遠吠え
遊牧民の村を出発してから三日、アゼルたちは
はっきりとした道はない。
かろうじて周囲より石が少なく草が薄いことで、そこが道だということがわかるぐらいだった。
地面は平坦になり振り返れば北嶺山脈が見わたせる。
離れて見ることでよりいっそうその大きさがわかった。丸三日歩いてきても山脈の全容は見てとれず、その高さに視線を上げなければならない。
その山麓で育ったリンボクには感慨もひとしおなのだろう。しきりに振り返っては「綺麗だね」「大きいね」と口にしていた。
陽が暮れてきたので野営の準備をする。
移動する遊牧民に会えれば、麓の村の時のように世話になるのだが、この三日間は人の姿を一度も見かけなかった。
もちろん旅人とすれ違うこともない。この時期に北嶺山脈を越えようとするのはよほどの事情がある者だけだろう。
山にいた時に比べれば寒さは厳しくないが、それでもアゼルは天幕を立てた。
さすがに溝を掘って寝床を温めることはしない。というよりも傾斜がないと煙が上手く排出されず天幕の中に篭るのだ。
道をそれて丘まで行ってもいいのだが、そこまでする必要もないと判断した。
天幕で風を遮るだけでもかなり違う。もしアゼルひとりの旅ならば、毛布にくるまりそのまま地面に寝転ぶところだ。
食事が終わればすぐに天幕に入る。
この頃では旅の緊張にも慣れてきたのだろう、リンボクはよく喋るようになっていた。アゼルだけにではなくレシアに対してもよく質問をしている。
そのおかげでアゼルにもレシアのことが少しずつわかってきた。
どうやらレシアはアストリアでも名門の軍人の家に生まれたらしい。兄妹はなく一人娘で、現在の階級は千騎長ということだった。
だが肝心の何故探求者になったのかということは聞けなかった。リンボクは尋ねたのだがはぐらかされたのだ。
まあ誰にでも言いたくないことのひとつやふたつはある。
リンボクは横になってからもずっと喋っていたので、いい加減に寝るようにとアゼルが注意しなければならなかった。
夜中に遠吠えが聞こえた。
アゼルはその声が消えないうちに跳ね起きた。
天幕内にはまったく明かりが射しこんでいないため暗かったが、気配でレシアも起きたことはわかった。
「すぐにリンボクを起こすんだ」
それだけを言うと天幕から出て剣を吊るし、長毛馬に鞍を載せる。
その時もう一度遠吠えがした。
レシアがリンボクを抱えるようにして天幕から出てきた。
「火はどうする?」
「そのままでいい。それよりも荷を載せるんだ」
焚き火は熾火となって離れた場所で微かな明かりをともしている。
月明りは雲で遮られていた。
リンボクも二度目の遠吠えで目が覚めたのだろう、手伝おうと荷物を手に取り老馬へと近づいた。
「リンボクそうじゃない。ケトランディは俺の馬に載せるんだ。レシア、まず水だ。それから自分の荷を積んでくれ」
リンボクは不思議そうにアゼルを見たが、言われるままに荷を運んだ。
アゼルはケトランディを積み終わると水袋を吊り、次に食糧を載せる。そしてリンボクを騎乗させた。
そして天幕に戻って三人の毛布と敷物を抱えて出てくると、それを手早くまとめてレシアに向けて放り投げる。
「積める分だけでいい」
それを見ていたリンボクが声をかける。
「アゼル、こっちにまだ載せる余裕があるよ」
リンボクが騎乗しているアゼルの長毛馬にはケトランディと水袋、それに食糧しか積んでいない。リンボクの老馬には鞍しか載せていなかった。
「それでいいんだ」
アゼルは積みきれなかった荷物を天幕の中へと放り込む。その頃にはレシアが自分の長毛馬に荷を積み終えていた。
「レシア火を熾してくれ」
レシアは焚火に近づくと熾火を利用して手早く火を燃え上がらせた。
「火を直接視界に入れるな、闇が濃くなる」
アゼルは焚き火に背を向け、リンボクが騎乗した自分の長毛馬の手綱を握った。
レシアが隣にきて抑えた声で尋ねた。
「狼か?」
「そうだ」
「一匹か?」
「わからん。同じ声だったような気はするが」
二度目の遠吠えの後に声はしていない。
「移動したほうがよくないか」
アゼルもそれを考えていた。
だが近くに逃げ込めるような所はない。
この先の道からそれた場所に、灌木に毛が生えたような森があるが、果たして役に立つかどうかは疑問だ。
そもそも遠吠えがどちらの方角からしたのか、はっきりとはわからない。
おそらく北からだとは思うのだが自信はなかった。
それにもし移動するとなると――。
「このままここで待機する」
「わかった」
レシアは理由を聞かなかった。
緊急時には頭の決定に従う。護衛士のもっとも基本的な決まりだ。
結局遠吠えは最初の二回だけで、その後は一度も聞こえなかった。
仲間を呼ぶためではなく、単に気まぐれで鳴いたのか。
アゼルは四半刻ほど様子をみたが、大丈夫と判断してリンボクを長毛馬から下ろした。
天幕の中に放り込んだ荷物を取り出し、敷物と毛布を広げ直すとリンボクに寝るように勧める。
その他の荷物も長毛馬から下ろして、毛布にくるまりその
レシアも同じようにして座る。
