第318話 俺と兄貴、二人の過去の恋の傷跡


 長かった髪をあの子が切った時はショックだったな。あの子というのは金髪のこの間の子。金髪の子は二人いるけど、空港の子の方。このショートの子と似たようなベリーショートになった時、俺は本当にショックで、何度も何度もBに「なぜ髪を切るんだ?」と言った。それこそBは「そんなの知らねーよ、本人に聞けよ」とは言わなかったが、俺は本当に数日はショックだった。


 ほら、俺が俺のサイトに載せた子。あの写真は髪が長かった時の写真。もう一度、伸ばして欲しいと真剣に思ったが、聞いてみると、もう伸ばさないの、ショートが楽だから、と笑顔が帰ってきた。男と別れたのかな、と俺は思ったけど、どうなのか知らない。



 本当に長い長い、綺麗な髪で、俺の中では、残念で仕方なかった。


 突然、俺の前から去ったショートの子、俺は、この子は何かおかしいと思ってはいたが、こんなことをして、追うなというのは無理な話。でも俺は、追いかけなかった。追いかけても仕方ないし、俺はショックでそれどころじゃなかった。本当にショックだと、何もできなくなる。しばらく、本当に俺は調子が悪かった。Jさんと会ってる時に、「岬、まだお前、同じ女の話するの? あの女、本当に変だったとよくわかってるだろ、忘れろ」と言われたくらいだった。気がつけば彼女の話をしている俺は、本当に女々しいのかもしれないが、俺は無意識だったんだ。



 それから、これは恋じゃないと思って気づいてなかったけど、俺はこの子のことが好きだったのかな、と自分で後になって、好きだったんだろうか?と改めて思った。友達ではなくなるなんて、考えたこともなかった。俺は、彼女のことが好きだという自覚が、全くなかったんだ。こんなことになるまで。むしろメールは、時々、返すのが大変だな、と思っていたくらいだった。信じられる?俺、いつも丁寧でラブリーなメールだから、毎日書くのに疲れてた。返事するの大変だったんだよ。でも、もちろんちゃんと書いていた。彼女にだって、そんなマメなことはしないような俺が、彼女の買い物を代わりに行ってあげたり、一人暮らしは大変だろうから、買い出し一緒に行かないか?と誘ってあげたりしていた。


 俺ね、長い間、彼女が運転できて、車も持ってることを知らなかったくらいなんだ。車ないと不便だと思って、なんでも重いもの買ってきてあげるよ、と言って。彼女はチョコレートの味のソイミルク、豆乳なんだけど、それが好きで。俺は、自分も買って飲んでみたが、とてもじゃないが甘い。


 俺はあまりに甘いもの、甘すぎるものはダメなんだ。特にチョコレート。砂糖とミルクがたくさん入ったチョコレートは嫌いだった。チョコレートは必ず、ビターなものが好きで、かと言って、85パーセントがカカオだと苦すぎる。俺は、普通のミルクチョコは食わない。嫌いなんだよ、甘いのが。


 彼女がくれたプレゼントも忘れない。捨てようと思ったが、捨てられない。俺は、あの子からもたくさんプレゼントをもらって、それは中学、高校の時だったが、今でも実家にある。手紙も。俺は、あの子の痕跡は、すべてはっきり覚えてるんだ。筆跡から何から。いつ何をもらったか。学校の帰りに手渡された、授業中に書かれた手紙。彼女がTシャツを着ていた時の体の線から、いつ髪を切ったか、どんな髪型で勉強の時は髪を縛ってたか、彼女の仲よかった女の友達は誰なのか。


 実は彼女は俺と同じ高校ではない。姉妹校だから、俺たちは離れてた。でも、彼女、俺の高校のバスケの対外試合にやって来た。俺は、たまたまバスケ部のやつに、助っ人で出てくれと頼まれた。だから、彼女が隣のコートでプレーしているのを時々、横目で見てた。それから、対外試合が終わった後、バスケ部員は記念写真で同じフレームに収まったんだ。記念写真の中で、彼女は、Tシャツの前を抑えてた。ガバガバの大きなTシャツ。胸が大きすぎるせいで、そこまで大きいTシャツを着ていたが、ウエストがもちろんゆるゆるになるから、Tシャツが浮かないように、お腹を押さえていた。でないと、太って見えちゃうだろ。彼女は小柄だったが、制服の時は、本当にバランス的に、細いウエストと、長い足が、なんというかアンバランスだった。胸が大きいとさ、細いのに何故か、写真では太って見えちゃうことをきっと気にしてたんだ、と思った。俺はもちろん、彼女の体をジロジロ見たりしたことはないし、一度もよこしまな目線で彼女を見たことがない。青年誌のグラビアに載ってそうな感じだなんて、思ったこともないよ。今、今だから、それでもおかしくないくらいの巨乳だったな、と思うだけだよ。当時はさ、もちろん知ってたけど、俺全然、そんなの、思ってなかったよ。神に誓う、絶対俺、そんな目で見てなかった。


