3-14:六年
エゼルは無言だった。声も魔法も出さず、唇を引き結ぶ。意を決したように、レアッサが一歩前に進み出る。
『いかがしますか。今なら、復活までに間に合うかと』
『わかってる』
短く応える。イシアの手を握ったまま、エゼルは訊いた。
「薬は?」
「確かイシアが自分で持っていた」
自信なさげなヴァーテの言葉に、エゼルはすぐさまイシアの衣服を探った。そして腰に提げられていた道具袋から薬を取り出す。慎重に封を解き、粉末状の薬を彼女の口元にやる。
だがイシアは細く不規則な息遣いをするばかりで、とても粉末を飲み下す余力はなかった。イシアが持っていた小さな水筒を掴み、エゼルは水と一緒に薬を自らの口に含む。
それから何の
「あ……」
誰かの小さな声。イシアが小さく
「とりあえず落ち着くまで待とう。態勢を立て直した部隊がいずれここに到着するはずだ」
「気分が悪い」
ふと、マクリエが立ち上がり言った。
「見せつけてくれて、どういうつもり」
「何を言っている、マクリエ。非常事態だ」
レアッサが言う。だが彼女とて複雑な表情を隠し切れていなかった。
マクリエは背後を振り返り、至る所に肉塊が残る闘技場を見る。
「この甘ったるい匂いにあやかったつもりか知らないけれど、どういう神経をしているのか」
「やはりお前は身勝手だな! こんなときに何をひがんで――」
「待て、レアッサ」
ゆっくりとイシアを地面に横たえ、水で濡らした布をその額に当てる。
それからエゼルは槍を手に立ち上がった。腕を組み口を尖らせているマクリエに相対する。
しばらく無言の時が流れた。怪訝な表情を浮かべるヴァーテ。イシアを気にするレアッサ。
エゼルは言った。
「イシアにはまだオリズイートの毒が残っている。その上不慣れな魔法の行使まで行ったんだ。体にどんな悪影響が出ていても不思議はない」
「大げさだ、いつもいつも」
「大げさなものか。それだけ懸命だったんだ。そこは認めてやったらどうだ」
「だからと言って口づけが許されるとでも?」
「あれは治療行為だ」
「けれど、死ぬときは死ぬ」
「…………マクリエ?」
ヴァーテが震える声で尋ねる。歩み寄ろうとした彼女を手で制し、エゼルはさらに問いかけた。彼の眉間には深い溝が刻まれていた。
「言いたいことはそれだけか? マクリエ……いや」
マクリエは腕組みを解いた。そして磁器のように白く整った表情を綻ばせて――
「久しぶりだな、エゼアルド。逢いたかったよ」
――笑う。
いつもの悪餓鬼じみた嫌らしい笑みではない。彼女の肢体の美しさをさらに引き立てるような、艶と毒のある微笑みだった。
レアッサとヴァーテが絶句する。
ふふ、とマクリエは声を漏らした。
「エゼアルドよ。お前ともあろう者がこのような雑魚どもを率いてどうする。それどころかどこの馬の骨ともわからぬ女に口づけするとは。私は悲しいぞ」
「リザ」
エゼルのつぶやきにレアッサたちが色めき立った。
次の瞬間、マクリエ――リザは短くつぶやいた。
「――光、捉える――」
たったそれだけ。それだけで詠唱が完成した。
――結界魔法リェドスト。
硝子が割れるような音が響き、不可視の檻がレアッサとイシア、ヴァーテを包む。
魔法に気づいたレアッサはすぐに結界破壊を試みるが、リザのリェドストはわずかに軋みを上げるだけだった。
ヴァーテはその横でただ呆然と佇み、イシアはうっすらと目を開けエゼルの後ろ姿を見ていた。
彼女らのことなどまるで眼中にないかのように、リザは片眉をひそめながら己の手を見た。さらに回復魔法を脚に施し、塞がった傷跡を観察しながら首を捻る。
「さすがに万全の力は出ない、か」
