飴と傘
こざくら研究会
第1話 チトセさん
チトセさんは変な人。誰とも話さない。教室の机の上で頬杖をついて、何時もぼんやりしている。それに何か臭い。変な臭いがしてみんな近寄りたがらない。
先生がちゃんとお風呂に入っているのか聞いても、チトセさんはお風呂は嫌いと答えるだけ。女の子なんだから身だしなみには気を付けなさいと先生が言うと、「しかたないじゃない。嫌いなんだから」って答えたんだ。先生はその話し方に酷く怒って、授業中なのにチトセさんをどこかに連れて行った。
みんな警察に連行される犯人みたいだって言っていた。
チトセさんはいろんな先生に、いろんな事で注意される。でもチトセさんはそれらを止める気はないようだ。だから先生の全員が、チトセさんの事を怒っている。
そんな状態なのに、当のチトセさんは気にしない。おまけに授業中でも、もごもごもごもご、飴をなめている。先生に注意されても、生きるために必要だから仕方ないなんて言う。ある先生が生きるために何故必要なのかと聞いた時があったけれど、話したくないなんて答えてた。
あんなんじゃ、みんなに嫌われるのも当然だ。だから誰もチトセちゃんとは呼ばないんだ。みんなチトセさんって呼ぶ。男子は敬遠して、女子は嘲るためにそう呼んだ。僕もどこか関わりたくないって思ってた。
ある雨の日だった。僕は図書委員会で本の整理をさせられていて、終わったのが夕方だった。外は雨で、黒々とした雲が空一面を覆っていた。夏の日のその時間はまだ明るいはずなのに、夜にでもなったように暗かった。僕は傘を持って来なかったので、びしょびしょに濡れる覚悟をしていた。
昇降口の傘立てには幾つかの傘が刺さったままだった。僕は恨めしい思いで目をやると、水色の傘が傘立ての下から覗いているのに気が付いた。
その傘を、僕のクラスメイトは全員知っていた。本来ここにあるべきものではない。チトセさんの水色の傘。
傘立てがあるのに、チトセさんは必ず教室まで持ってくる。何時も肌身離さず持っているのだ。だから、雨の日ともなれば教室はびちゃびちゃだ。それで先生に怒られるが、チトセさんに言わせれば、傘はわたしの家、なんだそうだ。だからどんな時でも手放せないって言うんだ。それにチトセさんは晴れの日でも傘を持ってくる。おかしいんじゃないかとしか思えない。
で、そんな傘がここにある。考えられる事は一つだけ。ミカちゃんの嫌がらせだろう。
ミカちゃんはチトセちゃんが大嫌いと普段から言っていて、ちょっとしたいたずらをして、チトセさんを笑うのが日課だった。今回もそれだろうと思った。
僕はどちらに対しても軽蔑の念を持っていたので、関わらないようにして来たが、何だかこういう行為はどうにも好きにはなれなかった。
しかたないと思い、埃まみれの傘立ての下から引き抜くと、汚れを
そのまま行こうとして、足を止める。思い直した。だってそんな目立つ所に置いていたら、またミカちゃんに何かされるかも知れないから。なのでそれを持って、教室のチトセさんにしかわからない所にでも置いておこうと考えた。
教室に向かいながら考える。教室のチトセさんにしかわからない所なんてあったっけ。傘の大きさから、隠しておける場所なんて、掃除用具入れのロッカーくらいしかない。机の引き出しに何て入るはずもないのだから。どうしようかと思い悩むも、結局、良い考えが浮かばないまま、教室の前に来てしまった。
教室の扉を開けて、僕は、あっと声を出す。
教室にはチトセさんがいた。机の上につっぷして眠っているかのようだったが、僕の教室の扉を開ける音に気付いて顔を上げた。そして向こうも、あっと言った。
「あ、良かった。これ」
僕が、そう言っている最中にチトセさんは駆け寄って来て、傘をひったくるようにして僕の手から奪った。そして、よかった、と泣きそうな顔で、それを抱き締める。
僕はそんな弱気なチトセさんの顔を初めて見てとても驚いた。こんな顔もするんだなと意外に思ったのだ。どちらかと言うと、何時もふてぶてしい顔をしている印象があったからだ。
僕がそんな事を考えながら、ぼぅとチトセさんの様子を見ていたのに気付いたのか、チトセさんは首を
「あ、ごめん。その、これ、どこにあったの?」
「傘立ての下にあったよ。チトセさんの傘だろうと思ったから」
そう言うと、チトセさんは訝しそうに目を細めた。
「どうしてわたしが教室にいることがわかったの?」
僕は首を振った。
「知らないよ。教室に来たら、たまたまいただけだよ」
「傘立てに立てておけばいいじゃない」
やけにつっかかるなと思った。きっと僕がミカちゃんみたいに意地悪していて、傘を隠した張本人であるとでも思っているんだろう。僕は少しイラ立ちつつ、「目立つ場所に置いても、また傘立ての下だよ」と強めに言った。
一瞬、怯んだような表情を見せたチトセさんに、僕はしまったと思ったが、当のチトセさんは、すぐに何時もの不愛想な表情に戻ると、そうね、とだけ言って、僕から視線を逸らした。
「じゃ僕、帰るから」
用は済んだ。とっとと帰ろう。僕がチトセさんに背を向けて行こうとした時、
「ありがとう」
僕の背中にそう声がかかった。
ずっとチトセさんとは話した事はなかった。はたから見ていて、その話し振りも性格もわかっているつもりだった。人から聞くチトセさんは人から嫌われて当然だと思える人だった。そんな人が、お礼を言えるんだって驚いた。
僕はその後、ざんざんと振る雨の中を走って家まで帰った。
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