第369話 デッサン

 

(この回、性描写、グロ注意です。18歳未満は閲覧不可です。性的な逸脱行為、法律の逸脱行為を奨励するものではありません。)


          〜〜〜〜〜結界〜〜〜〜〜〜






 先生…… 


 公開しなかったが、俺は二つのパラレルワールドを見た。一つは本当に狂ってて、すんでのところで、俺は神原さんの鎖を切って、彼女をそこに残したまま、去った。


 もう一つは、俺が神原先生を決定的に不可逆に傷つける代わりに、自分が血まみれになった。このままでは、自分は先生に何するかわからない、と、逆上しながらも高校生のパラレル・ワールドの自分は、最後の理性を働かせたのか、結局、誰もいない夜の職員室で、椅子に縛り付け、服を破って、散々いたぶって。呆然としながら黙って受け入れる先生にさらに逆上し、罵り、その体の上に馬乗りになったまま、先生の目の前で、自分の手首にカッターを当てて、引いた。


 冷静になるつもりで、手加減して表皮だけを上手に切ったつもりが、案外、深かったらしく、血がポタポタと辺りにシミを作った。先生の破れた白いブラウスの上にも落ち、いつしか俺のシャツの袖口は赤く染まった。俺は逆上していたから、何も感じずに怒鳴り続けていて、頭の線が切れたみたいに暴走し続け、しばらくして血圧がおかしくなったみたいになって、気を失った。


 そうでもしないと、先生を殺してしまうかもしれないと、我を忘れるほどの怒りに身を任せながらも、どこかで俺は安全装置を働かせなければダメだ、と、思ったのか。でも、それは正解だった。自分が気を失って、とりあえず先生はそのまま無事に保護されたのだから。


 それがマシな方のパラレル・ワールドなのだから、もっと酷かったやつは実際、俺は最後まで見ていない。パラレル・ワールドから帰ってきてしばらくは、魂を抜かれたようにぼんやりしていた。45分話したのは、誰とだっけ。昨日のことのはずなのに、今や全く思い出せない。


 過去や現在を行き来すると、情報量が多くなりすぎて、がおそろかになる。だから昨日のことさえちゃんと思い出せない。ここから下は、昨晩、明け方書いたものだ。


〜〜〜〜〜〜



 明日、Jさんが10時に迎えに来てくれることになり、俺はなんとなく風呂に入って寝ようと自分の部屋に行った。5月1日、すずらんの日。


 毎年、一緒に過ごそうとJさんは言って、それでも去年は、あまりにBが機嫌が悪く、ブッチ切った。俺は、「Jさんのところさ、ブロカントやってるし、行こう」と何度も言ったが、Bは嫌だと答えた。「Jさんが準備してる、バーベキューの」とどうしてもBに言えなかったのは、Bはキチガイみたいだったから。会社のせいで、ものすごく暴力的になっていて、俺は手に負えない、と考え、医者に相談するほどだった。Bを心療内科に通わせることはできないか、と。


 俺の左脇腹が痛くて仕方なかった時期だ。このストレスのせいだったとわかったのは、Bの状態がまともになったら、自分の痛みも取れたから。半年以上続いた痛みは、今は消えていた。うさぎちゃんにいろいろアドバイスもらった、あの件だ。膵臓に石灰化の影が見えたらしいが、結局、次の検査では、それがよくわからないと、うやむやな感じとなった。


 すい臓癌だったらアウトだから腫瘍マーカーは? という話題を公開したのかは忘れたが、腫瘍マーカーが「必ず」でもないから、微妙。


 すずらんの日には、そんな経過があったから、今年は絶対に。


 昨年、俺たちにすっぽかされる形になったJさんは、奥さんも実家に行っていていないので、結局、3人分の肉を、一人で食って腹を壊した、と言っていた。本当にごめんなさい、Jさん。


 俺は一人ででも、出かけるべきでした。機嫌が悪過ぎるBがこれ以上、さらに暴力的になると本当に困る、と俺はJさんのところへ行くことができなかった。Bに実は既に約束していて、Jさんが待ってる、と言えなかった。後からBは、言えばいいのにと言ったが、とても言えるような雰囲気ではなかった。人間というのは環境で変わるね。あの温厚で冷静なBがここまでになる仕事のストレス。一体どんな職務内容か知らないが、Bはその時、公務員だった。


