8月6日 もう帰れないかもしれない

 この記録は飛び飛びなので、書いたかどうか忘れてしまったが、俺もびいも、もう向こうには帰れないかもしれないと思い始めていた。その理由はワクチンパスポートだ。パス・サニテールという名称で、飛行機はおろか、電車、メトロ、レストラン、カフェ、劇場、スーパーにこの電子パスポートを導入するという話がフランスに持ち上がってきていた。ちなみに今は2021年8月。


 まさかマクロン大統領がそこまで独裁者的な権力を振るうとは思わなかった。俺たちが甘かったのかもしれない。確か昔、Bに「誰に投票したの?」なんて俺が阿呆なナイーブさを装った質問をした時、Bは「秘密」と答えたが、俺も本当に甘かったな、とこの結果を見ながら感じていた。


 俺の世界と、この今の世界線をごっちゃにして書くと混乱するだろう。とにかく、俺のいた元の世界と、この世界はそっくりだったから言う話。


 ただ、今、あっちの世界はどうなってるのかは、しばらく戻ってないからわからない。2、3日だけ数ヶ月前に戻ったが、ちょっと留守にしただけでもびいが「岬くんがいない」と大騒ぎしたために、俺はやることがたとえなくとも、この世界に足止め状態になったに近かった。びいの状態は悪すぎて目が離せない以上に、鬱からの治りごけにいきなり自死することはごく常識として知られていた。


 びいは機嫌が悪く、自分のプライドが傷つけられることに耐え難い表情をして過ごしていたが、それは、エネルギーが戻ってきた証拠だった。このタイミングで自分のプライドを守る、優先させるように力が働くと突然、自殺するとかが起こる。


 俺はむしろ泣いてばっかりで床に伏せって眠ってばかりの方が、実際のところ楽だったため、じっと我慢して生暖かくびいを後ろから見守るしかないのを知っていたが、目を話すと危ないことも知っていて、本当にストレスフルな日々を送っていた。知らねーよ勝手に死ねよ、と思えないのは、ここまで来て、自分が努力したことがすべて水の泡になるのを黙って見ているのは嫌だという意地があった。俺がここまでひたむきな努力をすることなんて滅多にねーよ。


 2019年10月末に一時帰国してからずっと、日本に足止め食らっていた状態の俺達だったが、衛生パスが強制になるという話を耳にした時、ああ、一本やられたな、と思った。まさか向こうに戻れないとはな。びいは夏服がない、ポートフォリオがない、DVDがないと言って、2年経った今になり、帰る目処がなくなったことを憂えていた。荷物を送る方法を問い合わせたが、屋敷を売り払い荷物を全て引き揚げるには、びいの旦那がビザを取り、日本に入国時に、別送品申告するしかない。もしくはびいが向こうに行くか。それは無理だというのは、びいはワクチンを打つつもりなど最初から、毛頭ないからだった。


 もしかして、びいの旦那は最初から全て分かっていたのかもしれない。びいがワクチンを拒絶することも織り込み済みだったのか。びいが止めるのも聞かず、あっという間にワクチンを接種してしまったのは旦那のみならず、Jさんも同じだった。虫の知らせのように「打っちゃダメ」と突然にたくさんの資料を送りつけたびいだったが、「はいはい」と返事しながら、翌日が接種日。


 びいの勘の良さというのは、俺と同じくゴキブリ並だからな。


 屋敷を売ったらどうか、と言ったのはびいの旦那だった。査定をしたら値段が上がっていた。約一年前の話だ。この話は微妙な話で、びいが嫌がるため詳しく書けない。びいが旦那に、日本に来て、と言ったところ、だから数年前、日本に住もうと言ったのに、絶対に嫌だと言ったのはびいだ、と言われてしまった。


 全ての選択は終わってしまっていて、後戻りできない。人生というのはそういうものだと言うしかない。フランスの屋敷の隣人がデベロッパーと組んで、隣の土地に36戸建の建物が建つという話、公示され、住民の反対運動が起こっていた。その書類に署名した、とびいの旦那はチャットで言っていた。


 びいの旦那は一貫して、アートを頑張ってね、と言っていた。びいの状態は時々書いてるようにあまり良くなかった。最初、もちろん戻るつもりでいて、去年の夏は旦那が日本へ来る予定だった。オリンピックもあるせいか? バカンスみたいに。


 あれから一年。正直、今の俺はうんざりし始めていた。粛々と黙ってびいに手を貸してあげていたが、びいのお母さんからは「最初と違って、岬くん怖い」と言われるようになった。その理由もわかる。俺にとって、日本に住むのはストレスだった。びいにとってもそうだろうが。


 最も大きなストレスは「言論の自由が守られないだろうから、注意しないと危ない」ということだった。まさか日本に永住?


