五行詩


 ザヤへと戻る帰路の旅は順調に続いた。

 天気に恵まれ、襲撃はおろか、これといった不測の事態も起きていない。

 きにリンボクが熱を出した時に世話になった、あの老夫婦の家に帰りでも泊めてもらい歓待を受けた。

 乾いた草原ステップでは狼の遠吠えに遭遇することもなく無事に通過する。

 日ごとにその巨大な雄姿が迫ってくる北嶺山脈を見て、リンボクは嬉しそうに微笑んでいる。やはり生まれ育った故郷はかけがえのないものなのだろう。

 そしてアゼルたちは麓の遊牧民の村に到着した。

 今回は往きの時とは違う村人が最初に声をかけてきてくれたので、そこに世話になった。

 翌朝、薪をわけてもらって準備を整え、いよいよ北嶺山脈を登り始める。

 緩やかだが確かな傾斜がここからは山だということを感じさせ、日陰や吹き溜まりに雪を見かけるようになった頃、前方に長毛馬に騎乗した男の姿が見えた。

 その男はアゼルたちを待つようにこちらを見ている。

 アゼルにはそれが誰だかすぐにわかった。

 後ろに続く二人もその男に気がつき、リンボクは小さく驚きの声をあげる。

 アゼルは馬の歩調を変えずゆっくりと近づいていった。

 傍まで行くと男のほうから声をかけてくる。

「なんてつらをしているんだ、アゼル」

 そう言われてアゼルは思う。自分は今、どんな表情をしているのだろうと。

 男はジェヤンだった。

 リンボクの顔には戸惑いと、完全には隠すこととできない怯えがあり、レシアはつとめて感情を表に出さないようにしていた。

 ジェヤンの隣で長毛馬を止めてもアゼルは口を開かなかった。代わりにレシアが尋ねる。

「なぜおまえがここにいる?」

 ジェヤンは軽く笑う。

「ただ俺は北嶺山脈を越えたいだけだ。ひとりだと不安だから誰か来ないか待っていた、そこにおまえたちが来たから同行したいと申し出ている。もちろん食糧をはじめ自分の世話は自分でする」

「サルラン峠には白梟シロフクロウとかいう野盗がいて危険だと言ったのは、どこのどいつだか忘れたのか?」

「忘れちゃいない。心配しなくても恩に着せたりはしないし、ましてや護衛料をよこせなんて言うつもりはない。これは――俺のけじめみたいなもんだ」

 つまりジェヤンはアゼルたちといっしょに、サルラン峠の脅威に立ち向かうつもりらしい。自身にはなんの得もないのにだ。

「……本当にそれでいいんですか?」

 この場でジェヤンに会ってから、初めてアゼルが口を開いた。

 ジェヤンは自嘲の笑みを浮かべる。

「ヤイツクの時とは立場が逆だな。あの時おまえは何と言ったか……。まあなんでもいいさ、とにかく俺はそう決めた」

 アゼルは確認するように、リンボクとレシアを見る。

 二人としては特に異論はなかった。

 確かに意見の対立は度々あった。だがそれが護衛士の立場としては当然の考えだということは理解している。またジェヤンが腕の立つ護衛士だということもアゼルとの会話でなんとなくわかる。

 サルラン峠を越えるのに頼りになるのはたしかだろう。

 こうして一行にジェヤンが加わることになった。



 道中でジェヤンはアゼルたちと交代しながら率先して先頭を引いた。

 往きの時よりも積雪は増していたから、長毛馬の負担を分散できることは助かることだった。

 野営時には最初に言った通り、食事も寝床も自分で用意してアゼルたちに負担をかけさせるようなことはしない。

 アゼルの作った溝を利用した暖房付きの天幕には驚いたようで「これなら嬢ちゃんでもぐっすり眠れるわけだ」としきりに感心していた。

 そして北嶺山脈を登り始めて二日目の夜を迎えた。

 いよいよ明日はサルラン峠を越える日である。

 山に入ってからは一時も警戒を怠ることなく進んでいたが、ここまでのところ危険な兆候はなかった。

 やはり脅威は峠にあるのだろう。全員がそう思っているのか、野営時に食事をしていても口数が少ない。

 その夜は満月だった。

 雲もなく月明りが雪に映え眩しいくらいである。

 するとアゼルが月を見上げ口を開いた。


「يرجى الاستماع بهدوء.

