さよならは明日のために

「さよなら」


 そう、たった一言を言い残して、彼女は去って行った。

 あれは中学三年生の、最後の春の一日だった。


「いいかげんに諦めたらどうだ」


 中学時代からの親友、浩二は言う。


「あれから何年経ってんだ。割りきっちまえよ雄太。親の都合で転校したんだろうが、仕方ないって」


 正確には、父親の転勤先に合わせて高校を受験したのだ。

 彼女は、その事を誰にも言わず、卒業のその日になって「さよなら」の言葉一つで、みんなの前から消えてしまった。

 あれから三年が過ぎようとしている。

 あまりにも突然の出来事だった。

 僕はその日、彼女に告白しようとしていた。「好きです」と。

 情けない男だと、自分でも思う。卒業の日でなければ、恋の告白も出来ない情けない男だと。

 しかも、その告白すら出来なかったのだ。彼女が言った「さよなら」の、そのたった一言のために。

 だから、今でも僕の心の中には「好きです」という言葉が、フワフワと行くあてもなく、ただただ無駄にさまよっている。

 あの日、あの時、もしも、この言葉が、僕の口から外に飛び出し、彼女の耳に入っていたら、どうなっていただろうか。

 彼女が応えてくれたかも知れない。

 たとえ失恋に終わっていても、今よりは心がすっきりしていたかも知れないし、新しい恋に巡り逢えていたかも知れない。

 そう、その日の僕は、失恋を本当に覚悟して告白する気だったんだ。

 僕は情けない男だから、失恋した相手と毎日顔を合わせる勇気がなくて、別々の高校へ行く僕と彼女が、最後にちゃんと顔を合わせる卒業の日を告白の日に選んだのに、それなのに……。


「ほんとに情けねぇなァ」


 そのことを初めて打ち明けたとき、浩二が言った最初の言葉がそれだった。


「そこまで決心してたんだったら、どうして言わなかったんだよ」


「だって……」


「だってじゃねぇだろ。同じことじゃねぇか。失恋した後、彼女に会い

たくないと思って卒業式の日を選んだんだったら、市内だろうと別の遠い街だろうと関係ないだろうが」


 それは、そうなんだけど……。


「ようするにアレだろ。お前は、『もしかして』の、そのほんのちょっとの、あるかないかの確率に望みを持っていたってワケだ」


 その通りだった。

 僕は、そのあるかないかのほんのちょっとの確率の『OK』に少なからず期待していたんだ。それがなきゃ僕は到底告白する勇気も出ない人間なんだ。


「さよなら」


 先生の横に立って言った、彼女のその一言が、僕のなけなしの勇気を一瞬のうちにしぼませた。


「いいかげんに諦めたらどうだ」


 中学時代からの親友、浩二は言う。

 僕は何も言ってないのに、付き合いの長いせいだろうか、僕の性格的なパターンを知っているからなんだろうか。浩二は、僕がまだ彼女のことを想っている事に気づいたらしい。いや、もしかしたら、ずっと好きだったのを知っていたのかもしれない。


「あれから何年経ってんだ。割りきっちまえよ雄太。親の都合で転校したんだろうが、仕方ないって」


 僕は、何も言えずにモジモジしていた。

 割り切れない、諦め切れない理由は、浩二が言った、


「まァ、うちの高校は、確かにかわいい女に不足してたけどよ……」


 では、決してない。

 告白出来ず、彼女の気持ちも判らないままになっている恋を、僕が未練がましく引きずっているせいだ。あの「さよなら」が、僕の心の時間をあの時のままに、止めてしまっているからなんだ。

 あれから。あの日から、三年が経とうとしている。

 僕はまた、再び受験生になった。

 もう、二つの大学から、不合格の通知が届いている。

 浩二は四つ。彼はもう、浪人が確定しているのだけれども、そんな事を気にしている様子は、まったくない。

 僕は、とても気になります。


「受かってるかなぁ」


 僕は、もう一つの悩みを漏らしてみた。

 理由は二つ。

 一つ目は、話題を変えたかったこと。

 僕の心は、もうすでに彼女への想いで飽和状態で、とてもじゃないけれど、これ以上彼女のことで悩める余裕がないため。

 本当は、それを少しでも解消したくて、彼女のことを知っている浩二に、それまで誰にも打ち明けたことのなかった話をしたのに。浩二は、このノーテン気な親友は、あっさりと人の傷口をえぐってくれた。しかも、あまつさえその傷口に、粗塩でもなすり付けるようなことを言ってのける。

