はぐれ獅子


「アゼルはそもそも獅子を知っているか?」

「見たことはない――が、聞いたことはある。虎や豹とおなじ猫科の肉食獣だろう?」

「虎や豹よりも一回り大きく力も強い。百獣の王とも呼ばれているぐらいだ。虎などが森を生活圏にしているのに対して、草原を棲みかにしている。それともうひとつ特徴的な習性がある」

 アゼルとレシアは毛布にくるまりながら抑えた声で話していた。

 月明りは雲に遮られ、熾火おきびの明かりは二人の元までは届かない。

 目が慣れてきたとはいえ、お互いの表情はわからず顔の輪郭だけが暗闇に浮かんでいた。

「虎や豹は単独行動が普通だが獅子は群れで暮らす。それも狼などとは違って、一匹の強い雄が複数の雌を従えたハレムを形成するんだ」

 そういう生き物がいることはアゼルも聞いたことがある。強い種を残すための自然の摂理なのだろう。

「当然あぶれる雄が出てくるわけだが、そういった雄同士も数頭で群れを作る。隠れる場所のない草原では単独では狩りが成功しないからだ」

 そこでレシアはいったん言葉を切った。

「――ところがごくまれに一匹だけで生活する雄獅子が現れる。単独で狩りを成功させるわけだから強く、賢い奴だ。これをアストリアでは、はぐれ獅子と呼ぶんだ」

「ちょっと待ってくれ。話の腰を折るが、なんでそいつはそんなに強いのにハレムを持てないんだ」

「そいつの縄張りにいるハレムの雄が、それ以上に強いということだろうな。両雄並び立たずというやつだ」

「……なるほど、続けてくれ」

「さっき賢いと言ったが、はぐれ獅子は無駄な争いをしない。腹が減っていなければ狩りをしないのはどんな肉食獣でもおなじだが、不用意に近づいてきたやつに攻撃を加えるのは草食動物だってやることだ。ところがはぐれ獅子はそういった場合でもんだ。観察するようにな」

「聞いているとまるで体験談のようだが。そうなのか?」

「わたしではない。わたしの部下から聞いた話だ」

 レシアは階級の高いアストリア軍人だ。当然多くの部下がいるはずだった。

 そしてレシアが聞いたのは次のような話だったという。


 その部下は休暇を利用して生家へと帰省していた。

 部下の生家はアストリア王都から遠く離れた田舎で、道なき草原を進んだ遥か先にあった。

 休暇が終わり王都へと戻る途中、部下は馬に水を飲ませるためにオアシスに立ち寄ったという。

 もちろんいきなりオアシスに踏み入るようなことはしない。

 オアシスには様々な獣が喉を癒しにやってくる。

 部下はそのような獣がいないかを慎重に確認して、さらに待ち伏せている肉食獣がいないかよく気配を探ってから、安全と判断して水辺へと近づいた。

 愛馬が水を飲んでいる横で、部下も水をすくって顔を洗っていた。そして何気なく横を向いた。

 部下の視線の先、わずか数歩ほどの茂みに大きな獅子がいた。

 間に合わないと思いつつも部下は反射的に剣に手をかける。

 だが獅子は微動だにせず、ただじっと部下のことを見ていた。

 部下はどうすべきか迷ったが瞬時に判断をくだした。

 剣からは手を放し視線は獅子からそらさず、ただ焦点をぼかすようにして馬の手綱を引いてゆっくりと後ずさった。

 馬が獅子に気づかず暴れなかったのは幸いだった。もし愛馬に逃げ出されていたら、広大な草原を荷物も持たずに歩くはめになっていたところだ。そうなれば待つのは死だろう。

 オアシスから出て十分に距離をとった所で部下は馬に乗り、一目散にその場を離れたという。


「腕も立つし、肝も太い奴なのだがな。生きた心地がしなかったそうだ」

 話を聞いただけでも確かに有能な男だとわかる。その部下は完璧な対応をしたと思った。

「どうだ」

 そこでレシアは一段声を低めた。

「峠のヤツに似ていないか?」

 アゼルは手で口を覆うようにして考え込んだ。

 単独で行動し、完全に気配を消し、そしてまるで観察するような視線を向けてくる。

 確かにはぐれ獅子と、峠のはそっくりな特徴をしている。

 部下の馬がはぐれ獅子にまったく気がつかなかったというのも共通している。

 峠で長毛馬はわずかに緊張していたようだが、あれはアゼルたちの緊張が伝染したからだと今では思う。おそらくなにかの存在には気がついていなかったのではないか。

 アゼルが考え込んだまま口を開かないからだろう、レシアから質問してきた。

「北嶺山脈には獅子のような獣はいないのか?」

「雪豹がいるな」

「――雪豹か」

 レシアも何事かを考えるように黙り込んだ。

 だがいくら考えても結論の出るようなことではない。はぐれ獅子のような獣かもしれないし、アゼルの考えた野盗の斥候の可能性も捨てきれない。それ以外の何かかもしれないのだ。