 俺はまだ子ども過ぎたんだ。俺にとったら、長い間、何もかもの、世間の泥のようなものは、本当に無縁の世界だったから。思いつきもしなかった。俺は、成長がまるで遅いのかな?色気付くとか、そういうのがなかったんだ。俺は本当に、理想的な、王子様のような男の子で、今みたいにいやらしくなかった。今?


 ごめん、今は最悪だよ。仕方ないよ。大人になるってこういうことなのかと感じるよ。俺は、滅多に大人にならずにいつも死んだから。大人の男になるって、嫌な体験だね。今が嫌な体験。穢れた感じがする。だっていつもお腹をすかせてるような目つきで女性を見てしまうよ。前はこんなじゃなかった。気をつけてないと、つい手が出そうになる。狼みたいな、本当に文字通り狼だよ。


 あの子と一緒にいた頃と、本当にそっくりの感じで、俺は、ショートの子と友達づきあいをしていた。とても懐かしく、俺は自分がショートの子に恋愛感情なんて持ってることを全く知らなかった。今でも、もしかして、恋愛感情なんてないのかもしれない。ただ、好きだっただけなんだ。いつまでも一緒にいれると思ってた。思い込んでた。また出会ったんだと思い込んでたんだ。普通の友人のつもりだった。


 だってショートの子には、付き合っている人がいて、そんなことも俺はなんとも思ってなかったはずだった。相手の男はかなり年上でバツイチで、その男が俺に、俺が撮影で大変な時、彼女と一緒に差し入れのキッシュを作って持ってきてくれたボールやカップがまだ家に残ってる。その男、ミシュランの星のつくレストランで働いていた経歴があり、盾が飾ってあった。まるでJさんと同じような感じだな。そして、ショートの子とは、昔の上司、部下という関係で。行き場をなくした彼女、その上司のところに転がり込み、そして、別に付き合っているわけではないと言っていたが、見るからに男は彼女にぞっこんだった。跪いて、彼女の側にいるような感じで。年齢差がありすぎるからさ、わからなくもないよ。彼氏というより、執事だよね。二人の間には何もなかったかもしれない。俺は、今でもそう思ってるよ。彼女はそいつのことを一度も彼氏と言わなかった。友達のところに厄介になっている、昔の上司だと言って。俺はそれが真実だと思う。自分に都合がいいからそんなこと思うわけでないよ。男だって、時に、本当に好きな人には気をつけるよ。一緒に寝ても、指一本触れないよ。


 そうだ思い出した。その男も俺も、まるで下僕系だ。俺たち、彼女にメロメロで、何でも言うことを聞いていた。最初から、ずっとそうだ。彼女は女王様のようだった。忘れない。男とカフェに行って、3人でお茶した日のこと。俺たちは護衛みたいな感じで、そして彼女は、その男に俺の分の支払いもさせた。俺はもちろん断ったが、その巨大な世界的チェーンのアミューズメント施設の中の、フードコートの責任者だった男は、もちろん俺に財布を出させない。食事もカフェも常にそうだった。


 俺は彼女が去った理由、ちょっとわかった気がした。俺は必ず彼女を優先させていて、その見えない掟を破ったからだ。彼女と出会って、一年以上も経っていた。本当に少しずつ、野生動物が心を開くように、仲良くなっていったのに。最初俺は、彼女のことを何も知らない、彼女も自分のプライベートを絶対に言わなかった。そこから始まって、やっと、やっとだったのに。


 俺はそんなことにも気づいてなかった。確かに最後のメールには「あなたはいつもいつも、Bさんを優先させる。Bさんがそんなに大事なの?いつもBさんのことばかり喋ってる。私よりBさんの方が大事なのね」そう書いてあった。俺は驚いた。俺がBのことばっかり喋ってる?そんなの偶然だろう。Bといつも一緒にいるのだから、仕方ないじゃないか。Bの方が大事?俺、そんなこと気づいてなかったし、それは……勘違いだよ。たまたまいつも一緒にいるだけだよ。