 僕の心は、飽和状態を通り越して、破裂してしまったような感じがしている。

 それでも浩二はきっと慰めているつもりなのだろうけれど、僕には、ボディブローにしか感じられない。

 二つ目の理由は、悩み本体にある。

 実は、今日が三つ目の大学の合格発表の日なのだ。


「受かってなきゃ、俺と一緒に予備校生になるってだけだろ」


 簡単に言ってくれる。

 僕は、浪人したくないんだ。……その…出来ればの話だけど……。

 僕がモジモジしていると、浩二はすっくりと立ち上がり、モコモコの襟のついたジャンパーをはおる。


「んじゃ、そろそろ行こうぜ」


「え?」


 なんて言ってみる。

 本当は、どこに行こうと言っているのか判っているんだけど、反射半分、気が進まないの半分で、つい出た言葉が「え?」なのだ。


「『え?』じゃねぇだろバカ」


 確かに。


「合格発表に付き合ってもらいたくて、俺を呼んだんじゃねぇのか?」


 そのつもりなんだけど……。


「落ちてんのが怖くて行きたくねぇんだろ」


 僕は、後ろにブラックホールでも背負っているような暗い気持ちになった。


「心配すんな雄太。今時二浪三浪当たり前だ」


 こいつ、もう来年も浪人する気でいるんじゃないだろうな。

 などと思っている僕の手を強引に引っ張って、外へ出ようとする。


「ちょっ、ちょっと待って、服、服」


「服は着てるだろ」


 そでなくて。


「上着のことだよ」


 浩二の手を振り払い、一応、学生服に高校指定のハーフコートをはおると、浩二がいやそうな顔をする。


「なんだよ」


「耽ずかしい」


 どういう意味だ。


「ま、いいか。ホラ、さっさと行くぞ」


「あ、うん」


 田舎モンが都会の大学に行くのは大変です。

 一時間に何本とない電車に乗って、比較的大きな乗り継ぎ駅で乗り換えて、山の手線をぐるりと半周、新宿駅で私鉄に乗り換え最寄りの駅へ、それからまたしばらく歩かなきゃいけないときてる。

 どうせ田舎なら、北海道とか四国とか、思いっきり遠いはうが良かったのに……そうしたら、大学の近くに部屋を借りれば済むもの……受かってからの話だけど。

 道を進むと、あっちこっちの高校のいろいろな制服を着た人々が、喜びや落胆、不安なんかを顔に浮かべて歩いている。

 僕もその一人。

 こともあろうに頭に血が昇ってきたのか、こめかみの辺りの血管がピクピクと脈打つのが感じられて、クラクラする。

 極度に緊張している証拠だ。

 僕の心の心配事に対する許容量は、もう臨界点を辛うじて表面張力で保っているという状態で、これでもし、不合格だなんて事になったら、どうなるのか予想も出来ない。

 我ながらデリケートな精神だと思う。

 原因は、僕自身にあるのは、とっくに判っているのだけれど…体質だからなかなか解消出来ない。

 心配事を雪だるまにして、独りで苦しんでいる。

 情けない。


「情けない」


 浩二の声で我に返ると、そこは目的の大学の正門の前だった。

 どうも、ここで立ち止まったまま、動こうとしていなかったらしい。

 浩二に促されるままに、校門をくぐり、広いキャンパスを縦断して、冬用の制服で黒山の人だかりとなっている合格発表の掲示板の、遥かに、番号なんか確認出来ないところまでは来れた。

 ついにここまで来てしまった。

 と、言う感じ。

 僕のキャパは、もう、針が触れるだけでも溢れ出してしまいそうだ。

 今、すぐにでもこの場所から逃げ出したい。

 限界だ!

 もう駄目だ!

 溢れる!!

 そう思った瞬間だった。

 アスファルトの上の砂を引きずるように、逃げ出す準備で一歩、あとずさったそのときに、僕は、その聞き覚えのある声で呼び止められた。

 それは、今の僕を金縛りにすることの出来た唯一の声。

 そして、僕の許容量を一まわりも二まわりも大きくする声だった。

 そう、


「あれ? 雄太くんじゃない」


 と言った、その声の主こそ、僕のキャパを臨界点にしていた張本人、典子ちゃんだったのだ。


「あれ!?」


 と、声を裏返して言ったのは浩二だった。

 僕はと言えば、声どころか、指一本、瞬き一つ出来ずに立ち尽くしていた。


「浩二くんたちもココ受けたの?」


 涙が出るほど懐かしく、優しく耳に入ってくる声だった。


「いやいや、俺は付き合い。受けたのはこいつだけ」


 そう言って浩二が突き飛ばしくれたおかげで、僕は、やっと金縛りから解放され、身体機能と一緒に、頭の中も目まぐるしく回転し始めた。

 あれ?

 今、雄大くんじゃないって言ったぞ。

 え?

 瞬き一つする間に、なんでもないような一言について何十通りもの解釈が、頭の中に浮かんでは消えて行く。

 そんな急な頭の中とは全く関係なく、外の世界は動いていた。


「へえ、そうなんだ」


 と言う、典子ちゃんの声が、頭に響く。

 僕は、彼女の瞳の少し横の辺りに視線を上げる。

 まともに見ることが、出来ないんだ。

 彼女は、そんな僕には、あまり関心がないのだろうか、普通の、あの頃とほとんど変わらない調子で僕に、この僕に話しかける。


「二人とも合格するといいね」


 って、僕に話しかけてくれたんだよ。

 そして、その一言が、またもや僕の頑の中を8ビットから一気に32ビットの高速処理回線に切り替えさせた。

 そうだよ、同じ大学なんだ!

