが。


 こんなことになった今も、びいは昔と変わらず、配偶者に対する想いは変わらない、変わってない、と言った。俺の意見としては、びいがもう少し大人になり、自分で自分の面倒を見られる、金に困らなくなれば、少しは変わるんじゃない? とは思う。何と言っても生活するのには金が要る、そこをクリアできない限り、どう転んでもお嬢様でしかないびいは放り出されるしかないという気がして、今のような結果も致し方なかった。生活するのには金が要る。旦那だけの力では、もう無理というのは火を見るよりも明らかだった。


 それ以前に、旦那は何度も言ってただろう。僕は君の白馬の王子様じゃないよ、と。それと同時に、君は最後の最後、自分を本当に愛してくれていたのは、夫だったと気付くだろうと言っていた。そのセリフを思い出すと、関係ない俺でも胸が痛む。


 本当に大切なものは目に見えないとか、今や、誰でもが知っている台詞になった。夜間飛行の人が書いたお話の。飛行機乗りでサハラ砂漠で行方不明になった伝説は、陽の光の下に晒されてしまったが。近年、実は撃墜されたことが明らかになり。戦記の人もブログにしていたが、自分達は知らないで謎のままとか、ロマンを夢見ていたい。正直、いろんな真実が白日の下に晒されてしまうと、乾いた砂が口の中をざらつくようで、やるせない気分になった。撃墜したパイロットでさえ、もしも敵機の操縦がかの人と知っていたら、撃墜していない、と言うほどなんだから。


 それにしても今の流れは解せない。コロナのような疾病が流行り、ワクチンの強制の世界的な流れとワクチンパス。俺はつい最近になり、びいが日本に戻らざるを得なくなった流れ全て、仕組まれたことかもしれないと思い始めていた。深読みのしすぎだろうか。フランスに永住を心に決めていたびいが突然に、日本に住まねばいけなくなったこの状況は、こんなことでもない限り、絶対にありえない事態だった。


 何もかもおかしいと、このことに思い当たったのは、やはりこのコロナの騒動とワクチンパスだが、実際は、Jさんとのやりとりだった。Jさんもワクチンの接種をびいが止めたにもかかわらず、やはり摂取していた。そして、びいがフランスにはもう帰らない、帰れないと思うと言ってすぐに、屋敷を売り払い、引っ越した。


 そのタイミングが鮮やかで、単なる偶然にせよ、俺が訝る原因となった。俺とJさんはあっちの世界でもとても仲が良く、俺がJさんを疑うというのは、まあ、それは微妙なことだったが、最初から俺はJさんを手放しで信じていたわけじゃない。


 出会いのことは書いたかどうか忘れたが、書いたはず。この人は普通ではない、へえ、どこの会社ですかと聞いた時、民間企業の名を口にしたが、民間人のわけがないと俺は直感したから、書いたはずだ。結局、勤務先は嘘ではなかったが、軍警察からの天下りだった。


 Jさんがアーリーリタイアする原因になった交通事故は本当にあったのか、事故の証明に、怪我の手術跡に。俺は全部目視で見て、確認した。だが、俺たちに近づく目的は他にあったのかもしれない。


 俺はJさんに出会った頃、公的なそういう証明書は全部見せてもらっていた。パスポートに至るまでの全ての証明書類。身分証明。


 また、海外の大使館に仕事で行くときに用意されたダミーの偽のパスポートの話なども聞いていた。やはり世界というのは自分達が全く知らない方向性で広がっている。俺がこんなことを書くのも、ここに出てくる登場人物ほぼ全員の命が年単位しか残ってないんじゃないかと感じるせいだ。だとすれば、どこにも影響しない。


 Jさんは俺が疑うというのも、普通ならそこまでして、自分の身分を証明しようなどとは思わないだろうところが、軍警察の証明書から、パスポートから、手術の保険の支払い証明書まで見せて、自分の話していることが、本当だと丁寧に一つ一つ、証明した。


 今から思うと、俺達に近づいた理由……。見知らぬ外国人の監視? 軍警察が一般人を利用することは周知の事実だが、自分達が当時、調べていたことというのは……確かにJさんに何度も進言された。もうそれ以上、深追いして調べるのをやめたほうが良い、と。時の政府に楯突いて何も良いことはないし、政府の調査力を甘くみてはいけない、と。別に俺達は政府に楯突くとかそんな大それたことを思っていたわけではなく、環境について調べていただけだ。常に調査はライフワークだからな。クライアントの有無に関わらず。


 Jさんの元の勤務先、最後は天下りのとある金融機関で、そのことを書いたのか忘れたが、そこにも1度、2度、連れて行ってもらったことがある。勤務中の写真に、セキュリティが使っていた武器、悪ふざけで撮った金庫の金塊に。


 ほんとは不味いんだよ、と言いながら。Jさんは一切、インターネットに自分の情報を載せてないが、まあ、裏をよく知ってたらそれは当然だ。


 こういう状況になり、パズルのピースがパチリパチリと揃ってくると、Jさんの奥さんが俺とは没交渉で、と宣言した理由も、いろいろと納得がいく。そもそも、この世界では、俺はいないはずの人間だからな。


 とにかくびいは今、四面楚歌の状況になり、まともに側にいてやれるのは俺だけになった。やれやれ。俺も好きでこんな役を引き受けたわけじゃない。できるだけ早く降りたい。


 だが、膠着した状況はなかなか好転していかなかった。俺は、日本に放り込まれ、機嫌が悪かった。分が悪い。常に退路を確保するのは当たり前の中、今の状況は、俺自身は守れても、びいのことは守ってやれないということになってしまう。


 漫画原作の仕事の時に痛感したが、まるで俺がびいを囮にしたような形になる。


 それは最悪だと感じ、俺はとにかく大人しくしているしかないと思う時、苛立ちしか感じなかった。常に物事を斜に構えてみて余裕だった自分がジリジリと追い詰められる。ここからリカバリーするには、これまでのやり方じゃ通用しない。


 俺が余裕だったのは守るものも、欲しいものもなかったからだ。びいを守らねばならない今、過去の条件と今は違ってきた。


 思い切り動けないストレスに、どの方向で解決を求めるのが利口なのか、相変わらずメソメソ泣くびいを尻目に俺は本当にくだらない動画を真剣に見ながら、策を考えていた。


 ルービックキューブの解き方。原理知ったら簡単過ぎる。揃えられなかったら、まるで馬鹿みたいじゃねーか。


 びいが「岬くん、小学生みたいね」と笑いながら言った。


「うるせーよ」


 人の気も知らず、びいは子どものような時間だけは、そんなふうに機嫌が良かったのだ。

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