 だとしたら、これはとてもやっかいなことになる。今までのようにはいかないだろう。息が詰まる。どこか他国にと思っても、逃げ出せそうな国は周りに見当たらなかった。ここに足止めになる以上、未来が見えてしまう。気をつけないと俺みたいに自由にやってると、何に因縁つけられるか、わかったもんじゃないからな。


 それまで当然のように手にしていた自由を失ったと知った時、俺は「日本最悪だな」と。ただ、目立たないように埋没するしかないわけだが、本当に息苦しい。


 俺のやることなすこと、周りの日本人と違うということで、目立つし、言動が尊大だと言われ、傲慢だと言われ。自信過剰と言われ、俺は「うるさいよ、お前らがお前らに自信ないというその状態を、俺にまで求めるのは狂ってる」と感じていた。


 俺が堂々としているのが気に入らない、ということらしかったが、鬱陶しい。合気道や居合をしている時だけがすっきりしていたのは、ゾーンに入るみたいに修練に没頭できるせいかもしれなかった。


 それでも俺が稽古に参加すると、道場の空気が変わり、ピリッとするため、びいから「あまり目立たないで」とよく言われた。稽古が厳しくなりすぎてついていけない、と。俺が「お前みたいな甘い稽古、いくらやっても意味ねーよ」と言ったら、「怪我したり、不可逆な事故とかあったら取り返しつかない」とこんこんと説教された。それは道場に入る前から、きつく約束させられていたことで、書いたかもしれないが、ここだけの話、実はここに定まるまで、他の二つの道場に既に断られていた。


 別に普通にやっていただけなのに、最初の道場は多分、俺達が海外と関係しているということで、海外からコロナを持ち込む可能性があると思われたらしく断られた。のらりくらり、他の道場も見学してはどうですか、と。有段者ばかりだったが、コロナのせいで、間合いを広くとった杖の稽古ばかりしていた。初心者は教えたくないのかと言えども。小学生が数人いて、辻褄が合わない。


もう一つの道場は、師範が俺と稽古した時に肩を痛めたのが原因だった。師範はもともと痛めていた場所だったと言っていたが。別に必要以上に強くしたわけでも痛くしたわけでもなかったので、あの型の稽古はできない体だったんじゃないかと思う。


 まあこの話はとても微妙だ。俺は別に乱暴でも粗暴でも、何でもないのに、そんなこと書けば誤解されてしまうだろう。文系で、むしろどちらかと言えば軟弱な方だと自分では思ってる。全く武闘派じゃない。なのにここにきて、突然にそんな扱いを受けても。確かにちょっとくらいは齧ってはいた。ただ。道場が老人と子どもばっかりのせいかもしれない。高校生、大学生くらいのパワーに比べたら。俺も高校生や大学生と乱取りしたら、こういう腰が引けた気持ちになるのかもしれないが。道場の中で元気ある若者が俺だけってことはないだろ。子持ちのお父さんは結構いた。


 

 ただ一つ、皆と違う点を探そうとすれば、海外で常に実戦の機会に晒されたということだと思う。本気でやらないと殺られるような可能性のある環境を経験したということかもしれない。海外に渡る前と今とでは、モチベーションが全く違う。


 Jさんは軍警察出身で、事故に遭い早くにリタイヤしたとはいえ、GIGNに友人がいた。もう引退していたが、顔だけは引き合わせてもらったことがある。俺はずっと鍛えてもらえる先を探していた。Jさんとは遊びでの模擬の戦闘をたまにした。Jさんは昔、テコンドーを習っていたから。それでも、後遺症のせいで小学生向け程度のことしか教えてもらうことはできなかった。


 他の友人はフランスで合気道の道場をやってるし、他の友人が通っていたクラブマガは何度か見学に行ったことがある。他の護身術も何度か講習会に参加したことくらいはあった。女の子でも結構強いし、体格が全く違うので、日本の道場の稽古が優しく甘く見えてしまう。格闘技と武道は違うから、最初の頃、力が入りすぎだとよく注意された。学校で柔道を選択していたから、つい奥襟を取ろうとする癖が抜けない。言っとくが俺は弱かったんだぞ。だから、何で今の日本がこんな生ぬるい状況なのか全く理解できなかった。小島で見学に行った柔道はたくさん小学生がいたが、もっと生き生きしていた。


 2020年の12月、ダンス企画が潰えたびいは酷い鬱に拍車がかかっていたが、他の海外制作の過去作品を展示しようにも、びいの作品DVDは、世界に三枚しかないものが向こうに置きっぱなしになっていた。二枚は無くしてしまったため、正直、世界に現存しない状態になってしまっていた。最新作でもっと良いものを作ればいいと常に思っていたびいは、どの作品も比較的中途半端な感が拭えず、作品の整理もプレゼンも、どこか詰めが甘かった。日本に住む今となっては、消えてしまった一連の作品の価値が上がった状態になっていた。今手元にあるのは一つだけだ。後の二つはこのままいけば見つからないままになりそうだった。


 友人が撮った分、自分で撮った分は残ったが、それには理由があった。


 

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