 二人とも合格したら、同じキャンパスで生活するって事になるんだ。

 この時点で、僕の心配事はキャパの半分以下になった。

 今の僕の心を支配しているのは、心配事や不安の気持ちなんかじゃなく、未来の、楽しい大学生活の想像と、今、この場で、彼女と再会出来た喜びだった。


「ね?」


 そう、それは、僕の返事を求める彼女の声。


「そうだね」


 これが僕の、再会した彼女と最初に交わした言葉。


「ようし、んじゃ雄太、気合入れて掲示板まで出発だ」


 あ、そうか、浩二がいたんだっけ。


「雄太くん、何番?」


「え? 五九五五」


「なんだ、五か九しかねぇのか?」


「う、うん」


「でもいいじゃない『五か九しかない』って、いい語呂合わせだと思わない?」


「思う」


 と、最後に言ったのは、僕じゃなく浩二。

 ったく、調子いいんだから。


「典子ちゃんは?」


「私? 私はね、二八五九番」


「何かいい語呂合わせになんないかな」


 今頃になって語呂合わせもないっての。

 それに、いい語呂なら合格するって訳でもないだろ。

 とか思いながらも必死になって語呂を合わせていたりする僕。


「うーん、私もいろいろ考えてたんだけどね」


 受験生ってのは、みんな一緒なんだなぁ、なんて思っていたその時、なんかこうピーンと来たんだ。


「ね、こんなのどう? 2っこり8らって5か9っての」


「うまい! 座布団一枚!」


 なんだそりゃ?


「本当にそうなったらいいね」


「なるよ、きっと」


 精一杯の僕の言葉。


「うまい! この女泣かせ」


 絶妙の浩二のチャチャ。


「アハハ」


 トドメの笑い。

 ため息をついて、僕は、二千番台から番号を調べ始めた。


「にっこり笑って……」


 ……32・57・58…………


「あった!」


 と、叫んだのは典子ちゃんだった。

 そう、語呂合わせ通り、にっこり笑って彼女は合格した。


「よかったね」


「ありがとう、雄太くんのおかげね」


 語呂合わせの?


「次は、雄太の番だな」


 う……

 僕のほうは、『合格しかない』と言う語呂合わせの通りに、本当になるのだろうか。

五千九百番台に移動した僕は、恐る恐る番号を見ていった。

 03・22・27・42……

 その瞬間、僕の肩からすべての力が抜けた。 まわりの音がすべて消え、視界の中からある一点を残してまわりすべてが、一色に溶け込んでしまった。

 5955

 その番号は、確かにそこに存在していた。


「…………受かった……」


 一言、そう漏らした瞬間に、真っ白だった空間に色が、音が、すべての感覚が戻って来た。


「やったぁ!!」


 二人の声が聞こえた。

 受かった。

 僕は、本当に受かったんだ。






 合格発表の帰り道、僕の心は、再びキャパが狭くなった。

 忙しい奴だと、自分でも思う。

 合格して『また典子ちゃんと同じ学校になった』それがキャパの狭くなった原因だ。

 そう、心が三年前に戻ってしまったのだ、あの日あの時の状態に。


「興奮してたら喉渇いたな」


 何を言ってんだ?


「私も」


「じゃ、喫茶店にでも寄ろうか」


 僕も調子がいい。

 喫茶店に入ると、それぞれに飲み物を注文して、まずは僕と典子ちゃんの合格の興奮から一息ついた。

 もちろん僕は、そんな興奮からはとっくに醒めていて、今は、この想いをどうしようかと思い悩んでいるところ。

 ところが、だ。浩二の奴、自分のジュースが来たとたん、鬼のような形相で一気に飲み干したかと思うと、


「俺、急に用事思い出したんで帰るわ。雄太、合格祝いだ、おごってくれ」


 とか言ってとっとと帰りやがった。

 なんだよ『合格祝いだ、おごってくれ』ってのは。

 二人きりになんかなったら僕は……ああ、無言の間が怖い……何か、何か言わなきゃ……。


「な、何だろうね、急に……変な奴だね……」


 それに対して、彼女は右手で頬づえをつき、浩二の出て行ったドアを見つめたままで、独り言のように僕に言った。


「気を使っているのよ。私が雄太くんのこと好きだったの知っているから」


 え? 聞いてないぞ、その話。


「昔の話なのにね」


「僕は、今でも君のことが好きだよ」


 彼女は、短い驚きの声をあげる。

 それ以上に僕も驚いている。

 ちょうど壁にぶつけたボールが跳ね返ってくるように、こんなに自然に告白出来たなんて、とてもじゃないが信じられない。


「雄太……くん!?」


 その声は、再び僕を不自然なまでに自然の状態に戻した。


「あの……えっと……その…………さ」


 僕は、観念した。


「…………好きだったんだよ。ずっと……君のことが……」


「今もそう想ってる?」


 彼女は、意地悪く聞いてくる。

 僕はもう、言葉を失ってしまっていて、ただただ領くだけだった。


 領くしか、出来なかった。


「……よかった……」


 それが、彼女の……返事だたったらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

習作 短編集 結城慎二 @hTony

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