峠越え
二日目の天気も晴天だった。
さすがに地面が顔を出しているところはなくなっているが、まだ雪が積もっているというほどではない。
ただ徐々に標高は増し空気は薄くなっている。
アゼルはゆるやかな歩みを乱さずに長毛馬を進め、ある地点まで来ると早めの野営の準備に入った。
「まだ陽が沈むまでにはだいぶあるだろう。なぜ進まない?」
レシアが訝る。
「いいんだ、これ以上高所で野営はしたくない。その代わりに明日は一気に峠を越えて進むからそのつもりでいてくれ」
空気が薄くなれば高山病の危険がある。特に睡眠時には意識して呼吸を調整できない分、その症状が出やすい。
そのためぎりぎりの位置で野営をして、一気に峠を越えて山向こうの同じ標高のところまで行く。これが山越えの基本だった。
以前に傷の男ジェヤンが言っていた、峠前での調整とはこのことだった。
「リンボク、頭が痛かったり息が苦しかったりしないか?」
「ううん、平気」
麓とはいえ中央平原に比べればザヤの街も十分な高地だ。耐性はついているのだろう。むしろレシアのほうが心配かもしれない。
「あんたは大丈夫か?」
「なにがだ」
「……いや、なんでもない」
この女の場合はただ鈍感なだけかもしれない。
アゼルは唐変木と呼ばれた自分のことを棚に上げてそう思った。
三日目の朝を迎えた。
雲が厚く、陽を遮っているが雪は降っていない。
アゼルたちは朝食をとると素早く荷物をまとめて出発した。
このあたりまでくると積雪は増し白一色に染まる。人が通った跡はおろか、獣の足跡もついていない。
それでも雪を掻き分けながら進むというほどではない。長毛馬はその太い脚で、一歩ずつ確実に前進してくれた。
ただどうしても先頭の馬に負担がかかるのは否めない。なので半刻ごとにアゼルはレシアと先頭を交代した。
どちらの乗騎も借り馬であり、馬だけを交換してもよいのだが、レシアにも先頭を引くことを覚えてもらう良い機会でもある。
気配を感じとれることは初日の夜に確かめたので、何か異常があればすぐに気がついてくれるだろう。
ゆっくりとした歩調を保つことだけを注意し、あとはレシアに任せた。
アゼルが後ろから見ているとレシアの馬捌きは見事だった。おそらく長毛馬に乗ったのは初めてのはずだが、馬との信頼関係もできているようだ。
リンボクも普段から自分で世話している馬だからだろう。安心して身を任せ、老馬のほうもそれに応えていた。
いよいよサルラン峠に差し掛かるところでアゼルが再び先頭に立つ。
サルラン峠は巨大な天然の切通しといった地形だった。
両脇は崖というには緩やかだが、坂というには急な山肌で挟まれているのだが、峠道の通る部分は広くひらけていた。
幸い雲もとぎれ陽射しが出てきた。風も吹いておらず、この間に一気に峠を越えておきたいところだ。
アゼルは長毛馬を進めようとして――手綱を引いた。
一向に進まないアゼルにリンボクが怪訝そうに声を掛ける。
「アゼルどうしたの?」
アゼルは前を向いたまま後ろに手をやり、そのままでいるように示した。
間違いなくなにかがいる。
だが、そのなにかがアゼルにはわからない。こんなことは初めてだった。
アゼルはリンボクに隣に来るように身振りで指示をする。
リンボクもアゼルの異変に気がついたのだろう。緊張した面持ちで一言も喋らずに老馬を進めさせた。
さらにアゼルは最後尾のレシアにリンボクを挟む位置に来るように指示した。
レシアも無言でそれに従う。
なおもアゼルは気配を伺うがやはりわからない。そのなにかがどこに潜んでいるのかもつかめなかった。
「レシア、どう思う」
「……なにかいるな」
レシアもアゼル同様、感覚を研ぎ澄ませて周辺の様子をくまなく探っていた。
「なんだと思う」
アゼルは率直に聞いてみた。
自分が気づかないことでも、レシアが気がついているのなら、それに頼ればいい。そこに護衛士の矜持を持ち出すほどアゼルは愚かではなかった。
だがレシアは黙ったままでいる。
アゼルにはその
わからないのならわからないと答えることにレシアは
「なにか気づいたのか?」
「――いや」
何かを口にしかけてレシアはやめた。そして逆に聞いてくる。
「アゼルおまえはどう考えている。まずそれを聞かせてくれ」
アゼルとしてはレシアの態度が気になったが、それでも自分の考えを口にする。
「俺はおそらく野盗の斥候だと思っている。それもおそろしく潜伏に長けた奴だ。それがこちらを伺っているとみている」
「なるほど」
「レシアの考えは?」
「単独だというのには同意だ。複数がこれだけ完全に気配を消すことなど無理だからな」
「で、正体は?」
「わからん」
アゼルは峠に足を踏み入れてから初めて前方から目をそらし、横にいるレシアを見た。
その目に非難の色が浮かぶのは仕方ないだろう。
「何か心当たりがあるのなら正直に言ってもらえないか」
「すまない。だがわたしにも確証がない。下手に説明してもかえって混乱させるだけだ。おまえの言う斥候というのも頷ける」
アゼルはレシアが謝るのを初めて聞いた。自信なげな物言いもそうだ。
ということはレシアも本音で話しているのだろう。この場ではそれ以上の追及はしないことにした。
そうはいってもこうしていても埒が明かない。
アゼルは長毛馬を下りると、剣がすぐ抜ける状態なのを確かめ、弓を取り出し矢筒といっしょに背負った。
「二人はここにいてくれ。逃げろと言ったら俺の馬だけ置いて、全力で逃げるんだ」