 الرقم الحقيقي للعدو هو هذا الرجل. 

 لا تكون معروفة من قبل الأعداء. 

 كما أغريه في الفخ ، أطلب لبقية.

 أنا أؤمن بـ ريشيا.」


 他の三人はアゼルの突然の行動に戸惑いをみせる。

「なんだ今のは。アストリア語のようだが」

「ええ、アストリアの五行詩です」

 ジェヤンの疑問にアゼルは照れたようにこたえた。

「おまえアストリア語が話せるのか?」

「いえ、これしか知りません。アストリアの隊商の護衛をした時に教えて貰ったんですよ」

「ねえ、どういう意味? 最後にレシアって聞こえたけど」

 リンボクが興味津々といった様子で身を乗り出す。

「恋歌だよ。最後にはそれぞれの想い人の名前をあてはめるんだ」

「えっ、それって――」

 リンボクの顔が一瞬で赤く染まるのに、アゼルはからかうように笑いかける。

「この場に女性は二人しかいないからレシアの名前を言っただけだが。それともリンボクが呼ばれたかったか?」

 それを聞いてリンボクの顔がさらに赤くなる。

「アゼルふざけないでよ」

 そう言いながら殴ろうとするのをアゼルは軽くかわした。

「おまえはなにをくだらないことを言っているんだ」

 レシアが呆れたような表情でアゼルを睨んだ。

「レシアは俺の告白が信じられないのか?」

 二人の視線が絡み合う。

「わかった、わかった、信じてやる。だから片付けてさっさと寝るぞ、明日は峠越えなんだ」

 レシアは肩をすくめると、お茶を飲み干して腰を上げる。

 アゼルも焚き火の始末のために立ち上がった。



 次の日は、あいにくの空模様だった。

 昨晩は綺麗に晴れていた空が、今では雲に覆われている。大雪を降らせる黒雲でないのがせめてもの救いだろう。

 サルラン峠にさしかかる頃には細かな雪がちらつきはじめていた。

 アゼルたち一行は峠の登り口で長毛馬を止める。

 あたりの様子を探ってみるが何も感じられない。

 あのなにかがいる気配もなかった。

 四人は無言で佇む。

「――どうする?」

 最初に口を開いたのはジェヤンだった。

 だがアゼルは返事をせず、ただ峠の方をじっと見つめている。

「まあ白梟だとしたら何も峠で仕掛けることはないからな、もっと山を下ったところで待ち構えているのかもしれん。はぐれ獅子だったか、その類いのヤツなら単にどこかに行っちまったのかもな」

 ジェヤンの言葉を聞いても、アゼルは何も言わず身じろぎもしなかった。

 しばらく沈黙がつづき、ジェヤンが再び口を開こうとした時、アゼルが長毛馬から降りた。

「俺が一人で様子を見に行きます。みんなはここで待っていてくれ」

「俺もいっしょに行くか?」

「いや、ジェヤンはここに残っていて下さい。ただ人数が別れたのを好機とみてそっちを襲うかもしれない。三人も下馬して備えておいて欲しい」

「それは構わないが。おまえはなにかが襲ってくると思っているのか?」

「わかりません」

 三人が下馬するのを待ってアゼルは峠へと向かって歩き出した。

「アゼル気をつけて」

 リンボクの声に振り返ると小さく頷く。

 そこでアゼルはレシアを見た。

「レシア、頼む」

「わかった」

 アゼルは再び前を向くと雪を踏み分けながら進みだした。



 峠へと進んでいくアゼルを見て、リンボクは胸騒ぎを覚えた。

 あまりにも無警戒なのだ。

 その歩みは無造作どころか投げ遣りにすら感じられる。

 往きの同じ状況だった時には一歩一歩が慎重で、素人のリンボクにもはっきりとわかる緊張感があった。それが今はない。

 どういうことだろう。

 レシアに聞こうと思って振り向こうとしたが、いつの間にかレシアは後ろではなく隣にいた。

 ジェヤンとリンボクの間に割って入るような位置で、なんでそんな狭いところに来たんだろうと疑問に思い、レシアを見上げる。

 そこでリンボクは固まった。

 アゼルからは感じられない緊張感がレシアからはするのだ。表情も明らかに硬い。

 それだけではない。レシアはマントの前を外して剣をいつでも抜けるようにしている。

 そして頭には帽子がなかった。

 その帽子のことはリンボクも知っていた。ザヤの街で買ったもので、本人は否定しているがレシアのお気に入りらしい。それが証拠にいつでも被っている。

 ただ耳当てが下がると音が聞こえにくいし、激しく動くと帽子がずり落ちてくるのが不便だと漏らしていた。本来は男物らしいので少し大きいのだろう。

 その帽子を今レシアは脱いでいて、赤銅色の短い髪が風になびいていた。

 どういうことだろうと、リンボクは再び疑問に思う。

 先程アゼルが言っていたように敵はこちらを襲ってくるのだろうか。

 レシアには声をかけづらくなって、リンボクはジェヤンを見た。

 ジェヤンはレシアを間に挟むような形で斜め前方にいるので、その表情は見えない。

 ただレシアもジェヤンも同じようにアゼルのことだけを見ている。

 まるで意識してお互いのことを無視しているように感じられた。

 ジェヤンがその沈黙を破った。

「――そうか気がついていたか」

 感情のこもっていない声だった。

「アゼルが気がつくのはなんとなくわかる。だが女、おまえはなんで気づけた?」

 ジェヤンは前を向いたままだ。

 その問い掛けは明らかにレシアに対してのものだったが返事はない。

「だんまりか。それとも怖気づいて口もきけないのか」

 ジェヤンは振り向いて薄く笑う。

 あからさまな挑発には乗らず、レシアはジェヤンを静かに見る。アゼルが行ってから初めて二人の目が合った。

「この三日ずっと引っ付いていたからな。そんな会話があれば俺にも聞こえたはずだが――」

 そこでジェヤンは何かに気づいたように声を出して笑った。

「あの五行詩か。なにが恋歌だ、あの野郎」

 さもおかしいというようにジェヤンは笑い続ける。

 リンボクにはジェヤンが何を言っているのか理解できない。尋ねようとして前へ出ようとすると、レシアの手がそれを押しとどめた。

「わたしからも聞いていいか」

 リンボクを後ろに下がらせるようにしてレシアが口を開く。

「おいおい、俺の質問には答えないくせに、おまえが聞いてくるのかよ」

 ジェヤンは呆れたような顔をしたが、それに構わずレシアが尋ねる。

「なぜあんな面倒なことをした?」

「往きのアレのことか?」

 レシアが頷く。

「脅しだよ。何か得体のしれないモノがいるとだけ気づいてくれりゃよかった。腕の立つ野盗だと思うだろうとは予想していたがな。はぐれ獅子なんてものまで出てくるとは、褒められたようで嬉しかったぜ」

 そこでようやくリンボクにも二人が何を話しているのかがわかった。 

「……レシア、それじゃあ」

「ああ。この男が峠にいたヤツの正体だ」

 リンボクは思わず後ずさる。だが思考が追い付いてこない。いくつもの疑問が頭の中を駆け巡る。だがそれはレシアも同じだった。

「そもそもなんでこんなことをした?」

 襲うのならとっとと襲えばいい、ジェヤンのすることは回りくどく、何が目的なのかわからなかった。

 ジェヤンはそこで笑みを納めてリンボクを見る。

 リンボクは思わずレシアの後ろに隠れてしまった。

「――嬢ちゃんを試したんだよ」

「リンボクを?」

「ああ。早摘みに自分で行くというのはとんでもない話だが、考えてみりゃ何が待ち受けているか知らなきゃ怖がりようがない。だから実際にアゼルのような腕の立つ護衛士ですら対処に困るようなものを演出したんだ」

「引き返させようとしたというわけか」

「あれでおとなしく引き返してくれたら言うことはなかったけどな。まあ勝負は帰りだと思っていた。そのために白梟なんてものまで捏造して迂回させようとしたし、ヤイツクの手前では頭の悪そうな奴らをけしかけた」

「なるほど、あいつらも貴様の仕業か」

「糞の役にも立たなかったけどな」

 ジェヤンが再び笑うのに対して、レシアは困惑の表情を浮かべる。

「ここまで聞いてもよくわからん。貴様は試すと言ったが、いったいリンボクの何を確かめたいんだ?」

「決まっているだろう。自分の我を通すか、護衛士をとるかだ」

 ジェヤンの瞳が暗い色を宿した。

「ヤイツクの宿でも言ったが、身勝手な雇い主のせいで護衛士が犠牲になる。どんなに雇い主のために尽くしてもだ。俺はもうそんなのを見るのは御免なんだよ。だから嬢ちゃんを試した。もし迂回して帰るならそのまま行かせた。だがアゼルを危険に巻き込んでサルラン峠を戻るなら――その代償を払って貰うしかない」

「……なるほどな」

 ジェヤンの考えはレシアには到底納得できるものではない。だが言いたいことはわかった。

「最後にもうひとつだけ聞かせてくれ。なんでここまで待っていた?」

 もっとヤイツクの近くで襲うこともできたはずだ。なぜわざわざ北嶺山脈までついてきたのか。

「……それは俺にもわからん」

 ジェヤンは降ってくる雪を見るように顔を上げる。

「なんとなくここまで来ちまったというのが正直なところだ」 

 この男は迷っていたのだとレシアは思う。そして今でも迷っているのなら先程、口を開くべきではなかったのだ。

 ただ黙ってアゼルが戻ってくるのを待っていればよかったのだ。

 そうすればそのまま何事もなくザヤまで行けたかもしれない。

 だが――もう手遅れだった。

「俺からも質問をいいか」

 ジェヤンは親指で後ろを指すように手をあげる。

「なんでアゼルはあんなことをしている?」

 レシアは峠の中間点に着きそうなアゼルの姿を見た。

「……あいつは馬鹿だからな。ひょっとしたら貴様が改心するかもと今でも思っているのかもしれん」

「嬢ちゃんを放っておく危険を冒してまでか?」

「わたしのことを信じているのだろう」

 それを聞いてジェヤンは興醒めしたような表情を浮かべた。

「随分と信用されているんだな。それとも本当に恋仲にでもなったか?」

 レシアはそれにはこたえなかった。

 あの時の五行詩、アゼルはこう言った。


「落ち着いて聞くんだ。

 敵の正体はこの男だ。

 気づかれないようにしてくれ。

 俺が誘いをかけるから、後の事は頼んだ。

 信じているレシア」


 その信頼には応えなければならない。

「じゃあ俺も最後の質問だ」

 ジェヤンの指の骨が鳴った。その手にはいつの間にか厚手の手袋をしていない。

「おまえで俺に勝てると思っているのか?」

 レシアは曲刀の両手剣シャムシールの柄に手をかける。こちらも薄手の手袋だけだった。

「護衛士の貴様だったらわからなかった。だが野盗に成り下がった今では相手にもならん」

 ジェヤンの口元が醜く歪んだ。



 もう少しで峠の中間点に着く。

 その時――アゼルの遥か後方で剣と剣がぶつかる音が響き渡った。

 アゼルは思わず目を瞑る。

 できることなら聞きたくはなかった音だ。

 一縷の望みに賭けていたのだが、叶わぬ願いだったらしい。

 アゼルは目を開くと来た道を全力で戻り始めた。


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