 でもBは結局、転職した。この1月から。それですっかり元のBに戻った。今年はちゃんと行くから、Jさん。


 明日早いのに、また夜更かしする自分は、ダメだなあと思ったが、寝られなかった。


 実は最近、俺は、前に掃除道具を入れていた一畳にも満たない狭い部屋を創作のために使っていた。他の部屋も、実は全部、俺の部屋になっていた。ごめん、B。持ってるものが多すぎるせいで、結局、全部が俺の私物で溢れる部屋になる。片付けようとしたんだが、結局、気がつけばこの部屋も俺が使ってしまってる。


 でも、むしろ狭い方が集中できる。ものすごく狭い部屋で執筆したといえば、多分、江戸川乱歩がそうだったと思うが、俺は気に入っていた。なんでも「大きなものが好き」な「メガロマニアック」な俺としては、それはとても不思議だったが、落ち着く。これ、自分で気づいたんじゃない。女の子の友人が「岬くんて、メガロマニアックね」と言われて初めて気づいた。俺はスケールの大きなプロジェクトしか考えてこなかったから。実現できないような大きさのものが多かった。やはり金、予算の問題だね。


 寝る前になんとなく、そこでスケッチをしようと思い、パラパラと適当な女を雑誌で見つけ、俺は色鉛筆の黒で描き始めた。


 俺はデッサンをしたことがないから、ギャラリストの田村さんから、草花のスケッチをした方がいい、と、この正月、高級老人ホームに訪ねた時にアドバイスをもらい、こっちに帰ってきてからも、時々、実践していた。ただ、こんな量じゃ、全然、足りないというのはわかっていた。思いついた時に時々やる程度じゃ、真剣に美大を狙う学生にも勝てない。それにもかかわらず、本当に時たまに気の向いた時しかデッサンしなかったが、それはたまたま、自分に集中力がなかったからだ。


 俺が美大に行かなかったのは、普通の大学に行って、普通に就職して欲しいという両親の強い意向もあったが、退屈なデッサンに興味が持てないという具体的な理由もあった。俺は2次元、平面の表現が大の苦手だった。


 ただ、田村さんは、時々帰ってきて、描いたものを見せてね、と言った。でも、なるべくはやく帰ってこないと、私も94歳だから、いつ死ぬかわからないからね、と微笑んだ。俺は2年ぶりの帰国。2年先になると、私はまだ生きているかわからないからね、と田村さんがそんな心もとないことを言うから胸が締め付けられた。この歳になっても老人ホームに入っていても、自分のギャラリーで企画展を企画し続けているエネルギーは本当にすごい。尊敬する。俺は小柄な田村さんを抱きしめて、こっちに帰ってきた。なんでも深く研究する人というのはすごい。俺が勤めていた頃、会社に近く、なんとなく寄ったのが田村さんとの出会いだった。実は俺、田村さんのギャラリーで展覧会を企画してもらったことがある。本当にプロだと感嘆した。私はプロだから、と言うだけのことはある。「何か売るもの」を作れば良かったんだが、今から思えば、俺は甘い。



 なんとなく描きながら、女のデッサンじゃ、田村さんに見せられないなあ、と苦笑した。田村さんはゴーギャンの描いた、黒人の半裸の女性の油絵を下品だと言っていたから。手本に使っているのは、ファッション誌ではない綺麗な裸の外国人のたくさん載ってる、まあまあ上品なエロ本だった。俺は安い裸は嫌いなんだよ。欲情するために見るんじゃないから。綺麗な体を探すため。


 モデルであっても、本当に綺麗な体の女は少ない。俺ものすごく好みがきつい。期待しないで綺麗な体だと、得した気分になるが、そんな風に見てるとわかると、相手にも失礼なんだが、俺が女の子を脱がせるのはセックスのためじゃないから。この辺りが歪んでると思われる所以なんだろう。だから一人が相手というんじゃダメで、綺麗な女の体を見かけると、それだけで脱がせたくなるんだよな。


 Bが「お前、フェティッシュだから」と唐突に、この間言って、俺はその脈絡のなさに固まったが、一緒にいると、わかるものなんだろうか。体のあちこちを見て、ここは綺麗、使える、ここはダメだと採点している自分というのは、何のために脱がせてるのか、目的が全く違うな。足の指や手の指、爪なんかが驚くほど綺麗で、驚くような人はいる。結局、人間を彫刻を眺めるような目線で見ているのは、子供の頃から自分はずっとそうだった。まあでも、美術系の人間はみんなそうなんじゃないのか。俺は人物の造形美を波長でしか見てない。結局、対象の生命力の有る無しと、造形的な美しさのバランスを常に眺めているだけだ。それがぴったり合わさる時、本当に美しいと言える。



