3-4:もし天煌月が来たら。もし――

「何か、本隊から指示はありましたか?」


「ないようです。ただ、先ほどギアシ隊の中では内々に通達がありました。刻消えの時まで待機。日付が変わった後、合図があり次第、夜陰に乗じて突撃を敢行すると」



 エゼルは微かに眉をしかめた。カラヴァンの意図を察したからだ。



 司令にとっての成功は、ここに集ったどの部隊よりも大きな成果を上げ、ギアシの力を誇示することにある。下手に動けば他部隊を刺激し、たちまち乱戦になってしまうだろう。



 ゆえに一番望ましいことは、ギアシだけで突撃し、である。



 ギアシが動けばエゼルも反応せざるを得ない。カラヴァンはそれを見越した上で、いつ動くかを見極めていたのだ。



 彼が出した結論は夜の行軍、それも完月で流輪の輝きがほとんどない中での強襲だ。これでは他の部隊は動けない――



 ふとエゼルの脳裏を、ある不安が過ぎった。



「スウス殿。そういえば今日は何日でしたか」


「え? えーっと、あれから経った日付を考えると……あ」



 額に指を立て考え込んでいたスウスは、何かに思い当たって顔を綻ばせた。



「そうか。だから日付が変わるまで待てという指示なんだ。エゼルさん、すごいです。今日は完月七〇日、一年の最終日ですよ。そして明日はついげつ一日。この大きな任務を年明けと同時に行えるなんてびっくりですね」



 必ず成功させましょうと爽やかに言うスウス少年。だがエゼルはにこりともしなかった。



「もう一日あるかもしれませんよ」


「もう一日って、ああ。天煌月のことですか? でもさすがにそこまで都合良くはいかないでしょう。ここ五年間、訪れていないのですから」



 年若い彼にとって天煌月は馴染み薄いものなのか、苦笑いひとつでスウスは済ませた。



 エゼルの頬に一筋の汗が流れる。



「出かけます。後はよろしく。スウス殿」


「ええっ? こ、こんな時間にどちらへ?」


「必ず戻ります」



 それだけを伝え、エゼルは素早く精神を集中した。



「――反転する血肉、水流の樹々、我が爪を成してここに告げる、吐息せよ世界――」



 定型句にない詠唱にスウスが目を丸くする中、エゼルの体が突然透明になった。わずかに感じ取れるのは空気の揺らめきのみとなる。



 隠密移動魔法マソルタ――気配を消す、姿を消す、足音を消すという効果を同時に発揮する、空と水の複合属性魔法。見破ることも、そして習得することも困難とされる非常に高度な魔法だ。



「隠密の魔法は苦手って前に……あの、エゼルさん!?」



 スウスが戸惑いの声を上げたときにはもう、エゼルはその場を後にしていた。



 周囲の景色がうねるように過ぎ去っていく。足音を出さずに走ることは、まるで霧の上を踏みしめるように不安な気持ちにさせる。



 やがて朽ち果てた民家が数軒、見えてくる。ポルト・デカに入ったのだ。



 周囲を警戒しながら歩を進めたエゼルは、ふと足を止めた。



 手をかざす。指先が何かに反応し、紫電が散った。



 ――結界魔法、か。隠密移動魔法マソルタを感知するなんて大した精度だ。



 暗闇に目を慣らす時間も惜しいとばかり、エゼルは身体強化魔法で自らの視力を上げた。廃村の様子を観察する。



 周囲に敵の姿はない。廃屋にも人が隠れている気配はなかった。



 ここからでは地下闘技場に続く洞窟の入口は見えない。探索するためには結界の中を突っ切らなければならないようだ。ならばと体を巡る魔法力を集め、ランヴォフォーネの詠唱に入りかけたエゼルは、そこでようやく自分の精神状態に気づく。



「何を焦っているのだ、私は」



 詠唱を中断し、集中を解いた。掌で魔法力が霧散する。



 深呼吸を三回繰り返し、エゼルは北の空を見上げた。月環はほとんど消えかけ、頂点がわずかに点として見える程度になっていた。



 日付が変わるまでもういくばくもなく、闇は普段よりずっと深い。



 今日は完月の最終日。



 あの月環がすべて消えても刻が現れなかった場合、それは五年ぶりに天煌月が訪れたことを意味する。自分と、そしてリザが生まれた日だ。



 三乙女の誰かの姿を借り、何食わぬ顔でリザが自分の名を呼ぶ姿が脳裏に浮かぶ。



 そこでエゼルは、自らが抱える矛盾に改めて思い至った。



 僭王リザの後継者を見出し、復活の道を閉ざす。そのためにマクリエたちと共にいる。



 だが同時に、彼女らが明るい未来を歩めるように腐心している自分がいる。



 もし、仮に、万が一、リザが復活してしまったら。



 マクリエ、イシア、ヴァーテの誰かが僭王リザの後継者としてエゼルの前に立ち塞がったとしたら。



 自分は躊躇なく、を打つことができるのか。



 『その瞬間』を想像しながら自分の心に問いかける。だが答えを探り当てる前に、エゼルは強引に思考を切り替えようとした。



 ――今は、いかにして犠牲を抑えるかが先だ。カラヴァンの部隊を先に行かせてはいけない。独断専行すべきだ。しかし、本当にそれでいいのか? ここはカラヴァンの策謀に敢えて乗り、できるだけ多くの人員を持って攻勢をかけた方がむしろ安全ではないのか。いや、相手には隠密移動魔法マソルタを看破するほどの実力者がいる。それは無視できない……。



「くそ。考えがまとまらない」



 いつもなら決断できることが、できない。



 汗が浮かび、マソルタの魔法が不安定に揺らぐ。朽ち果てた民家の壁を睨みつつ、エゼルは小さく唇を噛んだ。



 自らの鼓動がやけにはっきりと聞こえてくる。



 エゼルにはそれが、この先の闘争に対する強い警告に思えてならなかった。



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