第352話 開かずの間


 俺はぼんやりと、さっき買ってきたタルトの箱を開けて、ナッツとキャラメルのタルトを皿にも載せないで、そのままに齧った。


 今朝から泣き疲れていて、頭がぼんやりしていた。


 Bだけが知ってる。俺が夜中の3時まで起きていて、起きてきてからも、i-phoneの録画機能でビデオを撮っていたこと。


 ボイスレコーダーのように使い、あの子と会話した。降ろすというアイデアを思いついたのは偶然だった。俺にはちょっとした霊感がある。霊媒師だった過去生を思えば簡単だ。


 俺は朝から泣いていた。泣かずに話せないから。


朝の庭の光の中で、俺は。


 それからBと出かけて、BIOのスーパーで豆腐、ホームセンターで金魚の餌、パンヤでタルトとパンを買った。


 俺はずっとぼんやりしてて、Bにゾンビのようだと言われた。


 そうだろうな、降霊って疲れるんだよ。大したことのないように見えてな。


 間でコデマリの鉢が風でバーンと大きな音を立てて倒れた。


 しまった。



 これは警告かもしれない。降ろしてる相手、本当に彼女かわからないな。


 俺は問いかけを続ける。もしかして悪魔かもしれないという思いがよぎる。


 簡単に信じてはいけない。



 彼女は「現実から逃げないで、私のことばかり考えないで」と言った。


 俺は泣きながら「長い間、話せなかったことを話したいから、四月の間だけでも許して欲しい」と懇願した。



 河に光が反射する。俺が小学生の時、こんな風にキラキラする水面を自分のスケッチブックに写生しようとして、どうしてもできなかったことを思い出す。


 父さんからもらった、この国の絵葉書をスケッチブックに写そうとした。うまくできなくて、そのまま途中になって。


 この橋とよく似た橋だったが、この橋のわけはない。


 

 神原先生を後ろ手で縛って、何をしようというのか、俺は。


 俺は神原先生には恨みはない。まるで犯罪者のような気分になった。


 たまたま通りすがった人だ。これでは通り魔だな。




 俺は泣き疲れた顔で、硬いタルトをクッキーのように齧った。その時、声が聞こえた。


「そんなことして、何になるの。ダメ」


 あの子の声だった。珍しい、今日は二度も、ダメだという。滅多にそんな言葉を使わない彼女が。



「ダメよ、やめなさい。意味がないわ」



 俺は泣き疲れた顔で、そうだな、と心で言った。


 神原先生に何の恨みも罪もない。俺がたまたまヤリたい時に、からかわれたから、カッとしただけだ。しかもなぜか、俺は忘れていた過去をはっきり思い出した。


 何故、俺が、年上女性を恨むのか。何故、俺が、最後までしないのか。何故、俺が、自分が感じる姿を見られるのは恥ずかしいと、女性を一方的に攻めるだけなのか。


 俺の過去を考えると、納得がいく。


 Bも神原先生も俺をDTだと思っても無理はないな。俺は禁欲的だから。好きな人の前で、手が震えた時はびっくりした。今までこんなじゃなかった。まるでDTを拗らせたみたいじゃないか。


 あまりに長い間、我慢していて、うっかり手を出しちゃった時は、すごく後悔して。


 もちろん結婚なんて全く考えてなくて。俺は誰も愛したくないと心に固く誓っていて。


 それなのに寂しくて仕方なくて。体だけでも誰かが欲しいと。


 こんなことになってる。


 俺が真剣すぎる顔をしているせいか、Bがやってきて、「岬、立てよ」と言った。


 何だよ?


 俺が素直に立つと、Bが俺を抱きしめた。


ちゃん……俺のことが好きか?」



 俺は、心が弱っていて「そうだな……」と素直に言って、Bの胸に顔を埋めた。


「岬、お前と一緒にいるのはな、本当に大変なんだぞ……」



 Bはそう言って、笑った。


「何だよお前、そんなこと言いたかったの?」


 俺は笑って、Bの胸に埋まったままになった。お前、ちょっと最近太ってないか。ありえないぞ。


出会った時、お前、俺と同じくらい細かったのに。


「岬、お前がご飯をたくさん作るせいだ……」


Bはそう言った。俺は笑った。


 俺の中の開かずの間が最近開いて、俺は怒涛のように俺の過去生を思い出し、現在の過去も、トラウマも、一気に蓋が開いて。


 全てを統合しようとするのに、あとどんな問題があるんだろう。


 俺がまともなセックスできない理由はこれでわかった。忌み嫌っているからだ。人を愛することも。


 誰も信じたくないのは、裏切られること、なくすことが怖いからだ。


「岬、お前、フェティッシュすぎるんだよ……」


 Bが笑って、そう言った。食べ終わったジャムの瓶でも、とっとくだろ。いっぱい増えて困るから、捨てなさい。









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