 俺は適当なモデルを見つけて、Yさんに似ている、Yさんを若くしたらこんな感じというモデルの写真を見本にして、なんとなく描いていたが、出来上がったものを見て、息を飲んだ。


 言っとくが俺はとてもデッサン、下手だ。昨年、少しだけ教室に通った時に、やはりそこのアトリエの先生にデッサンの狂いを直されて、ダメだな、と思った覚えがあるから。そのあと、長い時間をかけて描き込みすぎて先生から、もうやめたら、と何度も言われた。次に進む自信がなかった。下書きで狂いが消えたなら、後はいくら上から書いてもいいから、描いてただけだ。俺には二次元の表現は向かない、そう感じて日本に帰った後は、中途半端になって、絵のアトリエは、すっかり足が遠のいていた。決して嫌いなわけじゃないんだが、俺が描いていたのは小学校の授業中に教科書に、だから。あまりに退屈で。俺は腰を据えないとまともにできない「絵を描くこと」は苦手だと感じていた。



 なんとなく真夜中から明け方に狭い部屋で何をしているんだ、と俺は思ったが、俺は冷たい髪を乾かすこともせずに、描き続けた。冷えるがここは温かい。この部屋は自分の吐息でも温かくなりそうな狭さだから。トイレの個室並みだ。幸いに大きく窓があるから、そう息苦しくはない。


 俺は描きあがったスケッチの女を、少しだけ話して、窓際近く立てて、眺めた。




 ……綺麗だ。


 手本のグラビアとは全く違うがそこには、描かれていた。気がつけば俺は別人を描いていた。







 ……先生……


 俺は涙ぐんだ。まるで泉のように涙が溢れる。


 涙なんか、とっくの昔に、乾いたんじゃなかったのか。






 ……綺麗だ……


 俺は何度もそう、呟いた。実際に声に出して。涙が溢れる。


 



 あんな女、と俺は罵ったのに。


 どこか好きだったのか、いくら考えても、わからなかった。あれは今日のことじゃないか。怒り狂いながら、どう考えても思い出せなかった。どこが好きだったのか。一体、自分は、先生のどこが好きだったのか。


 馬乗りになって、先生を痛めつけて、俺は狂ったように怒って、その頭の片隅で、一体俺は、この女のどこが気に入って、何が好きで、愛しているとずっと思い込んでいたのかわからない、と、理性は「その理由」を探して彷徨っていた。自分の身の保身のために、俺を裏切った女。


 許さないと感情に任せて猛々しく逆上する中、理性は「でもお前、愛していたんだろう?」と俺に問いかけていた。「愛していた理由」がどうしてもわからない、と、俺は真っ白な中にいて、この女を殺してしまわないように、自分の手首を切って、失われつつある理性をもっと働かせようとした。


 それは、ついさっきのこと、昼間のこと、数時間前のこと。それなのに。



 俺は自分の描いたスケッチをじっと見つめた。



 



 好きだったんだ……ずっと……


 自分の声が響いた。……愛してる……愛してる……


 涙がこみ上げる。



 スケッチを見ていると、こんなにも愛しい。


 好きだったんだよ……愛してる……


 苦しいというよりも、素直に、好きだったんだ、という言葉が強く響いた。こんなにも。


 あの頃のままだ。ここにいる先生は……



 俺は手を伸ばした。抱きしめたいんだ。好きだった。本当に好きだったんだ……



 白い首筋にキスをした。いつもこうやって、いつまで一緒にいても飽きなかった……


 世界が終わる日も、こうしているんだと思っていた………




 俺は、愛するのに理由などないんだ、と感じていた。


……理由なんてなかったんだ。……ただ愛していたんだ。


 涙は流れ落ちなかった。溢れそうになっても、俺はじっと大きく目を見開いて、先生を見つめた。


 先生……先生……



 気がつけばまた俺は、あのパラレル・ワールドにもう一度戻っていた。45分の、職員室。俺が怒りに逆上して、気を失う前……45分間、俺は逆上して先生に怒鳴り続けていた。職員室に着いた時、すでに先生は、戸締りを終えて出るところで。


 「残念だったけど、仕方ないわね」と先生は他人事みたいに、俺が進級できずに留年になったことを、暗い職員室の戸口で、ばったり鉢合わせた俺に、昼間、母さんに電話口で言ったことを、俺にそのまま伝えた。


 俺はずぶ濡れだった。嵐のような雨の中を、一人で駅から、ここまで走ってきたから。どこをどうやって学校に戻ったのかわからない。俺は家で連絡待ちの待機していた。今日は会議のみで、誰も生徒は登校していない日だった。


 俺は真っ黒な中、踏切が降りる音を背後で聞いた。逆向きに向かう電車。オレンジ色の光。吹き付ける雨に風。俺たちの学校は山奥にあり、電車は1時間に一本しか来ない田舎。無人駅で、夕方は、人っ子一人、この裏山のどこを探しても一般人は住んでいないような辺鄙な場所にある、刑務所のような学校だった。


 ずぶ濡れの俺は、泣いていてもわからなくて好都合だったかもしれないが、俺は何を言ったのか、何しに学校へ行ったのか、全く覚えていない。どうやって向かったのか。なぜ先生がそこにいると知っていたのか、今から思えば疑問だらけだ。


 俺は無表情な先生に詰め寄った。大声をあげながら。


 残念だった、はないでしょう!あなたが俺の数学の補習の時間を全部セックスの授業にすり替えておきながら。俺と二人きりになった一番最初から、男なら誰でも我慢できなくなる方法で誘惑しておきながら。


 俺がいくら頼んでも、大事な時期だからと距離を置いてくれることはなく、俺は先生を妊娠させたらどうしよう、と深く悩んで。



 こうなること、わかっていたはずなのに……なぜ……


 俺は悔しさに引き絞られるようだった。俺が甘かった……


 俺は、もしそんなことになったら、身の破滅、でも、高校中退して働く覚悟であなたと一緒にいようと決めていたのに……


 俺は怒りに任せて、その辺にあったものを掴み、スチールのロッカーを思い切り殴った。金属音がして、たくさん書類の入った重いロッカーの側面がわずかに凹む。俺は先生に詰め寄った。


……あなたは俺のことなんて、全く考えてない、俺との未来なんて、真剣に考えてない。自分さえ気持ちよければいい、俺との関係が明るみに出たら困るから、進級会議で俺を全く庇わずに留年を「仕方ない」と……担任がそう言うなら仕方ない、と決まって……


 他の人に俺との関係をどうしても隠しておきたいから……俺を庇わなかった、そうでしょう?俺たちがこんな風になってること、疑われたら、困るから……


  泣きながら、叫びながら、俺は先生をじりじりと追い詰めた。


 先生は、何も言わず、むしろ冷静すぎる冷たい顔をし、それが俺の煮えたぎる怒りをより焚き付け、火に油を注いで、俺は手当たり次第、その辺にあったものを引き倒しながら、先生に迫った。


 慟哭しながら……俺と同じくらいの成績の奴はみんな、ギリギリで通ったのに……通してもらえたというのに……俺だって最後、頑張って……数学以外は……先生さえ俺の邪魔をしなければ……俺がやめてくれと頼んでも、先生は家で勉強すればいい、と……


 俺は自分がもっと強い意志で誘惑を撥ねのけるべきだった、と自分の甘さを後悔していた。俺は数学と物理と英語がまずかった。英語は最後、マンツーマンの補修で伸びたから、セーフだ。落としているのが物理だけなら、俺は文系だからそれでも、セーフだ。


 数学……畜生、俺が甘かった……点数をつけるのはあなただったから……


 なんで俺の勉強の邪魔したんです、あなたと一緒にいたら、俺はダメになる……あなたは先生でしょう、先生の風上にも置けない……



 男なら、あんなことされたら、そのままで済まない……我慢できない……おかしくなりそうだ……




 俺は先生の喉元を押さえつけ、壁際に追い詰めて、言った。


 答えてください、あなたは一体、何を考えてるんです、俺はこの後、どうするべきか、どうしたらいいのか、わかりません……この学校をヤメて、普通校に転入するか、留年の屈辱を受け入れ、ここに残るのか……




 俺は、大事な時期にも結局これまでと変わらず、補習をせずに、結局セックスしかしなかった先生のことについて、こんなことはあり得るのか、と法律を思わず調べたことがあったほどだった。何より、女性というのはこんなにも強い性欲があるのか、理解できなかった。