 彼女が切れたのは、自分がお膳立てして、落ち込んでいる俺を勇気付けてあげようと、カレー屋のランチをわざわざ予約したのに、俺がBを優先させ、Bを理由に「ごめん、Bが吐いたりして心配だからやっぱり行けない」と土壇場でキャンセルのメールを書いたせいだと思い当たった。


 俺、自分もカレーはどうしても匂いを嗅げば気分悪くなるコンディションだった。胸がムカムカしてた。最悪。


「私、チャンスを逃した、罠にかけられた、と落ち込んでるあなたを心配して、予約したのに」そういう言外のメッセージが、そういえば込められていた。俺はチャンス到来に頑張っていたのに、それこそ罠に嵌められ、排斥された状態になったことについて、彼女に相談したりしていた直後だった。この家を買った時も、そういえば彼女に相談した。分厚い契約書の下読みまでしてくれた彼女。法律に詳しく、とてもしっかりしていた。俺は彼女のような友人、とても親しい友人が現れたことについて、本当にあの子が帰ってきたような錯覚に陥っていた。


 俺は、特別に親密な関係など誰とも結びはしないが、あの子だけは別だったんだ。中学・高校と、俺は最も大事な時期、誰にも頼らずに大きくならないといけない過程に、あの子がいたから、どんなことも難なく、結局乗り越えた気がする。それは不思議なことだったが、心の絆というのは、そういうタイプのものだ。毎日一緒にいるわけじゃないのに、いつ会っても俺たちは、本当に親密だった。気がつけば俺は、あの子が生きて戻ってきたんだと思い込んでいた。ショートの子のことを、あの子だと思い込んでいた。そしてもちろん、俺は一切、彼女に手を触れてもいない。そんなの思いつきもしなかった。好きだとか、付き合うとか、結婚とか、一切思わなかった。ただ一生、今のようにずっとずっと普通に付き合っていけるんだと思い込んでいた。たとえお互い結婚しても、最も親密な、なんでも話せる二人でいると信じ込んでいた。


 俺は、一度か二度、その彼女と男が住む家に行ったのに、どうしても行き方が思い出せず、ボールもカップも返すことができずにいた。


 捨ててしまおうかと思ったが、捨てることもできない。今も持ってる。


 Jさんは、彼女、あれだけドタキャンを繰り返して、お前が一回彼女を断っただけで激怒するって普通じゃない、お前、しつこくまだ思ってるのか、忘れた方がいい、もともとおかしかったんだ、と言った。


 実は俺とJさんが散歩してた時に、彼女が自転車で元気に走っていくのを見たことあるって言ったっけ?


 俺は彼女から「頭が痛くてしんどいから今日は会えないの、ごめんね」というドタキャンメールをもらい、Jさんに付き合ってもらって、川沿いを散歩してて、彼女を見かけてしまったわけで。この話、書いてたっけ?


 俺は絶句して、何かの間違いかと思ったが、あまりに元気よく立ち漕ぎで出ていく彼女を見て、何か他の用事が入ったから、嘘ついたのかな?とは思った。病人とは思えない、すっごい元気な勢いで笑ってさえいたから。


 そういうドタキャンが頻繁にあり、俺は食事を用意してても、そういうこともある、と思っていただけだったが、BもJさんも、何か心理学的にというか、あの子自体が問題があるから、遅かれ早かれ、結局はきっとこういうことになって終わってるから同じだ、と言った。


 俺も、Bを寝かしといて、自分もムカムカするんでも、普通に出かけてカレーを食べればよかったのに、そうしなかったことについて、俺が悪かったのかな、と思った。ムカムカするって言っても、結局、何もなかったわけだし、Bは会社を休んだが、別にBに俺が付き添ってあげてないとBが死ぬかもの緊急事態、とかいうわけでもなかったんだから。俺はただ、カレーを食うの、今日は絶対無理、と思っただけだ。クレープやサンドイッチでなく、なぜカレーなんだ。カレーの匂いを思っただけで胸がムカムカした。絶対無理、吐きそう。だから断ったんだけど、本当にツイてない。俺は、今でもあのカレー屋を憎んでる。これがカフェなら、俺は絶対、出かけてた。


