3-9:戦闘、開始
――ヴァーテは、『ここ』に来るまでの道のりをぼんやりと思い返していた。
ポルト・デカの地下埋葬墓と呼ばれる、呪われた洞窟の中。
洞窟を降りる階段は
入口付近の天井は低く、岩肌は
奥に進むにつれ湿気と冷気が増し、壁面は無機質な鉄色を帯びるようになる。
どこからか吹きこんで来る風が、古びた松明の火を大きく揺らしていた。
複雑に入り組んだ洞窟だった。
奥に進むと二十坪(約六十六平方メートル)ほどの歪な形の浅池があって、そこから複数の道が口を開けていた。その内のひとつを、背中に水音を聞きながらひたすら歩いた。大人一人がやっと通れるほどの狭い道を抜けると、また池があって道が分岐した。
その繰り返しだった。
臭いがとにかくひどかった。
岩や水、あとはわずかな苔類の他に、地面には真新しい死体がいくつも転がり、吐き気を催しそうな強い臭気を放っていた。
たとえ死体のない場所に行き着いても、まるで岩石そのものに幾重も腐臭を塗りつけ染み込ませてあるかのように臭いは消えなかった。
半ば腕を引っ張られるようにして洞窟を進む間、ヴァーテは周囲の光景ばかりに目を向けていた。
移動するたびに複雑に変化する無機質な岩を見ていた間は、それがどんなに不気味で恐ろしいものであっても自分の気を紛らわせる役に立ったからだ。
恐怖、嫌悪、不安。歩いているときは無視できたそれらの感情が、『ここ』にたどり着いた今、一気に襲いかかってくる。
ヴァーテは壁際に座り込み体を丸めていた。
――『ここ』は、一千人は収容できるかという巨大な闘技場だった。
すり鉢状に岩を削った観客席、その一番底の部分には戦いの舞台となる円形の広場がある。
観客席と広場とを隔てるものはなく、闘技者が派手な立ち回りをすればすぐに観客を巻き込む危険な造りになっていた。
円周上には等間隔に松明が置かれ、十間(約十八メートル)は高さのある壁にもまた、灯りが設えられていた。
ところどころに空けられた空気穴から、壊れた笛のような音が小さく響いてくる。
唯一の出入り口には人が群がっていた。少し前から、その数は爆発的に増え始めている。
軽く見渡すだけでもすでに六百人を越える人の群れが集合し、各々武器を掲げてひしめき合っていた。年齢、男女の別、どれも判然としない。
なぜなら、彼らのほとんどは人としての原形を留めていなかったからだ。
首を
彼らの視線は何も捉えていない。彼らの喉は、声を出せていない。すでに視力を失い、声帯が潰れている者たちがほとんどなのであろう。
観客席の最上段で、ヴァーテは膝に顔を埋めた。
「これ、知ってる」
誰にも聞こえないほどのつぶやき。
目を逸らしながらも、頭の中ではずっと、闘技場に集った群衆のことを考えていた。
ヴァーテは知っていた。彼らがすでに息絶えた人間であること。禁忌の魔法によって傀儡に仕立て上げられた、『月環の旗』の騎士たちであることを。
「知ってる。けれど、思い出したくなかった……!」
「逃げた鼠らしい、卑屈な物言いだな」
冷徹な声とともに、ヴァーテの眼前に剣身が突きつけられる。彼女の傍らに一人、全身を黒の衣服で覆った男が立っていた。
「すでに我らの同志は崇高な目的のために命を捧げた。あの御方の尖兵となり、
剣が引かれる。
「もはや退くことはまかりならん。今日この日にすべてを決める。貴様もそのつもりでいろ。我らと再び相見え、そして選ばれた幸運に感謝するが良い。聖句を唱え、あの御方に捧げよ」
命令されるが、ヴァーテは全身を硬直させたまま動けなかった。それを無言の抵抗と見た黒ずくめに横面を蹴り飛ばされる。側頭部を激しく地面に叩き付けられ、ヴァーテの脳裏に火花が散った。
男はそれ以上何も言わず、ゆったりとした足取りでどこかへ歩き去っていった。
痛みでいくぶん軟らかくなった口で、彼女は男が聖句と呼ぶ詠唱文を唱える。
「汝の……に捧げ、我が心……に平……せよ」
――私は一体、何をしているのだろう。
詠唱として用を為さないほどぶつ切れになった言葉をつぶやきながら、ヴァーテは思った。思考が溶けた飴のように形を失う。
きっかけは単なる偶然だったはずだ。たまたま飲み物を取りに出かけ、それでたまたま一人になり、そこでたまたま出くわした組織の一味に目を付けられ――
本当にそうか?
この現実は本当に偶然の産物なのか?