 条例があるから、バレたら先生は終わりだ。触っている場所が場所だ。そのことをどう考えているのか。俺は聞いてみたことがあったが、答えは得られなかった。


 俺は悩んだが、嵌ってしまっていて、どうしてもやめられない。そんなところを触られたら気持ちいいのは当たり前だ。俺は深く悩んで、誰にも相談できず、破れかぶれになっていた。理性が吹き飛んで、ありとあらゆることを試したくなるのは、同級生の女の子とのセックスではあり得ないことだった。そんなこと、普通の女の子を相手に俺は、絶対にしない。


 俺がDTを喪失したのは15歳だが、全く嵌ってない。同級生の可愛い女の子を相手に俺が獣になるわけないだろう。痛いというから、ごめんね、と優しくしてあげた。そういう次元のセックスじゃないんだよ、俺には、正直、なんというか、この状況は、頭がおかしくなると感じて、授業にも身が入らないし、追い詰められていた。身体が自動的に……俺は同時にすごい屈辱を感じていたから、どんどんエスカレートすることがやめられなかった。どうしても競争心が煽られて、屈服させたいと無茶な方向に行く。大人の女にいいようにもてあそばれる自分というのに我慢できない……


 俺はいくらでも勃つから、それは構わなくとも、本当に頭がおかしくなる。余りにヤりすぎると、頭がバカになる。俺は、全く勉強に身が入らない、白痴になったみたいに頭が働かない、と悩んでいた。何を見ても、聞いても、全く身が入らず、真っ白でぼんやりしてしまう。体が自動運転になり、簡単なことで感じるような反応が出てしまい、隠すのが大変だ。当たり前だが数学の授業は、になり、むしろマンツーマンの補習を受ける前よりも、ガタガタに成績が落ちた。誰もそのことに気づかないのは、先生自身が俺の担任のせいだった。最悪だ。普通なら担任がこの異常に気づく。俺は誰にも相談できないし、妊娠も怖かった。


 俺は、さすがにこれはまずいと、途中から自力で、何とかしようとしたが、何ともならなかった。俺も甘かった。ギリギリなら、大抵、下駄を履かせて進級させてもらえるが、むしろ先生は、俺との関係が疑われるのを恐れ、俺に厳しい点をつけた。点が足りないから仕方ない、とかばわないことで、俺との関係を完全に公に、他の先生の前で、これで否定することができると……もしも、俺と何か関係があるなら、俺の将来がすっかり変わってしまうことを、するわけがないからな。


 この学校は留年で自殺者も出たことがあるくらい有名で厳しかった。


 すぐそこの踏切に飛び込んで、バラバラになった生徒がいる。普通科で留年しようと思ったら、どんだけ学校を休まねばならないか。この学校で留年は年に3〜4人は必ず出る。成績が下の方の生徒を切っておけば、高3になった時、大学進学率が上がることになるからだ。


 大抵の生徒は、国立大に行く。医者か弁護士になる。それ以外の職業は正直、「たいしたことない仕事」というカテゴリーになる。花屋を開業したいとか、画家になりたい人、シェフになりたい生徒など、ほぼかつて、この学校に一人もいない。それらの仕事は「成績が下方の人」が就く仕事と認識されていて、医者、弁護士、裁判官、官僚、東大、京大、国立大、有名私立大までがギリギリ基準で、それ以下は「まるで人でない」ような扱いを受けていた。ものすごい差別だが、そういう世界がある。俺はそういう世界にいて、今まさに、切られようとしていた。屈辱だ。


 先生もこの学校の出身。よくわかっていたはずだ。俺がこれからどうなるか。ほぼ俺は今、人以下、死んだ人も同様のポジションだ。



 俺は、他の先生や生徒に、自分たちが付き合っていることが、たとえバレても、構わなかった。厳しい進学校だから、一発退学や停学になるかもしれない。それでも構わなかった。先生のことが好きだったから。でも先生は、隠し通そうとした。先生はまだ、大学院に戻る予定で、プライドの高い先生は、生徒と付き合ってるなんて、絶対に知られたくない。先生は医者の娘で、自分は研究職を目指し、「将来は教授になる」と公言していて、海外留学から、戻ったところだった。その短い中途半端な間を、母校でアルバイトのように勤務していた。


  

 知らんぷりですか、自分の身の保身のために、俺などどうでもいい、隠せないようなことを裏でやっておいて、大胆に派手に、周りの人から疑われても仕方ないようなことをしておいて。



