幼き亡命者たち

詠人不知

第1話 笛吹男の噂

 根拠も明確なデータもない、ただ精神論に任せたものを激励と嘯くものであるなら、根も葉もない噂話のほうが信じる価値がある。笛吹き男の噂でさえも例外なく、杉信由良もまた其れを信じる一人である。放課後の校庭を、開け放った教室の窓から臨み、彼女は独り噂を思い返すのである。

 笛吹男の噂は、誰が広めたのかはわからない。ただ、いつを皮切りにしていたかは薄らと覚えている。アメリカの或る有名な投資家が「もし私が十歳の日本人であるなら、カラシニコフを買うか、日本から出ていく」とニュースで述べていた数日後から、笛吹男の噂が広がり始めた。そもそも笛吹男は、童話のハーメルンの笛吹きに準え、誰かが勝手にそう呼んだ。笛吹男自身が誰かの目の前でそう名乗ったというわけではない。子供を笛の音色で誘い、遠いどこかへ連れ去っていくのであるなら、現に誰かが連れ去られただの、いなくなっただの、少なくとも自身の身の回りでは起きていない――由良は自分の机の上に座り、無為に佇む。

「あーあ、笛吹男は来ないかな。私もどこかに連れていけー」

 独りごちるも返す者が誰ひとり教室にはいない。夜の帳が降りる頃合いにて、学内の人手も疎らとなれば、彼女の独り言すら虚しく教室の中に響くのみ。春先の夕風も冷たくまた虚しく頬を撫ぜ、彼女の下校を促すのである。

「いるわけないか。いてもどんな奴かは知ったこっちゃないけど」

 溜息を吐くにせよ、度々と下校を促されるものである。校鐘の音、廊下から顔を出す担任の一声と、興と妄念も何処へと追いやられてしまう。現実に引き戻されるは、風に吹かれるに等しき哉――由良は鞄を取り、夕空に向けて中指を立て、家路につくのである。それは彼女の癖であり、世情や自然の摂理など一個人では抗えぬものに対して贈る細やかな反抗でもあるのだ。


 由良の家路は、駅前の繁華街、鉄道のガード下を通り住宅街へと、徒歩にして三〇分もかからない。友輩と帰る時は繁華街で寄り道をして茶や立ち読みを嗜むものであり、今のように一人の時は喧騒に揉まれ、ガード下を抜けた瞬間に訪れる寂寥を楽しみ、物思いに耽りながら帰るのである。

 ただ、友輩と帰る時も一人で帰る時も、共通して覚えるものは繁華街にあった馴染みの場所が次々と失われていく淋しさ、日に日に賑わいも減る人並に誰も住まず灯りも無い家々を眺める虚しさ、減っていくバスの本数の不便さ。彼女の目にも、いま住む街の衰退が映ることへの諦めも感じざるを得ないほどだ。

 しかし、平素よりも彼女の物思いは街の喧騒をも遮るほどに強い。どこかに追いやった笛吹男の噂も脳裏に戻り、自身も違和感を覚えるほどである。ガード下に近づけば近づくほどに強く、その違和感の正体を知るに至る。

 それはパンフルートの澄んだ音色。ガード下で奏でられていたのである。奏者はジーンズと革のジャンパー、無精ひげに整えられていない髪をした男、壁面に向けてパンフルートを奏でている。

 変質者の類であろうか――眉間に皺を寄せる由良は、男を遠巻きにしつつ傍目にするも、男を通り過ぎようとすると、

「お嬢さん、ちょっとばっかし離れてくれるか」

 男は演奏を止め、壁に手を翳す。

「お巡りさん呼びますよ」

 由良が突き出した舌を男に向けようとすると、不意に目を丸めてしまう。男が翳した掌から光が放たれ、投射された壁は然も水面のように波打ち、波紋を象っていく。男は光を波紋の中心に押し当て、水面を差すように手を入れるのである。

 幾秒と壁面に埋まったその手が離れると又も波打ち、波紋の中心から風が強く吹きすさぶのだ。呆気に取られていた由良は、その風を受け足取りもおぼつかなくなる。

「なに、これ……」

「言ったはずだ、離れてくれと。これを繋げると――まあなんだ、気圧差で強い風が吹くってやつだ。理科で習わなかったか?」

 その風は色が付いていた。赤、青、黄色、シアン、マゼンダ、白、黒、ありとあらゆる色が蛍光を発しつつ混ざり、由良の身体を通り抜け、ガード下坑内を色とりどりに彩り――割れて舞い散る坑内電灯の破片、震えて千切れ飛ぶケーブル、そのいずれも由良の傍を通り抜けていく。

 風はガード下を抜けるとともに、空気に混ざるかのように透明に変わる。坑内も風が止むとともに色も失せ、透明に変わる。

「えーと、理解が追い付かない……」

「まあ、そんなものだ」

 へたり込む由良であるが、男は向き直り彼女に手を差し伸べるのである。

「私もまだ修行中のみでね、『門』を繋げる手段がこれしかないというわけだ」

「『門』、笛、男――あー!」

 理解よりも、口に出した言葉を連想した由良は、差し伸べられた手を取らず男を指して素っ頓狂な声をあげる。

「あなたが笛吹男……?」

「巷じゃ、そう呼ばれているようだが。生憎と君が期待しているようなものでもないのは確かだろう」

 男は革ジャンのポケットにパンフルートを仕舞う。

「噂ってやつは面倒なだけだ。勝手に美化されても困る」

「確かに、そんなにイケてない……」

 無精ひげに整髪されていない頭――男の容姿、容貌も整っていない。顔も、現代の女子の弁を借りるならば、イケていないのである。ただ体つきは整っているくらいである。

「正直な子は嫌いじゃないがね」

 跋悪そうに男はジーンズのポケットから安タバコと百円ライターを取り出し、一服を以て気を紛らわそうとする。

「前もって言っておくが、ここに居合わせたことも別に咎めはしないし、君をどうこうする気はない。噂を流すのも結構。だが――」

「だが……?」

「――私は足長おじさんでもない、君の期待には添えられない、それだけだ」

 男は吸い殻を落とし、足で踏み消す。

「それってどういうことなの……? それに『門』ってなんなの……?」

「巷でいう異世界への『門』だ。だが、来ないことを勧める」

 男は壁面に身を投じ、波紋の向こうへと去る。

「え、ちょっと待ってよ……!」

 由良も立ち上がり、男の後を追おうと身を投ずる――が、壁面は元通りであり、小幼い死体を軽く打ち付けるのみである。

「痛っ……。本当にいたんだ、笛吹男……」

 取られる呆気に、込み上がる好奇と興味、それらが織り交ざる。由良は打ち付けた体の痛みを忘れるほどに、笑みを零しながら、家路に再び就くのである。

  

 

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幼き亡命者たち 詠人不知 @jenety1980

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