エアリアル・ファイト(1)
衛戸未沙、つまりあたしはぼんやりと椅子に座っていた。
今はそれ以外のことはできそうにない。立っても横になっても、あるいはパソコンやタブレットで何か生産的なことをしようとしても、胃袋の中身を逆流させてしまいそうだったからだ。
苛立ちだけが募っていく。無為な時間を過ごすのも、何の役にも立たない自分自身も許せない。
手持ち無沙汰が過ぎて爪を噛んでいると、夫が入ってきた。
「話し合いはどうなったの、カバリオ。稀人は納得してくれた? というか、話を理解できた?」
「うん、とりあえず補充人員は1名確保、なのかな」
「なにそれ、はっきりしないわね」
「助けた女の子が自分を乗せろと言いだしてね」
「は?」
そんなことより、とあたしはさっきから考えていたことを夫に話すことにした。
洗面台でバシャバシャと手を洗い始めた彼に言う。
「やっぱり、堕ろそうと思うのよ」
「へえ、そうかい」
夫は快諾してくれた。よかった――かに見えたが、次の瞬間、慌てたように顔を見せた。
「――なんだって? なんて言った、今?」
「堕胎しようと思うの。その、あたしの中にいる赤ん坊をよ。一応半分はあなたのものなんだから、事前に話しておこうと思って」
「あれ、ただの売り言葉に買い言葉じゃなかったのか!? 正気かい?」
「あたしはいつだって正気で本気のつもりよ」
「確かに君が冗談を言ってるのを見たことがないが――なんでまた? 君だって妊娠がわかった時、喜んでたじゃないか」
「でも、父さんは喜んでくれなかったわ。それもそうよね。こんな時期にパイロットが1人使えなくなるなんて多大な損失だもの。産んだ子供だってすぐ戦えるようになるわけじゃない」
「世界平和のことは忘れていい。君自身の希望としてはどうなんだ」
「あたしとしてはこの体調不良から解放されたい」
「一時的なものだ。もう少しすれば落ち着くって、ドクターも言ってただろう」
「だとしても、今度はお腹が大きくなって身動き取れなくなるわ」
夫はそわそわと宙に視線をさまよわせる。
そんな頼りなげな表情、父さんは決して浮かべなかった。
「半分はあなたのものと言ったけど、負担を強いられているのは100%あたしの身体よね? あたしがあたしの身体に関して決定権を持つことの何がいけないというの? これはハラスメントだわ」
「……やっぱり個人的問題ではなく社会的観点で話そう。地球防衛も大事だが、子孫を生み出すのも重要な問題だ。まだ少子化問題は解決していないじゃないか」
「今、人類はおよそ90億いるのよ。多すぎるくらいだわ」
「そうだね、君達一家が1国の視点で物事を見るわけがなかった。でも頼むから、もう一度考え直してくれ」
あたしはそれに従った。
「やっぱり堕ろすべきだわ」
「すまない、言い方が悪かった。秒単位じゃなくて1日単位でじっくり考えてくれると助かる」
「どれだけ考えても、あたしの心変わりはないわ」
「赤ん坊の命に関わる問題なんだ。考えて考えすぎることはない」
「まだ命じゃないわ。妊娠22週までの堕胎は認められているもの。殺人にはならない。公的に認められた私の権利よ。どうせするなら早くするべきだわ」
夫は意味もなくウロウロと歩き回り始めた。
父さんほどではないにせよ、彼は優秀な技術屋だ。メカニックとしてTRRの調整という重要な仕事を一手に引き受けている。
だが今の彼の落ち着きのなさは、頭のいい人間がやる振る舞いには見えない。いったいどうしたのだろう?
ああそうか、疲れているのかもしれない。最近出撃が多かったから。
「ごめんなさい、つまらない話をして」
「わかってくれたのかい!」
「忙しいあなたに余計な問題を背負わせるべきじゃなかった。あたし1人で処理すべき案件だったわ」
夫はがっくりとへたり込んだ。
「どうしたのよ。そもそも、子供をもうける生き方が絶対ではないでしょう」
彼ほどのIQがあればそれくらい自明の理であるはずなのに。
どうやら想定より柔軟な思考力を持っていなかったようだ。
「そりゃそういう選択もありだろうが、ボクは君との子供が欲しいよ」
「あなたの願望なのに、あたしばかり負担を負うのはフェアじゃないわ」
「それについては申し訳ないが、人間の生理機能ってのはフェミニズムよりずっと昔に完成されて、念仏唱えたって変更が利かないんだ」
「これだけ科学が発展したってのに、女が出産という呪いから解放されていないってどういうことかしら」
「スポンサーがつかなかったんだろう」
「とにかく、時期が悪かったのよ」
「その良い時期って奴はいつ来るんだろうね。ボクの生殖機能が生きているうちであることを願うよ」
夫はふてくされたように言う。
こんな子供っぽい人だとは思わなかった。
侮蔑が表に出ていたかもしれない。夫は申し訳なさそうにうなだれた。
「……ねえミサ、お願いだからもう少し猶予をくれないか。頼むよ。君の弟が――マレトが君の代わりを務めることができるかどうか、見極めてからでもいいだろう?」
「無駄だと思うけど」
むしろあいつにあたしの代理が務まるのは嫌だとさえ思う。
稀人は小さい頃から変わった子だった。
妙な絵を描いたり
他の兄弟が図鑑や学術書を欲しがるような頃になっても、1人だけ現実には何も生かすことのできない嘘を並べた小説ばかり読んでいた。
「あの子にあたしの代わりが務まるわけないじゃない」
「もしかしたらってこともあるかもしれない。中絶だってノーリスクじゃないんだ。ボク達は子供を手に入れて、地球防衛にも支障が出ない。それが1番じゃないか」
「……わかった。とにかく1度、様子を見てみましょう」
そうしてくれ、と夫は部屋を出て行った。
気がつくと具合がだいぶよくなっていたので、あたしは病院を見繕っておくことにした。
どうせ結果は見えている。
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