レシアはわずかに考えたがすぐに頷く。
リンボクは不安そうな瞳でアゼルを見つめている。それに微笑みかける。
「大丈夫だ。なにかはわからないが一対一ならそうそう遅れはとらないだろう」
半分は強がりだが、もう半分は事実だ。
アゼルにとっては相手がわからないことだけが不安要素であり、その正体さえわかれば対処できる自信がある。
積雪は膝下まであった。降ったばかりの柔らかい雪ではなく、夜の寒さで固められた雪だ。
アゼルは一歩ずつ足元を確かめながら進む。
常に周囲の気配を探りながら、視線はわずかな変化も見逃さないように細かく動かしていた。
長い時間をかけて進み、ついには峠の真ん中まできた。
まだなにかの気配は消えていない。そして見られているという感覚がより強くなっていた。
そう考えるとやはり斥候というのは間違っていないような気がする。
後ろを振り向くと、レシアとリンボクの表情がかろうじてわかるほどの距離だった。
アゼルはもう一度周囲を見渡してから張り詰めていた気をゆるめると、無造作とも呼べる足取りで来た道を引き返した。
戻ってきたアゼルを、リンボクは安堵の表情で、レシアは変わらぬ表情で迎えた。
「結局なにもわからなかった。帰りは誘ってみたんだが手を出してこなかったな」
「それでどうする?」
レシアに聞かれアゼルはしばし黙考する。
「――進むしかないが、馬は下りて引いていこう」
「騎乗していたほうがよくはないか?」
「なんとも言えないところだな」
相手が獣なら騎乗していたほうがいい。特にリンボクはそうだ。
だがアゼルは見えないなにかの正体は野盗の斥候ではないかと考えている。その場合一番危険なのは弓矢だ。騎乗していれば狙い撃ちされる可能性が高い。
「リンボクは馬に寄り添って、俺が伏せろと言ったらすぐ馬の下に隠れるようにするんだ」
リンボクは緊張した顔で頷く。
「わたしだけでも騎乗しておくか? 高いぶん遠目も効くし、馬上なら弓もすぐに撃てる」
アゼルはそれについて考えた。
レシアの言うことはその通りだったし、あえて口には出していないが囮になるとも言っているのだろう。
「――いや、レシアも下りてくれ。それで何かあった場合は、すぐにリンボクを守るか、馬に乗せるかしてくれ。判断は任せる」
「わかった」
レシアもそれ以上は言わずに頷いた。
「間隔は空けずにすぐ後ろをついてくるんだ。俺の通った跡だけを踏むように、横には決してそれるんじゃないぞ」
「うん」
掠れた声でリンボクがこたえるのを聞くと、アゼルは長毛馬の手綱を引いて進みだした。
馬も若干緊張している感じだったが、比較的落ち着いている。少なくとも興奮して暴れる様子はみえない。
そう考えると相手はますます獣ではないような気がした。
一行は慎重に進み出す。
その歩みは遅々としていたがアゼルは決して焦らなかった。浮き足立つ様子を見せれば相手の思うつぼだ。
さらに言うならば、ずっと後をついてこられるぐらいならここで仕掛けてもらったほうが楽だというのもある。
見えない脅威というのはそれだけ神経をすり減らすのだ。
それでも何事もなくアゼルが先程引き返してきた峠の中間地点を越えた。
その後も油断をせずに歩みを進め、ついにはなにかの気配が感じなくなるところまで来ることができた。
アゼルは軽く息を吐きだし後ろを振り返る。
「もう大丈夫だろう。だが休息はもう少し後にして先に進む」
そう言いながらリンボクが騎乗するのに手を貸してやる。
「後詰めは俺がする。レシア先頭に立ってくれ」
「いや、このままでいい。アゼルが先頭を行ってくれ」
レシアは背後の峠を見つめながらそう言った。
「――わかった」
アゼルもそれ以上は固執せずに、騎乗すると馬を進めた。
すでに昼を過ぎていたがアゼルは馬を止めることはせずに、峠からかなり下ったところまできてからようやく休息の合図をだした。
だが荷物は馬に載せたままで火も熾さず、干し肉や乾燥果物などで簡単に食事をすませる。
その後の休息時も荷物を下ろすことはせずに、いつでも出発できるようにしながら休みをとる。
そしてレシアと先頭を交代しながら、ゆっくりとだが着実に山を下っていった。
いつもなら陽が傾いてきたら準備をする野営も、この日は陽が沈むぎりぎりまで引っ張り、少しでも進むことを優先した。
夕食が終わり天幕に入ると、リンボクはあっという間に眠りに落ちた。
おそらくずっと気を張っていて疲れたのだろう。
アゼルは毛布をかけ直してやる。そして自分とレシアの毛布を手にとると天幕の外に出た。
レシアは熾火が消えない程度、わずかに回りを照らすように調整している。
たった三日で火の扱いが格段に上手くなったとアゼルは感心した。
立ち上がったレシアに毛布を渡すと、アゼルは天幕から少し離れた場所の雪をどけてから敷物をひろげる。熾火の明かりが二人に届かない距離だ。
各々が腰を下ろしたとこで、アゼルが口を開く。
「昼には聞けなかったが、峠にいたなにかの心当たり。話してくれないか」
レシアはどういう順序で話せばいいか考えるようにわずかに逡巡していたが、暗闇に浮かぶアゼルの瞳を捕らえると静かな声を出した。
「わたしはアレの正体を〈はぐれ獅子〉のようなものだと思っている」
「はぐれ獅子?」
アゼルは初めて聞いた言葉に思わず聞き返した。
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