 自分たちもずっと気を張っていたのだ、そろそろ休んだほうがよい。

 アゼルは立ち上がった。

「悪いが今日は交代で見張りをしたほうがいいだろう。細かく睡眠をとるよりも二直にしようと思うがどうだ?」

「それで構わない。どっちが先に立つ?」

「なら先に眠らせてもらうが、それでいいか?」

 基本的に当直は後のほうがつらい。今日のように興奮状態だと寝つきも悪くなるだろう、時間をおいて気を静めたほうがいい。

 そう考えてレシアの見張りを先にした。

「わかった」

 頷くレシアに対してさらに声をかける。

「無理をしないで適当なところで切り上げるんだぞ」

「ああ、わかっている」

 レシアはそう言いながら、火を熾す際についたらしい灰を、帽子から丁寧に払って被り直した。

 その影絵を見ながらアゼルは声を出さず笑う。随分とあの帽子を気に入ったらしい。

 天幕に入るとリンボクはぐっすりと眠っていた。

 その隣に横になるとアゼルも目を閉じた。



 それから二日かけて山を下り、アゼルたちは中央平原側の麓にたどり着いた。

 下山の最中はいつもの旅以上に警戒をしていたが、結局あのなにかの気配は峠でしか感じなかった。

 陽が沈む頃には麓の村に到着した。

 村といっても遊牧民が定住したもので、宿はもちろん店もない。

 それでも人が住んでいるというだけで、旅人にとっては何物にも代えがたいありがたいものだった。

 アゼルたちが近づいていくと、すぐに村人が気づいて家から顔を出す。

 その住居もリンボクの家のような石を積み上げたものではなく、木の柱と梁をめぐらせて骨組みを作り、それを不織布や毛皮で覆ったものだ。

 この住居は組み立てるのも解体するのも楽で、移動を前提としたものだった。

 傍に来た男に長毛馬から下りて挨拶をする。

 一晩の宿を求めると快く受け入れてくれた。

 これは遊牧民だけが特別ではなく、宿がない小さな村なら大抵は世話をしてくれる。

 それだけ中央平原の人々にとって旅人は身近なものであり、護衛士という職業が信用されているということでもあった。

 男の家に招かれ歓待をうける。

 旅をするには幼いリンボクと、女探求者であるレシアが珍しいのだろう、男とその家族は色々と聞いてくる。

 最初はぎこちなかったが、リンボクは会話をしているうちに打ち解けてきたらしい。食事が終わるころには家族の子供たちと笑いながら話をしていた。

 レシアは終始不愛想だったが、これは元からの性格のせいというよりも、勧められた酒をアゼルが飲ませなかったのが原因だろう。

 レシアの二日酔いで明日の行程に支障がでるのは勘弁だった。

 寝る場所に貯蔵庫として使っている住居を提供してくれる。

 貯蔵庫といっても通常の住居とまったく変わらないものでなんの不満もない。

 アゼルたちは久しぶりに安心して眠ることができた。



 翌朝になるとアゼルはまず井戸を借りて、馬に吊るす大型の水袋をいっぱいにする。

 北嶺山脈では周りに雪があるため水の心配はなかったが、ここからはそうはいかない。

 水の代わりに積んでいたのは薪だったが、それはほぼ使い切った。

 ここから先では最低限の薪しか用意はせず、落ちている枯れ木や倒木などで焚き火をする。冬山では薪が、平地では水が重要だということだ。

 別れ際に泊めてくれた男はパンをはじめとした大量の食糧を渡してくる。

 それをありがたく受け取り、代わりにアゼルは〈名の誓い〉をした。

 男と家族に見送られアゼルたちは遊牧民の村を出発する。

 子供たちと仲良くなっていたリンボクは名残惜しそうで、少し涙ぐんでいた。


 まだ地面は緩やかに下っているが雪はない。同じ標高でも北嶺山脈のこちら側には、高い山々に遮られて雲がこないせいで雪はほとんど降らなかった。

 そのぶん大地は乾いている。

 ここから先はしばらく乾いた草原ステップがつづく。雪解け水は地表のはるか下を流れ、ずっと南にいってからようやく川となって顔をだす。

 この地では農作物はもちろん樹木も育たない。かろうじて生える草を牧畜に食べさせ生活する。遊牧民しか住まない土地だった。

 さきほどの村も季節やその年の天候によっては、移動してあそこにいないことがある。

 背後に村が見えなくなった頃にレシアが馬を寄せてきた。

「最後のあれは何をしていたんだ?」

 アゼルはレシアと目を合わせる。

「名の誓いだ」

「なんだそれは?」

 リンボクも興味を持ったのだろう、アゼルの隣に老馬を進ませてきた。

「一言でいうと、自分の名前にかけて世話になった礼を必ず返すという宣誓だな」

「それは遊牧民の間に伝わるものなのか?」

「いや。似たようなものはあるが遊牧民は父親や祖父の名を言う。それに誓いというよりは信用を確約するために使う感じだな」

 レシアはそのことについてしばし思考を巡らせたようだ。

「――なんとなくわかる。じゃあおまえのあれは独自のものなのか」

「違う。護衛士に伝わるものだ」

 遊牧民は客人をもてなすことを美徳とする。それに代価を求めたりはしない。

 泊めてもらった礼に金を払おうとでもすれば、むしろ怒ったり軽蔑されたりする。

 そのように、礼はしたいが金や物を渡すのが逆に無礼にあたる場合に、護衛士は自分の名にかけていつかその恩を返すと誓うのだ。

 形式的な挨拶の一種にも思えるがそうではない。

 護衛士の誇りを持っている者ならば、名の誓いをした相手を忘れることは絶対にない。アゼルも昨晩泊めてくれた男と家族のことはしっかりと覚えている。

 そして実際に名の誓いによって返された恩は数多くある。

 そのため護衛士がする名の誓いは敬意を持って受け止められる。それは遊牧民に限らず、街に住む人々にとっても同じだった。

「やっぱり護衛士って立派なんだね!」

 アゼルの説明を聞いてリンボクは目を輝かせた。

 逆にレシアは何事かを考えるかのように黙り込んだ。

 その口が「護衛士とはそんなにも――」と呟くように見えたのは、アゼルの気のせいだろうか。


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