 いつもドタキャンをする彼女だから、こういう時は仕方ないと思ってくれるかなと思ったのが間違いだったというか、遅かれ早かれ、こうなったに違いないというのは、当たっている気がした。だって普通の人なら、ここまでドタキャンする人とは、もう約束自体をしなくなるはずだ。まるっきり約束する意味がないのだから。会いたいその場で約束をすればいいのに、彼女はまた、ものすごく遠い日に約束を入れることが多い。まるで、ノートを見て、空いている時間があったら不安になるかのような、キチキチの約束の詰め方をしようとしているような感じだった。


 俺はそのちょっと前に、罠にかけられたみたいな、すごくショックなことがあって、と書いたが、それも、なんというのか嫉妬されて、ちょっとしたうまい細工の裏切りで、楽しみにしていたチャンスが潰された。俺が恥をかかずに済んだのは、嫌な予感がすると思って、誰にも言ってなかったからだ。でなかったら、とんだ赤っ恥だ。もしかして、その話は過去、書いたかもしれない。リアルタイムで。


 俺の低迷はそこからまた始まって、かなり長く調子が悪い時期が続いた。なんか俺、落ち込むと長いね。そのことについて、彼女はすごく心配してくれていたが、それは形の上だけ、それがよくわかった。こんな形で去っていく人なのだから。俺のことなんて、思ってくれていたわけがない。最後に俺を信じてくれてなかったというのが露呈して、俺は本当にショックを受けた。まるで野生の子猫を拾って、だんだんに慣れて、やっとすっかり慣れた頃、顔を引っ掛かれ、脱走されたみたいな感じのショックだった。たとえ俺がBを優先させたからと言っても、Bみたいな大きいやつが、ゲーゲー吐いて、顔色蒼いなんて、やはり俺は、出かける気にはなれない。仕事ならともかく、楽しくカレーデートなんてできない。


 彼女は行くアテもないから、その男のところにいたのだけど、その男の家は特殊で、ものすごくマニアックな男で、俺は絶対、その男と話しが合うと、一発でわかった。自宅がものすごく使いやすい綺麗なショールームみたいな作業場になっていて、男がすべて手作りした綺麗なデコレーションは、まるで凝った男が行きつけるバーのようで、これ全部手作りしたの?と、俺がそのプロっぽい出来栄えに、プロよりすごいと思ったが、こういう男は離婚するんだよ。家庭とかなぜダメになったか聞いたが、相手が子ども連れて出て行ったみたいだった。理由はわからないが、成人している子供がいるらしかった。


 そうなんだよ、結婚しながら、男が自分の世界を守るのはとても難しい。妻子に合わせないとこういうことになる。俺が結婚に全く自信ないのも、俺と似たような男は皆、独身だから。その代わり、彼らの城はすごく凝ってる。鍋はピカピカだし、彼らは俺よりもっときっちりこだわって作りこんでて、しかももっと清潔。俺思うけど、こんなに几帳面に綺麗な場所をそのままにする女は探すのが難しいくらい、皆、凝っている。多分、俺よりもずっと絶対に結婚できそうにない。


 女はこういう台所で料理しない。男の台所って、案外と変に凝ってるんだよ。それこそ、何をどこに置くのかきっちり決まってて、プロみたいな美しさ。フードプロセッサーとかのメカ系とか、鍋とかまでもきっちりピカピカに磨かれて綺麗に壁にデコレーションみたいに並んでたりする。だから、女子どもが生活に入ってくる余地がない。俺は作業場もキッチンも、そこまでじゃないから、また別だと思うけど。その男のキッチンは完璧で、俺、キッチンにこれだけスペースを割く男って、と思ったら、やっぱり元シェフだった。


 俺は、少しだけあの子に似ているという意味で、ショートの子に、あの子の面影をやはり投影していたんだろう。俺の周りって、あの子の幻影だけで成り立ってるな。王子くんもJさんもそうだ。二人とも一緒にいると、ほのかにあの子を思い出す。違うのはBだけだ。Bとあの子は似ても似つかないから。Jさんは年配男性なのに、おかしいだろう?Jさんのお孫さんに会ったことある。まだほんの12歳くらいの子どもなのに、あの子にそっくりな顔してた。さすがに俺は、ロリコンじゃないから、俺、恋愛感情とかないよ。でも、メール交換ダメだよね?とJさんに聞いたら、それはね、まだダメだと言っていた。Jさんの奥さんもまだメールしてないくらいだから、お前が先だとまずい。Jさんの奥さんよりもJさんの方が、お孫さんにメロメロで仲が良かった。思った通り、この子、あの子にそっくりだと一緒にいて俺は思ったが、いくら似ていても、そんな子どもと俺は一緒にいることはできないから。


