エアリアル・ファイト(5)
「――負けてしまったわね。最後の1回だけだけど」
夜、ソファにだらしなく身を横たえたまま、琴巳が言った。
その隣にある金属製のメンテナンスベッドに機械の身体を固定された辰刀が「ああ」と生返事をする。
ミドルレイヤで寝起きし、ボトムレイヤで物理肉体を扱うことはほとんどない人間が増えている中、衛戸家は毎日律儀にボトムレイヤに『帰って』きていた。
それはボトムレイヤでは不自由な身体を強いられる辰刀でさえ例外ではない。
「わざと負けたの?」
「いや、油断はしていたが、わざとじゃない」
「嘘」
クスクスと琴巳が笑う。ソファの前にあるテーブルにはワイングラス。
だいぶ酔っているのかもしれない。
『酔う』とはどういう感覚なのだろうと辰刀は思った。
この身体になったのは飲酒が許される前だ。それ以来、酒どころか好きだったコーヒーの味もわからなくなってしまった。
いや、大人ぶって飲んでいただけで、味なんて当時もわかっていなかったか。
「あなたはわざと負けたんだわ。稀人君に華を持たせるために、あるいは未沙さんに出産に専念してほしいから」
「未沙姉さんもそう思ってるみたいだな」
模擬戦の後、稀人ではなく自分に詰め寄ってきた姉の顔を思い出すと、背骨のフレームが凍り付く。
気がついた頃からそうだった。
勝てば流石衛戸辰刀と賞賛され、負ければ勝ちを譲ったと言われる。
手を抜いた、哀れみをかけられたと、自分に勝ったはずの相手が敗北者の顔で自分をなじるのは不思議な気持ちだった。
みな、自分を過大評価している。
自分程度の人間など、そう珍しくはないはずなのに。
「……どうして、みんな僕が普通に負けたとは考えないんだろう」
「簡単よ。あなたが衛戸辰刀だから。死さえ超越した、文字通り鉄の男……」
「……鉄の男、ね……」
辰刀は微妙な表情を浮かべる。
「僕は、鉄の男より、肉の男でいればよかった」
「えっ?」
「あの時は、なんとも思ってなかった。だけど君に赤ん坊を抱かせてやれないのが、今になって辛い」
みんなが自分を高く評価するから、辰刀は自分でもわからなくなってくる。
あの時、稀人の特攻を本当は避けられたんじゃなかったのか。
子供を持つという幸せをもはや得ることのできない自分の代わりに、姉にその幸福を享受してほしくて、わざと避けなかったのでは。
仮にそうだとしたら、姉は余計なお世話だと言うのだろう。
そしてその考えは、懸命に自分へ向かってきた稀人への侮辱にもなり得る。
「馬鹿な人ね。そんなこと気にしていたの?」
ソファから立ち上がった琴巳は、危なげな足取りでメンテナンスベッドの側まで来た。
そっと辰刀の頬に白魚のような手を添える。
「私は、あなたさえいれば充分よ。子供なんていらない。この鋼の身体だって、あなたが正義のために全てを捧げた証拠じゃない。私は誇っていいと思うわ」
「…………」
「どうしたの、そんな顔、あなたらしくないわ」
「僕らしくない……?」
「あなたはいつでも自信に満ちた顔をしていないと。狗宇矢君や礼亥ちゃんも不安になるわ」
「……そうだね」
微笑んでみせた辰刀に、琴巳は満足げな笑顔を返した。
「そうそう、ヒーローは、そうでなきゃ……」
ぺたんと座り込んだ琴巳は、そのまま寝息を立て始めた。
「……仕方のない奴だな」
辰刀は妻を部屋に運ぶためにベッドの固定具を解除する。
彼の脳波シグナルを受け、静かな駆動音とともに、身体を縛り付けていたボルトやバーが引っ込んでいく。
壁の一面はガラス窓になっている。そこに映る己の姿を辰刀は見た。
見た目を取り繕うための
内部機構の問題上厚みのある胴体部分に対し、
地獄に住まう餓鬼のようだと、彼は思った。
それが辰刀の真の姿だ。ミドルレイヤにおけるアバターは虚飾に過ぎず、いくらCGで失った器官を作り上げても、元のままの身体は手に入らない。
立っているだけで折れてしまいそうな枯れ枝めいた手足は、その実、下手な人間のそれよりよっぽど頑丈で、馬力もある。
まるで抱き枕を持ち上げるような気安さで、眠り続ける琴巳をお姫様抱っこの状態で持ち上げる。
「冷たくて気持ちいい……」
琴巳が呟く。寝言だ。
「……冷たい、か」
1度休眠状態にした胴体が暖気を発するまでにはまだ時間がかかる。
しかし鋼の身体が発する熱は、人間が放つそれとは異なるものだろう。
「……なんて。どうしたんだ僕は。稀人の考えが
そもそも、あいつはどうしてあそこまで、この機械の身体を嫌っているのだろう。
辰刀には稀人の感性はよくわからない。
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