 俺は悔しくて、叫びながら、涙を流した。最初から俺のことなんて、単なる遊びだったんだ。先生はもうすぐ大学院に戻る。その腰掛けのためにちょっと母校で働いていただけ。海外留学から帰ってすぐで、俺にとって未知の世界を知ってるような大人の綺麗な女性が、大胆に俺に、好意を持って近づいてきたことに、有頂天になった自分が馬鹿だった。


 先生は誰も見ていないところで、驚くほど積極的で。俺のことがよほど好きだから、こんな風なのだと、勘違いするくらいで。先生と生徒なのに、ほぼ初めて会った日に、誰も見ていない場所で手を繋いできた。俺が激しい狂った恋の渦中に嵌まり込むことになったのは、本当に一瞬で、出会ってすぐに、そうなった。次に二人きりになった時は既にもう、そうだった。


 俺は自分が大人になったような気がして、同級生の女の子には絶対にやらないようなことを、人目に付くリスクも犯して、結局、抜けられない出口のない、渦巻くような激しい中でお互い求めあって、貪るように離れている間も、いつもお互いが繋がったまま一緒にいるような錯覚の中にいた。お互いのその凄まじいエネルギーの渦は、側にいる人に言葉もなく伝わるから、隠し通すことなんて、決してできるわけがないのに、先生はまるで完全犯罪を目論んで黙秘する被疑者のように、無表情に沈黙し続けた。



 先生を後ろ手にして……ベルトで縛って、椅子に座らせて、動けなくして……俺は完全に我を忘れて逆上していて……


 馬乗りになって叫んで……怒りに全てを預けて、悪鬼に取り憑かれているみたいに……先生の服を破って……


 逆上のあまり、俺は怒りを向ける矛先をこれ以上、先生に向けたら、俺は先生を殺してしまうかもしれないと、無意識に自分の手首をカッターで切って……


 死にたい 死にたい、と泣いて……





 ダメだ、泣けてきた。


 パラレル・ワールドでは、全く見えなかった先生の顔……



 俺は、自分が描いたデッサンに見入っていた。あの頃と全く変わらない、美しい先生……


 俺は黙ってデッサンを見つめ、涙がどんどん溜まってきて、見えなくなる中、目を見開いて、見つめ続けた。


 本当に綺麗だ……







 気を失う前の、パラレル・ワールドの俺は、先生を抱きしめた。



 こんなにも、こんなにも、あなたのことが好きだった……



 俺は過去形で言った。今の俺は、あの頃の高校生の俺じゃないから。


 


 こんなにも愛していた……



 理由なんて、なかったんです……



 ただ、愛していたんです……



 俺の目から涙がこぼれた。


 先生がどんな顔をしているのかは、暗くて見えない。わからない。俺は先生の首にしがみついたまま、目をつぶって静かな涙を流した。



 俺はデッサンの中の先生を見つめた。


 あなたのこと、本当に好きだった、本当に、愛してた……




 俺は目をつぶって抱きしめ続けた。これできっと最期なんだろう。あなたをこんな風に抱きしめるのも……


 あなたの柔らかい、温かいぬくもりも、きっとこれでもう最期……



 俺は好きで好きで仕方がない、いつまでも消えないこの想いを抱きしめて、後悔がないようにいつまでも、長い間そうしていた。




 そして、俺は、許さない、憎む、と先生にかけた呪いの血の呪詛を解きたいと思った。


 パラレル・ワールドの俺が、手首から流した血を先生の頰に擦り付けて、生まれ変わっても、何度生まれ変わっても、いつかあなたは鏡を見て、この血に気づいて、俺を思い出してくれるように……俺の汚れた血。


 俺は呪いをかけた。いつまでも、俺のことを忘れないように……先生がもてあそんだ、俺のことを忘れないように……



 あの呪詛を今、解き放つ、今、解く。呪いは、かけた者しか解くことができない。そう思わずして、鎖はまるで砂糖菓子のように砕けたようだった。俺の血……


 俺の血が二度と会わないあなたを守りますように……


 かつて俺が、これほどまでに愛したあなたを、俺の血が守りますように……



 先生……



 二度と会うことはないと俺は思っていて、今も会う自信はないし、たとえ生まれ変わっても、出会わない方が良いと思う人……


 それでも、俺の血が、いつまでも未来永劫に、あなたの幸せを守りますように……


 俺の血が、いつまでも未来永劫に、あなたの幸せを守りますように……


 あなたを愛していました……


 


 陰が光に反転したのが見えた。





            〜〜〜〜〜結界〜〜〜〜〜〜





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