 そのショートの子と最後の時に、その直前に、俺が騙された、とその顛末をショックを受けて詳細に書いたメールが、とてもアグレッシブだと彼女からの最後のメールに書いてあった。彼女は騙した人の方を「本当に騙しかどうかわからないんじゃない。メールからはどちらとも取れるわ」とその人の肩を持つように言っていた。Jさんも似たようなことを言っていたが、その場にいた俺とBにはわかってた。上手に証拠を残さないように嵌められた。


 メールだけ見たら、どこにも証拠がない。お互いの勘違いです、と言い張ることもできるような上手な仕組みに組み上げてあった。完全な確信犯だ。元々その人は製薬会社にいたらしいから、俺はそれを聞いた時点で、気をつけようと思っていた。


 俺が嵌められたというのは、その場にいたBが言うのだから間違いない。俺は、その用意周到さが悔しかった。語学がわからない人だから、と言われることを見越し、俺はBを証人にするべく、しっかり間に立たせて、間違いのないように計算して、ちゃんと交渉して、現場の打ち合わせにもいたのに、それから鮮やかに嵌められた。最初から嵌めるつもりが、しっかり語学のわかる人に間に入られたら、意思の疎通のミスなどの言い訳ができないが、そこを相手がなんとか俺を騙そうと四苦八苦する様子は、俺に不信感を抱かせるのに十分で、俺はすごく気をつけていたが、俺から上手に言葉を引き出して、それを俺を排除する理由に持ってきて、責任をこっちに擦りつけて報告していた。そんなことはメールからは全く読み取れないから、俺が自分から降りたんだと上には報告が行っていた。俺はもちろん、それは事実じゃないと伝えたが、はっきりそれがわかった段階で、俺はもう降りる気持ちを固めていた。これ以上ここにいたら、何をされるかわからないから。


 メールにはごまかしがあり、メールだけ見ても、上手に俺を嵌めたことはどこにも証拠がないようになっていた。本当にずる賢い奴。病気上がりだと言っていたが、そんなことばかりしていたら、病気にもなりそうだ。俺は、温厚そうで優しそうな人が、裏で何か画策しているのを見抜いていて、何かがおかしいと思っていたが、決定的にここまで上手にされるくらいなら、最初から降りていれば良かった、と思うほどだった。時間も作ったものも無駄になった。何よりも、俺の中でダメージが大きかった。そこまでして俺に恥をかかせたい、その見えない陰湿な念がこっちに届くその不愉快さが、俺にはもうダメだった。


 頭の良い人間は、こういう上手なカラクリを作るのがうまい。頭が悪いと、自分のミスかな、と思うだろう。俺はそんなにバカじゃないから、最初から嵌められる可能性はすでに計算済みだった。なのに、まんまとしてやられた。厚顔無恥に戦っても良かったが、向こうは最も大事なところを握っているから、今度は何をされるかわからない。実力行使に出てくるような人間も俺はたくさん知っている。俺はいつもそういう中をかいくぐって生き残ってきたのだから。


 最初から俺をうまく排除しようと思う奴に、そんなふうに上手に仕組まれた。


 俺はそうならないためにBを噛ませたが、Bでは足りなかった。間で最も大事なことをやっている人に悪意があれば、結局、何だってできてしまう。だから諦めるしかない。むしろその場にいればいるほど、ドツボに嵌められる。こういう卑怯を通り越して、悪意でうまく嵌めてやろうというようなことをやる人間は、近づけば近づくほど被害が広がるだけだから、俺は抗議もしなかった。わざとやっているのだから、相手は俺が何も言わないことに、むしろ驚くだろう。上の人が、あなたには別のチャンスをあげたいと言ったが、俺は断った。こんな目がない人を間に噛ませるような人はダメだ。以前にもらったチャンスは素晴らしいと思ったが、俺は今回はもう十分だと思った。これ以上、関わりたくない。それきりになった。