ヴァーテは知っている。そう知っているのだ。
自分を連れ去った者が何者なのか。
群衆がどうやって死地から蘇り、何のためにこの場所に集められたのか。
そもそもこの闘技場が造られた目的は何か。
そして自分はなぜ彼らに
自分は何者なのか。
すべて知っているし、今、ここに来ることで思い知らされた。
この闘技場も、ここに集う群衆も、そしてこの戦いすらも、すべてたった一人のためにある。僭王と蔑まれながらも究極の理想を求め続け、その肉体が朽ち果てた後も大きな『遺産』を残した、先代国王リザのために。
「汝の……捧げ……っ、……平伏……ううっ」
けれど私は、本当に、何をしているのだろう!
「……悔しい」
この悔しさから逃れるために、五年間、ずっと忘れようとしてきたというのに。
思いは涙となり、言葉となり、ヴァーテの中から溢れた。
「私は――代わりじゃない!」
『ああ。その通りだ』
突然脳裏に響いた声にヴァーテは
直後、頭の
硬直した体を苦労して動かし、振り返った先で、空間が揺らめいた。やがて揺らめきは人の形を作り、見慣れた青年の姿となった。
「エゼ、ル」
「すまん。遅くなった」
エゼルはヴァーテに身を寄せるように
いつの間にか体が動くようになっていた。立ち上がり、気まずそうにエゼルを見る。エゼルもまた彼女に合わせて立ち上がった。
「あの。皆は」
「皆無事だ。じきにここに来る」
「そう……」
「ヴァーテ。ひとつ聞く」
エゼルがこちらを見つめた。
「その頬の
ヴァーテは黙った。そして彼女には珍しい皮肉に満ちた笑みを浮かべる。
「気にしないで。これは罰だから」
「……外に出るぞ。お前を、こんなところに居させられない」
エゼルが差し出してきた手を、ヴァーテは静かに払った。笑みを浮かべようとしたが、泣き笑いの顔にしかならなかった。
「そんなの、駄目に決まってる。駄目なの。見たでしょう? あいつらはもう人間じゃない。でも私はここにいなきゃいけない。逆らえないの。代わりなの」
自分でも何を口走っているのかわからない。頭の中がくらくらして、息が苦しくて、今にも倒れそうになって、終わるなら早く終わってくれと強く願って――
おもむろに、エゼルが巨大槍を頭上に掲げた。そのまま一回転、二回転と動かし、流れる動作で正眼に構えた。その穂先は群衆に向けられている。
「ならば奴らを打ち破ることができれば、お前は憂いなく逃げられるということか」
下僕の言葉にヴァーテはかすかに眉をひそめた。
「まさか、ひとりであの中に突っ込む気?」
「脱出路の確保は必要だろう。たかだか数百人程度だ、何とかする」
空耳かと思った。だがエゼルの表情は冗談を言う時のものではない。
「死亡と同時に連鎖反応で伝播する禁呪の力。天煌月だからこそ可能な、リザの奴が忌み嫌ったやり方だ」
「! エゼル、この力を知って」
「ああ。だからこそ放っておけない。お前が奴らの呪縛に苦しむ姿を黙って見ているわけにはいかないんだ」
ヴァーテは不安を顔全体に表し、群衆を見遣る。
「無茶……。こんな人数……それに、あの中には……!?」
ひっ、とヴァーテは息を呑む。
群衆たちがこちらを見ていた。気づかれたのだ。闘技場の舞台から観客席へ、ヴァーテたちの元へ、数百人の化物たちが緩慢な動きで押し寄せてくる。
「出入り口までの道が見えたら、すぐに走れ。僕のことは気にするな」
「……エゼル、正気……?」
「いつもの精神状態という意味でなら、あいにく正気ではないな」
ちらと背後の壁面を見上げるエゼル。彼の視線を追ったヴァーテは一瞬心臓が止まりそうになった。
壁面にくり抜かれた細長い穴、そこからマクリエ、イシア、レアッサの顔が見えたのだ。
出口は一つしかないが、通風口から入ることは可能だったことにヴァーテはこの時初めて気づいた。
彼女らはレアッサの身体強化魔法を受けて、高い位置から飛び降りてくる。観客席に着地するなり、「ヴァーテ!」と涙を見せながらマクリエが叫ぶ。
来ないで。そう声を上げようとしたとき。
「大丈夫だ」
二回、軽く頭を叩かれた。それから頬を撫でる風を感じる。
気がつけばエゼルの姿は
エゼルが
圧倒的な声量で、六百人からなる武装集団の威圧を噛み砕き千々に粉砕する。
この瞬間、群衆だけでなくヴァーテたちも完全に、骨の髄まで完璧に、エゼルの
――戦闘が、始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます