第1章「稀人の帰還」

電子の海で、マンモスを追う(1)


 超越現実TR――Transcendence Realityネットワークを使いたいなら、大都市の駅か、大型ショッピングモールに行くといい。

 証明写真や銀行ATM、コインロッカーやらの隣辺りに、棺桶のようなものがいくつか斜めに立てかけてある店舗があるはずだ。なければ御愁傷様。


 LEDがグリーンに点灯していれば、棺桶の開閉ボタンを押して内部のベッドに寝転べばいい。

 後はガイダンスに従っていれば、あなたの精神はアバターと呼ばれる電子情報に変換される。

 そして最初に表示されるページのエンターボタンをクリックしたならば、人類が作った電脳空間の向こうにある、低次霊的電脳宇宙ミドルレイヤのサーバータウンに立つことができるだろう。


 従来の体感型インターネットMRネットは、どのページにアクセスしたところであなたはあなたの肉体がある場所から解放されなかったが、TRネットは違う。

 あなたは仮想現実という手段によって、実際にミドルレイヤという別宇宙へ旅立っているのだ。


 あなたはちょっと辺りを冷やかしてこの物質宇宙ボトムレイヤに帰ってもいいし、このままミドルレイヤで暮らしてもいい。

 もし引っ越すなら歓迎しよう。今や30億人が暮らす、人類のフロンティアへようこそ。


 だがミドルレイヤを真に満喫したければ、虹色に輝く『外海』へと漕ぎ出すべきだ。

 たとえばそう、宇宙ステーション風にデザインされたあの港から今まさに出港しようとしている、大航海時代の帆船を模した、あの電宙船の乗組員エレクプローラー達のように。



◆ ◆ ◆



 一粒の泡が、虹色の海の中を行く。

 泡の中には空が広がり、空の中心には大航海時代を思わせる木造帆船はんせんが1隻、浮かぶ。 


 人間のようにちっぽけな存在にとって、虹色の海は果てしなく広大な空間としか捉えられない。

 だがもし銀河系ほどの大きな存在が見れば、その海は3次元的に張り巡らされた蜘蛛の糸にも似た、複雑な迷路だとわかっただろう。


 その迷路宇宙を、無数の泡がさまよっていた。

 あるものは西へ、あるものは下へ。

 彼等は別々に動きながら、たった1つの場所――迷宮のゴールを探している。

 帆船と空を内包したその泡も、迷える旅人の1人に過ぎない。


 泡の他にも、虹色の海を泳ぐ無数の光点があった。

 夜空に浮かぶ星々のようなそれは小さな群れごとに集まって、勝手気ままに動いている。


 その群れの1つに向かって、帆船は舵を切り、接近していった。




 船が大きく傾く。

 船室で一心不乱にスケッチブックに筆を走らせていた衛戸えと稀人まれとは、船が大きく傾いた拍子に床の上へひっくり返った。コロコロと転がった鉛筆は、ちょうど入室してきた屈強な若い男の足元で止まり、拾い上げられる。


「もうすぐ出撃だぞ、マレト」


 タイガ・バーグディオというその男は、鉛筆を手渡すついでに青白い顔をした絵描きの手元を覗き込んだ。

 上手くもないが下手というほどもないデッサン画がチラリと視界に入る。

 だが次の瞬間、稀人が紙面の上で指を動かすと、描かれていた絵は一瞬で消え去った。

 スケッチブックがぱたんと閉ざされる。


「消さなくたっていいだろうが!?」


 明確な拒絶にタイガは鼻白む。だが、すぐに気を取り直した。

 別にそこまで見たかったわけではない。それに、いかにも芸術家といった風情の、神経質なこの友人の排他的な態度は今に始まったことではなかった。


「出撃――なんでだ?」

「船内連絡、聞いてなかったのか?」

「霊感に誘われるあまり、幽冥の境に至っていてな……」

「翻訳してくれ」

「……上手く描けてたから、凄く集中していた」

「最初からそう言えよ」

「俺はアーティストだぞ」

「関係ないと思う」


 ネットでさえまともに作品を発表してないくせに、芸術家の端くれ気取りとは笑わせる――とタイガは思ったが、遠慮のない会話ができるほど、仲良くはない。仕事前にトラブルはごめんだ。


「これから狩りが始まる。作業員は格納庫で待機な」

「解を了したと言っておくよ」

「……『わかった』って解釈でいいんだよな、その台詞?」


 アーティストでもアナーキストでもいいから受け答えくらい普通にやってくれ、とタイガは肩を落とす。


「いいかマレト、おまえを船長に紹介したおれに恥をかかせないでくれよ」

「文句は仕事を投げ出したお友達に言ってくれ。蜉蝣ふゆうのごとき臨時アルバイトはアルバイトらしく気楽にやらせてもらう」

「仕事だけはきっちりやってくれよ。……先に行ってるぞ」

「はいはい」


 稀人は立ち上がる。いつの間にか、スケッチブックと鉛筆は消えていた。そして、タイガの姿も。


「……『転送』『格納庫』、OK」


 稀人がそう呟いた瞬間、彼の身体はそのまま、取り巻く風景がぐにゃりと歪んだ。

 歪んだ世界が整形され直したとき、替わって現われたのは、鉄の壁で囲まれた現代的な格納庫だった。


 ただし格納庫に所狭しと並んでいるのは、戦闘機でも戦車でもない。

 複雑な鋼鉄の立方体を積み木のように積み上げて作り上げた、人体の粗悪なレプリカだった。

 俗っぽい言い方をすれば、巨大ロボット。種々雑多な形状をした全長12メートル程の鋼鉄の巨人。


 マルスウェア。

 人類が虹色の海を往くために必要な船外活動服にして、最小単位の船だった。


 稀人は自分用の駐機スペースに目を向ける。

 そこには彼の乗る機体の、膝から下だけがあった。

 その断面にきらめく緑色の光が少しずつせり上がる度、膝が、太腿が現われる。

 別のスペースでも何名かのパイロットが、ゲームアプリやニュースサイトにアクセスしながら愛機の完全な出現を待っていた。

 

「解凍、まだかかるな。ちょっと仕上げだけやっておくか」


 稀人は右手の指を伸ばし、振る。

 一瞬の煌めきと共に、手の中にスケッチブックと鉛筆が現れる――が、横から伸びた手がそれをひったくった。


「駄目。描き始めたら周り見えなくなるでしょ。没収」


 南国の鳥のような色彩の髪をラビットイヤー(髪型の名前だ)にまとめた少女がそう言った。

 彼女の手に握られたスケッチブックと鉛筆が影も形もなく消滅。


「イナバ・ラヴィニアか! 返せ、それを! 我が手の中にッ!」

「普通に喋れたら返してやるよ!」

「……返してくださいお願いします」

「だが断る」

「子供か!」


 取っ組み合いを始める稀人とイナバを、タイガは微笑ましそうに見つめた。

 イナバとタイガは昔からの付き合いだが、稀人とはつい半年前、マルスウェアの大会で知り合った。

 意気投合というよりは稀人の操縦技術を見込んだタイガが無理矢理近づいていった感じだ。

 そんな打算から始まった友人関係だが、出会ったばかりの頃と比べると随分進展したものだと思う。


(マレトの心の壁の分厚さときたら、南極の氷もかくやってところだしな……)


 生来の人見知りというよりは、あえて人見知りになろうとしているようにも見える。

 だがそんな稀人も、今ではイナバとふざけ合う仲だ。


「……何ぼんやりしてるのよ、タイガ?」


 稀人をからかうのに飽きたイナバがタイガを振り返る。スケッチブックを取り返すチャンスだが、稀人はゼイゼイと肩で息をするばかりだ。


「おふたりさんの仲が良くって、なんだか妬けると思ったまでさ」

「あ……」


 稀人はバツの悪そうな顔をした。


「すまない、タイガ……。謝る」


 イナバとタイガは恋人同士でもある。やんわりと「俺の女に手を出すな」と咎められたものと思ったのだ。タイガにはそこまでの意図はなかったのだが。


「タイガ、これくらいのことで彼氏風吹かさないでよ。やっとマレトがここまで喋るようになったのに」


 恋人から冷たい視線を向けられてしまっては、慌てて誤解を解くほかにタイガの取れる選択肢はない。


「すまない。違うぞマレト、そういう意味で言ったんじゃ……」

「いや、確かに俺が軽率だった。タイガが悪いわけじゃない」


 だが稀人はますます心の壁を厚くしていく。

 言わんこっちゃない、とイナバが視線の圧を強める。

 タイガは強引に話題を変えることにした。


「し、しかしだな、ミドルレイヤで狩りだなんて、何度やっても、なんかこう、変な感じだよな!」


 低次霊的電脳宇宙ミドルレイヤ

 数年前に発見された、人類以外の何者かが創り出した、あるいは天然のWebスペースである。

 今、この帆船が進む虹色の海こそ、そのミドルレイヤだった。

 


 超越現実TR技術の完成により、そこが人類の新たな生活の場となって久しい。


 大雑把に説明すると、TRは転換機と呼ばれる2メートル程のカプセルにより人間を肉体ごと電子情報体に変換し、仮想空間に追加する技術だ。現実空間に情報を追加する拡張現実ARとは真逆の技術といえよう。

 己自身が電子情報体となることで、データ遅延時間レイテンシが限りなくゼロに近い、快適な仮想空間生活が可能になるというのが最大の利点だ。

 体感的には、物理宇宙で暮らすのと何も変わらない――いや、いつ落としたり失くしたりするかわからない端末スマホに頼らずそれと同等以上の機能アプリを自身の能力として使えるのだから、それ以上である。


 今では人類のうち少なからぬ割合がそれまでの物質宇宙ボトムレイヤを捨て、この未開の電脳空間で暮らすようになっていた。


 しかし電脳空間での生活は、人類が思っていたほど自由なものではない。

 何故なら『老化』『飢餓』『睡魔』といった枷は、肉体が電子情報になってもなお、呪いのようにくっついて切り離せなかったからだ。


 故に電脳空間であっても、『食事』を取らなければ、『飢え死に』する。

 電子化された生き物がその内側に保存しておけるデータ量には限りがあり、消化排泄.exeや新陳代謝.exeがその上限を勝手に削減していってしまう。また、データ自体も老化という名の劣化を免れない。

 それを食い止めるには、定期的に『食用』可能なデータを取得して補填ほてんしていかなければならなかった。


 最先端の科学が支える電脳空間で、古き時代のように食うための狩猟という生臭い真似をしなければならないのは、そういうわけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る