女同士のひととき
夕陽が
背の高い草が増え、木々が枝を伸ばしているのを見かけるようになる。
このあたりでようやく北嶺山脈からの地下水が地表に現われ、その水によって植物が育つようになるのだ。
そうはいっても緑が一面に広がるということはない。
そもそも中央平原は乾燥して雨が少なく、土壌も痩せていて農耕に適さない土地である。
街に住む商人や職人を例外として、水辺のそばに灌漑用水路を作りそれを頼りに作物を育て、あとは牧畜でそれを補うというのが、中央平原での一般的な人々の暮らしだった。
アゼルたちは麦の種を蒔いてまもない畑を横に見ながら進み、しばらく行くと前方に複数の建物が見えてきた。
それは遊牧民の移動用住居ではなく、日干し
この旅で初めて定住者のいる村に到着したのだ。
この村にも宿はなく、保存食や酒、雑貨などを扱っている店が一軒あるだけだった。
アゼルはその店で今晩泊めてくれそうな人を紹介してもらう。
訪ねてみると温厚そうな五十過ぎの老夫婦の家で、快く泊めてもらえることになった。
夫婦と夕食を共にしながら聞くところによると、五人いた息子と娘が独り立ちしたり嫁にいったりした後は、長男夫婦といっしょにこの家に住んでいたそうだ。
ところが流行り病で長男が死んでしまったという。
長男夫婦に子供はなく、長男の嫁はまだ若かった。
このまま年寄りの面倒をみさせるのは気の毒だということで、老夫婦のほうから嫁に暇を出したという。
「そんなわけでお客人がみえて賑やかなのは嬉しいんですよ。部屋も余っているからゆっくり休んでいってください」
アゼルは老主人の言葉に丁重に礼を言う。そして会話を続けながら隣に座るリンボクの様子をうかがった。
リンボクは最初に挨拶こそしたものの、それ以降は口を開こうとしない。食欲もないらしく、料理にもほとんど手をつけていなかった。
老夫人が心配していろいろと世話をやいてくれたが、結局は早めに休んだほうがいいということになり、リンボクは用意してもらった部屋へとさがった。
その後ろ姿を見送って心配そうな老夫婦にアゼルは説明する。昨夜は狼の遠吠えが聞こえて眠れていないのだと。
老夫婦はそれを聞いて納得しつつ、気の毒そうな表情を浮かべた。
それ以上のことをアゼルは言わなかった。
遠吠えが原因で眠れていないのは事実でも、リンボクが今の状態にあるのはそれだけではない。
だがそれはアゼルたちの問題であり、他人にわざわざ言うことではない。
視線を感じて横を向くとレシアと目が合った。
そういえばリンボクにばかり気を取られていたが、レシアもあのやりとり以降ほとんど口をきいていない。
レシアが老夫婦には聞こえないように口だけを動かす。
どうやら「おまえは馬鹿だ」と言ったようだった。
翌朝、目覚めたアゼルが支度をしていると扉を叩く音がした。
不審に思いながら開けるとレシアが立っている。
昨晩、老夫婦から割り当てられたのはアゼルの一人部屋と、レシアとリンボクの二人部屋だ。
リンボクの様子が心配だったので、できればアゼルはリンボクといっしょのほうがよかったのだが、それを提案しないほうがよいということは学んだ。
それに今ではレシアのことをそれなりに信頼している。
そのレシアの表情が珍しく冴えない。
「どうした?」
「リンボクの体調がよくない。熱がある」
アゼルは急いでレシアたちの部屋へと向かう。
リンボクは寝台に横になっていて、アゼルのことを見るなり口を開いた。
「アゼル、ごめん」
「なぜ謝る必要がある」
アゼルはリンボクの額へ手を伸ばす。かなりの熱があった。
「吐き気や頭痛はあるか?」
「ううん」
「口を大きく開けて見せてくれ」
リンボクが言われるままに開いた口の中を覗き込む。
喉は赤くはなっているがそれほど腫れていない。
「腹のどこかが痛かったりはしないか?」
「大丈夫」
となると、おそらく疲労の蓄積から体力が落ちて熱が出ただけだろう。
よく考えれば十二歳の子供が北嶺山脈越えの旅をしてきたうえ、一昨日はほとんど寝ていないのだ。体調を崩すのも当然だった。
そこに追い打ちのように精神的にも傷を受けた。
「リンボクすまない。俺が無理をさせたせいだ」
「アゼルは悪くないよ」
リンボクは安心させるように微笑んだ。
アゼルはそんなリンボクの頭を撫でると毛布をかけなおしてやる。
「とにかく今日はゆっくり休むんだ」
「でも着くのが遅れちゃう」
そう言うとリンボクは毛布をどかして起きようとする。
「なにをしている。寝ているんだ」
「大丈夫。自分で歩くわけじゃなくて馬に乗っているだけだから」
「駄目だ。騎乗は想像以上に体力をつかうんだ、ここで無理をしたら肺炎にでもなるぞ。とにかく今日は休むんだ」
リンボクは助けを求めるようにレシアを見るが、レシアは当然のように首を振った。
それでも諦めきれないらしく、リンボクは訴えるようにアゼルを見る。
「あたしは本当に大丈夫だから。お願い」
なにがリンボクをそこまで先に進ませようとさせるのか、アゼルには理解できなかったが絶対に認めることはできない。
「いいかリンボク、俺はお袋さんにおまえを無事に連れ帰ると約束したんだ。それを、風邪をこじらせて娘さんを死なせてしまいました。なんて間抜けな報告をさせるつもりなのか。熱が下がるまでは寝台に縛りつけてでも寝させるからな」
リンボクはそこまで言われて、ようやく毛布を首まで引き上げた。
「レシアちょっと見ていてくれ。俺は主人に頼んでくる」
レシアが頷くのを後にして、アゼルは部屋を出た。
アゼルからの頼みを老夫婦は当然だと了承し、いくらでも滞在してくれて構わないと言ってくれた。
老夫人は食欲のないリンボクに、パンをちぎって羊の乳で煮込んだパン粥に、蜂蜜を垂らしたものを作ってくれた。
リンボクは無理をしてでも口に入れ、なんとか半分は食べることができた。
アゼルは常備している薬草の中から解熱作用のあるものを煎じて、白湯といっしょにリンボクに飲ませる。
「とにかくなにも考えずによく眠るんだ」
その言いつけを守ったのか、単に腹が膨れて眠くなったのか。リンボクはほどなく寝息を立て始めた。
鼻がつまっているらしく、少し苦しそうな呼吸ではあったが、心配するほどではなさそうだ。
アゼルは時間が経つごとに、濡らした布をリンボクの額にあててやる。
レシアは部屋の片隅にある椅子に座りそれを黙って見ていた。
昼になってもリンボクはよく眠っていたので無理に起こしたりはせず、大人たちだけで会話の弾まない昼食をとった。
リンボクが目を覚ましたのは、陽がだいぶ傾いた頃だった。
アゼルが額に触れると、大量の汗をかいたおかげか熱はだいぶ下がっている。
喉が渇いたというリンボクに白湯を何杯も飲ませた。
「体を拭いて着替えたほうがいい」
アゼルは桶に湯をもらってきて布を絞る。
そしてリンボクの服を脱がせようとした――ところで後ろから蹴られた。
「なぜおまえは学習しない」
蹴ったレシアは冷たい視線でアゼルを睨みつけると、その手から布を奪う。
「部屋の外に出ていろ。わたしがいいというまで立ち入り禁止だ」
「ちょっと待て、病気の時は別だろう。非常時に歳や性別は関係な――」
「出ていけ」
レシアは据わった目でアゼルの言葉を遮る。
さすがに今回は自分のほうに理があるだろうとアゼルがリンボクを見ると、少女は下を向いて顔を赤らめている。
どうやら熱のせいではないらしい。
アゼルがおとなしく部屋を出ると、扉が中から勢いよく閉められた。
「あの男の無神経さはどうにかならんのか」
扉を閉めて戻ってきたレシアの表情が、心底呆れ果てている感じなのがおかしくて、リンボクは思わず笑ってしまった。
「なにか変なことを言ったか?」
怪訝そうなレシアに首を振る。
「まあ、笑えるのならもう大丈夫だろう」
そう言いながらレシアが服を脱がせていくのに身を任せた。
裸になったリンボクの体を、レシアはお湯で濡らした布で
布が触れた瞬間は熱いぐらいなのに、そのあと肌が空気に触れるとひんやりとして気持ちがよい。
レシアはリンボクの全身を隅々までくまなく拭っていく。
昨日は湯浴みもせずに眠ってしまったので、旅をしてきた体は物凄く汚れていたのだろう。レシアは何度も桶で布をゆすいでは拭うを繰り返した。
リンボクは申し訳ない気持ちになったが、下手に恐縮したりするとレシアもやりづらいだろう。そう思ってされるがままにしていた。
「よし、こんなものだろう」
レシアは布を置くとリンボクの荷から着替えを取り出した。
「自分で着られるな。わたしは湯を取り換えてくる」
そう言い残して桶を手に部屋を出ていく。
リンボクは替えの服に袖を通す。汗で張り付かない服は気持ちがよかった。
ぼんやりと寝台に座っていると、レシアが湯気の立つ桶を持って戻ってきた。
「そこだとやりづらいな」
そう言って椅子を寝台の近くに持ってくる。
「ここに座れ。寒いとまずい、毛布を体にまくといい」
リンボクは言われるままに毛布を体にまきつけて椅子に座った。
レシアはその後ろに立つと、よく絞った布でリンボクの髪を拭い始めた。
最初は頭皮の汚れを落とすように、次に小分けにした髪を根本から毛先まで丁寧に拭っていく。
体の時と同じように、何度も布をゆすいでは拭うを繰り返す。おそらく髪も体と同じぐらい、あるいはそれ以上に汚れていたのだろう。
終わった頃には髪が物凄く軽くなったように感じた。
礼を言おうと振り向こうとしたリンボクの頭をレシアが抑えつける。
「まだ終わっていない」
するとレシアは自分の荷物から小物入れを取り出し、それを持って再び椅子の後ろに立った。
そして櫛でリンボクの髪を
優しく、丁寧に。
ひっかかりがあると無理に梳くことはせずに、髪のもつれを慎重にほどく。
リンボクも女だ。
自分で髪を梳くし編みもする。だがこんなに丁寧にはやらない。
レシアに髪を触られているだけで幸せな気持ちになった。
リンボクがずっと幼い頃は母親にこうやって髪を梳いてもらっていた。
だが弟妹たちが生まれると母親はそちらにかかりきりで、自分のことは自分でやらなければいけなくなった。
誰かに髪を梳いてもらう。それだけのことがこんなにも幸せなことだとは知らなかった。
「――ねえ、レシア」
「なんだ」
「アゼルは優しいよ」
レシアの櫛を持つ手が止まる。
「なんだいきなり」
「さっき無神経だって言ってたから」
レシアの誤解を解いてあげたかった。
「なにを言うかと思えばそんなことか」
リンボクからでは後ろに立つレシアの表情はわからない。だがなんとなく、声には出さず笑ったようだと思った。
「わたしもあいつの全部が全部、無神経で馬鹿だとは思っていない。だが女の扱いに関してだけは救いがたい大馬鹿だぞ」
リンボクは擁護するつもりだったが、レシアにかかるとアゼルは無神経どころか大馬鹿とひどい言われようだ。
「聞けばあいつの師匠は女だったらしいじゃないか。いったい弟子に何を教えていたんだ」
リンボクを通してアゼルがレシアのことを知ったように、レシアもアゼルとリンボクの会話から少なくない知識を得ていた。
「うーん、護衛士の仕事のことしか教えてなかったのかも」
さすがにリンボクも苦笑するしかない。
リンボクはレイナスに直接会ったことはない。だが父親のステノハから話はたくさん聞いている。優しくて、真面目で有能で、信頼できる人だったそうだ。
それだけに他のことを教えている暇がなかったのかもしれない。
「いいかリンボク、間違ってもああいう男の元に嫁にはいくなよ。あの手の輩は
いつの間にか話が結婚相手の選定にまで及んでいる。
リンボクは曖昧に笑うしかなかった。
「あとはちょっと揃えるか。鋏を入れるが構わないか? もちろんばっさり切ったりはしない」
リンボクが頷きながら振り返ると、レシアが小物入れから小振りの鋏を取り出したところだった。
洋裁用ではなく、ましてや毛刈り用のものでもない。
「それって何に使う鋏?」
「――まあ、なんだ。いちおう身だしなみを整えるためのものだな」
リンボクは驚いた。
レシアは軍人だ。そういう人でもやっぱり女性だと身だしなみに気を付けなければいけないのだろうか。
今回の旅に櫛すら持ってこなかった自分が恥ずかしくなった。
「ほら、前を向け」
レシアはリンボクの顔を正面に向けると、櫛と鋏を使って毛先を整えはじめた。
鋏の小気味よい音が静かな部屋に響く。
「あとは前髪だな」
レシアが前に移動するのに合わせてリンボクは目を閉じた。
櫛が前髪を梳かしていく。
「あまり切り揃えないほうがいいな。毛先を整えたら自然に流れる程度にしておくぞ」
レシアはそう言うが、リンボクには何が良いのかもわからない。なのでただ身を任せていた。
ほどなくして鋏の音が止まり、前髪が軽く払われる。
「こんなもんだろう」
リンボクが目を開くと、レシアが出来栄えを確かめるように、少し離れた位置からこちらを見ていた。
「ついでだ、編んでおくか。今日はもう外に出ないからざっくりとな」
レシアは再びリンボクの後ろに立つと手際よく髪を編んでいく。
「終わったぞ。少し見づらいかもしれないが、これで確認してくれ」
手渡されたのは、手の平に納まるぐらいの小さな手鏡だった。派手な装飾こそないが質の良いものだということはリンボクにもわかった。それは櫛や鋏、それらを納めていた小物入れもそうだ。すべてが高級そうで、それでいて上品だった。
手鏡を覗くと思わず声が漏れる。
「――かわいい」
慌てて口をつぐんだが、すでに声は出たあとだ。
自分で自分のことをかわいいと言うなんてと、リンボクが羞恥で縮こまっていると、レシアが笑いながら肩を抱いてくる。
「実際にかわいいんだ、別に恥ずかしがることはないだろう。喜んでくれるのなら、わたしもやった甲斐があったというものだ」
嘘でもレシアにかわいいと言われて嬉しかった。
「レシア、ありがとう」
体を拭うだけでなく、いろいろとしてくれた感謝を込めて礼を言う。
レシアはそんなリンボクをじっと見る。
「やっと表情が戻ったな」
何の事だろうと、リンボクは首をかしげた。
「昨日からおまえの顔は引き攣ったままだった。まあ、あんなことがあったから仕方ないが」
レシアは腰をかがめ視線をリンボクと合わせる。お互いの顔が触れそうなほど近くにあった。
「リンボク、あまり一人で抱え込むな。苦しい時や辛い時は、周りの人間にそう言えばいい。世の中の人間がすべて善人だとは言わない、それでも力を貸してくれる人間が一人はいるはずだ、それに頼ればいい。今ならわたしが必ず助けると約束する。助けてもらったのを借りだと思うのなら後で返せばいい。その人間に返すことができなければ、他の人間を助けてやればいい、自分がそうされたように。わたしの言うことがわかるな」
レシアの強く真っ直ぐな目が、リンボクを見ていた。
「……うん」
悲しいわけでも、苦しいわけでもないのに、リンボクの目から涙があふれ出てきた。それを手で拭うまえにレシアに抱き寄せられる。
そのままレシアの腕の中でリンボクは泣き続けた。
リンボクの目から赤みが消えた頃には、陽はすっかりと落ちていた。
夕食の時間になったので部屋を出ていくと、アゼルと老夫婦が迎えてくれる。
体調をさかんに気遣う老夫人に「もう大丈夫です」とリンボクはしっかりした声でこたえる。
安堵した様子の老夫人は、落ち着くとしげしげとリンボクを見てから微笑んだ。
「レシアさんにやってもらったのね、とっても素敵よ。あなたによく似合ってる」
リンボクは赤くなりながらも、夫人に微笑み返した。
そんな老夫人とは対照的に、アゼルはひたすらリンボクの体調だけを気にかけてくる。
おそらく髪型が違っていることになど、気づいてすらいないだろう。
目を合わせると、レシアはおおげさに肩をすくめて首を振った。
たしかにアゼルはもう少し女心を勉強したほうがいいかもしれない、リンボクはそう思った。
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