ひとり天幕の中に横になるリンボクは、まだ興奮と緊張が冷めきらず、眠れそうになかった。
そして気になることがあって、それを考えていると頭が冴えてしまい、余計に眠気はどこかにいってしまう。
――あれはどういうことなのだろう。
まんじりともしないまま時は過ぎ、東の地平線から朝陽が射しこんできた。
その日は朝からリンボクの口数が少なかった。
昨夜の遠吠えのせいで寝不足なだけだろうと思い、アゼルはあまり気にしていなかった。
一晩中眠っていないとなると心配だが、遠吠えの前までは問題なく睡眠をとれていたこともある。
だが昼の休息後、先頭に立つアゼルの長毛馬に並ぶように、リンボクが老馬を進ませてきた。
「アゼル。聞きたいことがあるの」
アゼルは顔を向けて続きを促す。
「昨日の夜だけど、なんであたしをアゼルの馬に乗せたの?」
「この馬の方が丈夫で脚力もある。狼が襲ってくるかもしれないという時だ、少しでも安全なほうにリンボクを乗せるのは当然だろう」
アゼルはよどみなくこたえる。
「じゃあ、あたしの」リンボクは騎乗している老馬の首を撫でた「――この馬に鞍しか載せなかったのはなぜ?」
「俺が騎乗するつもりだったからな。荷物まで載せると走れなくなる」
アゼルの説明は筋が通っているように思える。その表情もいつもと変わらず、嘘をついているようには見えない。
「――本当にそれだけ?」
「どういう意味だ?」
リンボクは昨晩ずっと考え続けていたことがある。できれば自分の考えが間違っていればいいと思う。アゼルに尋ねさえしなければ、このまま本当のことを知らずにすますこともできる。
それでもリンボクは聞いた。
「なんでアゼルの馬にはまだ余裕があったのに荷物を載せなかったの?」
初めてアゼルは言いよどんだ。
リンボクはさらに追及する。
「レシアの馬には荷物を載せていたよね。それもいつもより多いぐらい。それなのになんで?」
アゼルはリンボクの目を見た。
涙ぐんでいるのは気のせいじゃないだろう。だがその奥の瞳には断固とした決意が見てとれる。
後ろを振り返るとレシアと目が合った。
アゼルたちの会話は聞こえているはずだがその表情は変わらず、邪魔をするつもりはないようだった。
アゼルはもう一度リンボクの目を正面から見つめた。
「荷物を余計に載せなかったのは俺が乗るためだ」
「じゃあ――じゃあ、この馬はどうするつもりだったの?」
「囮にするつもりだった」
リンボクが聞きたくなかったことをアゼルは躊躇せずに告げた。
俯くリンボクにアゼルは言葉を続ける。
「狼一匹なら俺ひとりでも対処できる。レシアもいるから二、三匹でもなんとかなるだろう。だが狼は群れで狩りをする獣だ。十数匹に囲まれたらどうにもならない
」
リンボクは唇を噛みしめ黙って聞いている。
「長毛馬は走る速度が遅く、長時間走り続けることもできない。逃げてもすぐに追いつかれる。そして狼は馬の脚を狙ってくる。もし馬が脚に傷を受けた場合、生き延びたとしても旅が続けられない。だから――最も弱い馬を犠牲にして、その間に逃げるんだ」
俯いたリンボクの目から涙が落ちたがアゼルは話すのをやめなかった。
「鞍以外の荷物を載せなかったのは軽くしてやるためじゃない。その馬が犠牲になった時に荷物を載せていたらいっしょに狼に荒らされるからだ。天幕に入れておけば取りに戻ることもできる。――狼の腹が膨れていなくなった後にな」
「もうやめて!」
リンボクが叫んだ。
「……もう、わかったから」
うなだれているリンボクをそのままに、アゼルは長毛馬を進めると再び一行の先頭に立った。
陽が傾きつつある。
あの後リンボクは、移動している間も休息時も一言も口を開かず、自分の殻に閉じこもっていた。
怒るか泣くかどちらにしろ、もっと非難してくると予想していたアゼルは、よくない傾向だなと思った。
感情を露わにすれば、溜まっていたものは発散される。
だがそれを抱え込むと負の感情は雪だるま式に膨れ上がる。
それらをアゼルにぶつけてくる分には構わないが、自分を責めるようになると問題だった。
リンボクの瞳に決意を見た時、アゼルは隠さずに全部話そうと思った。
すでにリンボクが、自分で結論にたどり着いたことに気がついたからだ。
そこで全部話して、怒りをアゼルにぶつけさせようとしたのだ。だからあえて冷たく突き放すような言い方をした。
だがリンボクはアゼルが想像するよりもずっと賢く、強い少女だった。
老馬が犠牲になるとしたらそれはアゼルのせいではなく。早摘みにきた自分のせいだということを理解して、それを受け止めたのだ。
言葉をかけて慰めてやることは簡単にできる。
だがアゼルはそうしないことを決めた。
気づいたことがあるからだ。
今回の旅はリンボクが大人になるための
そしてリンボクがここで成長できなければ、おそらくこの少女とその家族に未来はない。
なら自分はその手助けはしてもいいが、甘やかしてはならない。
アゼルはそう心に決めた。
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