定型句なし、単語のみ、加えて万全でない体調下での魔法で、この威力。エゼルは確信せざるを得なかった。
「やめるんだ、リザ。彼女らを解放しろ」
「断る」
即答する。それから何かを口ずさんだ。
硝子の音が断続的に響いて、結界魔法がさらに強固となる。透明だった魔法壁が漆黒に染まり、姿ばかりでなく声すらも完全に遮断される。レアッサたちは完全に閉じ込められてしまった。
「さて。これで話ができるな」
まったく緊張感を感じさせない声音で言い、リザが近づいてくる。
二人の距離があと一歩というところまで接近し、彼女はその細い指でエゼルの頬を撫でた。
エゼルは瞑目し、静かにリザの手を押しのけた。
リザが目元を緩めながら口を尖らせる。
「相変わらずつれない態度だ、エゼアルド」
「今はもうエゼアルドではない。私の名はエゼルだ」
「私の中のお前はエゼアルドだよ。それは永遠に変わらないさ」
そう言うとリザはエゼルの傍らにしゃがんだ。半壊した観客席のひとつに腰を下ろす。
エゼルは立ったまま、ちらりとイシアたちを振り返る。
すかさずリザが告げた。
「心配するな。すぐにどうこうするつもりはない。騒がれたら邪魔なだけだし、せっかくお前とふたりで話す時間に他の女は不要だ」
膝の上で頬杖をつき、エゼルを見上げてくる。彼女は穏やかに微笑んでいたが、その眼光は相手の胸中を探るような鋭さに満ちていた。
「六年」と、不意にリザは言った。
「私と離ればなれになったお前が、晶籍を失った状態で過ごした時間だ。どうだ? 私の理想が正しいと、お前も実感できたのではないか?」
エゼルが黙っていると、彼女はさらに言い募った。
「この世に晶籍など不要。流輪も必要ない。我らは我らで生きていける。今のお前なら十分に理解できるはずだ。エゼアルド。お前は、どう考えている」
無言がしばらく続いた。
リザから視線を外したエゼルは、闘技場の壁を見つめながらリザの言葉を噛みしめる。
通風口からの風の音、そして、槍の穂先からわずかに滴り落ちた血の音が二人の間の緊張感を浮き上がらせる。
やがて、エゼルは短く頷いた。
「お前が言うことは、確かに、正しい。人は晶籍がなくても生きていけるし、生きていけるような世になるべきだ」
「ならば私とともに来い、エゼアルド」
勢い良く立ち上がり、リザが詰め寄る。艶やかな髪の先がエゼルの体をかすめた。
「私にはお前が必要だ」
「……お前の気持ちは理解できる。だが、六年前にお前と戦い、この手でお前の体を貫いたときの私の想いは、今も変わっていない」
静かに、言葉を選んだ。形の良い眉が急角度を描くリザの顔を、真正面から見つめ返した。
怒りの言葉を口にするかと思われたリザは、ふと肩の力を抜き、一歩下がった。
「相変わらず頭の固い男だ。やはり説得でどうこうしようと考えるべきではなかったかな。六年も経てば、お前も少しはまともになると思っていたが、なかなか上手くいかんな」
「リザ……!」
「お前は私の信念を知っている。この世で唯一、私が自ら望んで晶籍を取り込んだ相手がお前だ、エゼアルド。だからこそ、私はお前を手に入れるまで前に進むつもりはない」
信念――晶籍を厭い、流輪を厭い、そしてそれらに縛られる人間を厭う。すべての根底に『拒絶』があることを、彼女と最も近しい立場にいたエゼルは知っていた。
だからこそエゼルとリザは敵対し、そして六年前のあの日を迎えたのだ。
彼女の想いは、あの日からまったく変わっていない。
変わっているとするならば、それは――
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