3-13:古代禁呪

 黒ずくめの顔が赤褐色に歪んだ。エゼルの名を怒声とともに叫び、手に持った晶籍をさらに高々と掲げた。



 だが次の瞬間、エゼルは手にした槍を投擲とうてきする。



 激昂して冷静な見極めができなくなっていた黒ずくめは、槍の穂先を腹に受ける。だがこれだけ強烈な一撃を受けても黒ずくめは体を折り曲げるだけでその場から動かない。



 咄嗟とっさに身体強化魔法を使って即死だけは免れたのだ。



 口から血を流しながらも黒ずくめはわらった。血に濡れた手をヴァーテに向け、運命の詠唱を口にする。



「――汝のなみだを我に捧げ 我が心音に平伏せよ――!」



 頭上の光塊こうかいが反応を示す。身じろぎするようにうごめくと、次の瞬間、まるで自由落下する巨岩のようにヴァーテ目がけて襲いかかった。



 震える彼女は、為す術もなく飲み込まれる。地面に激突した光塊は水風船のように弾け、再び幾筋もの光奔流こうほんりゅうとなって空中を彷徨さまよいだす。



 ――奇妙な沈黙が訪れた。



 体をかき抱き、その場にうずくまっていたヴァーテがゆっくりと立ち上がる。



 彼女は自らを抱いていた手をゆっくりと眼前に掲げ、揺れる瞳で、しかしどこか不思議そうに握ったり開いたりする。



 そして隣に立つ黒ずくめを見て、一歩、二歩と下がった。



「ヴァーテ」



 エゼルの呼びかけにヴァーテは振り返る。エゼルは彼女の側に駆け寄り、その身体を抱いて黒ずくめから距離を取った。



 壁際に落ち着いたエゼルに、ヴァーテは少しだけ身を寄せた。そしてはっきりと彼の名前を口にする。



「エゼル」


「よく頑張ったな。偉いぞ」


「ごめん、なさい」



 小声でつぶやく彼女の頭をエゼルはゆっくりと撫でた。



「なぜだ」



 喜色を貼り付けた表情のまま、黒ずくめが愕然がくぜんとつぶやいた。体が震え、顎先に滴る血が地面に落ちる。



「詠唱も、晶籍も、器も、完璧だったはず……なのに、なぜ。なぜリザ様は復活なさらない」



 喜色が、次第に怒りへと変化していく。



 開ききった目、震える口、葉脈のように浮き出た血管が、黒ずくめの顔貌がんぼうを名状しがたい人外のそれに見せる。彼は、えた。



「なぜだ。なぜだ、なぜだなぜだ! 答えろ……答えろエゼアルドォッ!」



 怯えたヴァーテがエゼルにしがみつく。彼女の肩に腕を回しながら、エゼルは冷淡に言い放つ。「見ての通りだ」と。



「貴様の儀式とやらは失敗した。いや、もともと成功するはずのない妄想の類だったと言うべきだったんだ」


「な……に……」


「貴様が頼ったリザの晶籍。そこに在るのは彼女の抜け殻に過ぎない。それでも晶籍が色を失わず、あまつさえ貴様がジェノオスの魔法を引き出せたのは、おそらく――」



 あの三人の中に本物のリザがいるせいだろう――その台詞を腹の底に飲み込んで、エゼルは右手を天に向けた。彼の周囲にジェノオスとは別の、蒼い魔法の光が舞い始める。



「その力も、意志も。所詮はまがい物だったということを、己が目で確かめるがいい!」



 エゼルは高らかに詠唱した。



「――汝の泪を我に捧げ 我が心音に平伏せよ――」



 黒ずくめが目を剥く。彼だけではない。傍らのヴァーテも大きく瞠目する。



 エゼルの掌の先で蒼い光が円盤を形作り、渦を巻く。それは急激に大きさを増していく。



「知っているか? ジュノオスと同時期に編み出されたもうひとつの古代禁呪を。リザにしてやられた私が、まさかあいつと同じ詠唱句を口にするなんて皮肉なものだよ」


「ま……さか……」



 顔面蒼白になる黒ずくめを前にして、エゼルの顔に笑みはない。



 ――それは自軍に向けて采配を振るう王のように。



 エゼルが掌を前に突きだした瞬間、蒼の円光は爆発的な輝きを放った。轟音が満ちる。



 闘技場内は瞬く間に蒼一色に染め上げられ、中空を漂っていた晶籍の光の帯が動きを止める。



 直後、まるで大河に沈めた布切れのように、晶籍の光帯は蒼の円光に向けて流れ込んでいく。



 エゼルを除く全員が、その光景をただただ呆然と眺めていた。



 やがて耳をつんざいていた音は薄れ、青の輝きは弱まり、水が引くように消えていった。



 もはや動く者はいない。



 明るさと静寂を取り戻した闘技場内に、重く湿った音が響く。黒ずくめの吐いた血が地面を濡らしたのだ。槍を腹に抱いた彼は、途切れ途切れに苦悶の声を上げた。



「ヴァ……ヴァバ、ォス……」


「そうだ」



 黒ずくめに歩み寄りながらエゼルが言う。



「ヴァバノス――『封印』の魔法。これが私のだ。リザの紛い物などに好きにさせるわけにはいかない」



 黒ずくめは呪詛を吐こうとして顔を上げたが、そのまま力尽きたように膝を突いた。エゼルが槍を引き抜くと、前のめりにたおれ伏す。



「リザ……様……」



 そうつぶやいたきり、彼は動かなくなった。



 エゼルは黒ずくめが持っていたリザの晶籍を手に取る。



 封印の魔法を受けたためか、その表面にはゆっくりと白の色が広がりつつあった。まるで海水が蒸発し、砂の大地に塩を付けるように。



 もう、この晶籍が力を発揮することはないだろう。



 リザの晶籍を懐に入れたエゼルは、地面に広がっていく生温かい血を踏みしめながら、黒ずくめの体を無感動に調べ始めた。この男が他にリザにまつわる品を隠し持っていないとも限らない。



 しばらくして、背後で結界魔法が解ける音がした。覚束おぼつかない足取りながらレアッサが近づき、エゼル様、と呼ぶ。振り返らずに応えた。



「レアッサ、お前はイシアの様子を」


「申し訳ありません。その彼女の容態が……」



 立ち上がる。見ればイシアは地面に横たわり、その傍らに、まだ脚の傷が癒えないマクリエが膝をついていた。



 レアッサ、ヴァーテと共に駆け寄り、イシアの手を握る。肌は熱く、じっとりと汗を含んでいた。彼女は時折呻き声を上げ、何かに耐えるように身をよじる。



「ジェノオス発動の際の光に触れてから、急速に症状が悪化しているのです」


「……なんだと?」


「因果関係は定かではありませんが、もしかしたら」



 レアッサは口をつぐむ。声にすることが憚られるのか、エゼルに思念魔法イシャデを飛ばしてきた。



『晶籍は持ち主の魂の一部とも言われるもの。もしあの男が放ったジェノオスがリザの魂から生まれ、その光を受けて体に変化が起こったのなら……エゼル様が最も懸念された事態になる可能性があります』


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