 ああ、思い出した。あの時、俺は、ビデオを提出するつもりだった。編集が大変で、そっちにかかっていて、まさかという感じだった。ちょうどタイミング良くて喜んでいた。さっさと編集すれば間に合うと思ったから。あの時も綺麗な桜のシーズンの直後だった。ビデオはできたが、宙に浮いた。でも構わない。出さなくても。俺にとって、何もかも俺の作るものの基本は同じだった。人に見せる気は元々あまりないんだ。見せずに済むのなら、そうしたい。俺がきっちり普通のサラリーマンができるようなタイプなら、作っていることさえ、書いていることさえ、誰にも言わない。


 俺にとって、情熱のはけ口でしかない。作ることも、書くことも。誰も要らないし、意見も要らない、見せることもしたくない。俺は自分のこと、人にわかってもらえると思ってない。ただ時々、たまらなく寂しくなる時に、おかしなことになるだけだ。俺は一見、人当たりもいいし、見かけがいいから。


 俺は今回、同じ轍を踏まないように、根回しをきっちりしているが、わからない。誰もが俺に好意的とは限らないし、好意持ってないのを上手に隠して、土壇場で俺を排除にかかるというのは、よくあることだから。俺は、海外に来てからの方が、そういう激しい競争があるような気がする。自分の力が物理的に落ちてくると、ダメになる気がする。俺は結構強いものを持っていたが、病気してから、本当にダメだ。相手に付け込む隙を与えてしまう。


 俺はとても目立つので、それをよく思わない人から、そういうことをされることが本当に多い。俺がそこにいるだけで、話題をさらってしまうような感じになり、俺は決して皆から好かれない。特に、俺と一緒にいるだけでコンプレックスを刺激されてしまうような奴とは相性が悪かった。そんなのお前自身の問題だろう、と俺は思うんだが、存在自体が許せないという感覚が相手から送られて来る。俺はとても敏感だから、そういう奴とは絶対、隣に並ばない。一体俺にどうして欲しいのか知らないが、多分、兄貴も弟も、俺と同じような感じだと思う。弟は俺以上にモテていて、兄貴は俺ほどじゃないというのはあったが、それはやはり、人当たりの良さというか、性格の違いだろう。もっとも普通、一般的な性格をしているのが弟だから。


 熱狂的に好かれるか、自分がくすむからこいつをなんとかして自分の視界から遠ざけたいと思われるか、そのどちらかが多かった。とても生きにくい。


 俺は、どんどん下積みの仕事も普通に押し付けられてもやるが、そうでもして、できるだけ奥へ奥へ追いやりたい、人から、そういうふうに扱われることはよくあった。とにかく気に入らない、と。


 出る杭は打たれるというが、俺が今いる場所は本当に下位の場所だから、とにかく俺には、存在しないでいて欲しい、視界に入ってきて欲しくない、そういう感じの人が多かった。俺が今の俺のようになるの、ちょっとわかる?


 まあ、いい。俺は誰とも会いたくないし、自分のできることをやるだけだ。兄貴もそうかもしれないが、俺たちは今現在、いる場所が自分たちに削ぐわってない。弟は努力で打ち破ってるからすごい。大学は弟が一番下位の大学なのに、結果は弟の方が勝った形。上も下もないかもしれないが、弟は、自分より上の大学出身の部下が来ると本当にやりにくいと言っていた。そりゃそうだろう。元の出来が違う。


 ただ、誰かが言っていたが、会社はチームワーク。だから、常に体育会系のチームでやるスポーツのクラブに所属していた弟は企業勤めに向いていると俺は思った。頭が良いだけじゃ全く意味がない。結局のところ、性格、チームワーク、協調性、前向きさ、柔軟性と、俺ってそんな点、欠けてるのか自覚はなかったが、俺はニヒリストすぎるからうまくいかない。


 兄貴も俺と同じ、まさに同じ状態なのだと思う。本当にくすぶっていては勿体ない。全く同じことが俺にも言えて、俺たちは自分が活かせる現場を自分で作って解決するしかない。兄貴だって、会社関連、それこそ誘われて、その辺のスナックにたとえ行っても、兄貴があんまり格好いいから、他の来ているオヤジどもが、すごい変な空気になる、と兄貴は言っていた。俺と全く同じ状況。


 兄貴が来る時には、スナックの女に出勤しないことを誓わせて、それを条件にその女に店を持たせたオヤジがいたとか。


 ……しまった、俺、書いちゃった。


 やべえ。そのオヤジ、もう死んだらしいけどね。兄貴のことは書かないと思ってたのに、口が滑っちゃった。

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