リンボクの想い


 アゼルたちは北嶺山脈の山麓をゆっくりと長毛馬を登らせていた。

 まだ傾斜はゆるやかであり、雪も地面を覆っている程度だ。

 勾配がきつくなったり、積雪が多くなったりすれば馬を引いて歩くことも考えなくてはならない。だが道程と時期的なことを鑑みれば、騎乗したままでサルラン峠を越えられるはずだった。

 リンボクのことを考えるとそれは重要なことだ。いくら山育ちとはいえ、子供の体力で冬山を旅するのは厳しい。それと同時にリンボクの乗っている老馬にも気を配らなくてはならない。

 隊列はアゼルを先頭に、真ん中にリンボクを挟んで、最後がレシアという並びである。

 まだ街を出たばかりで危険はないと思うが、アゼルは常に周囲に目を配り、どんな些細な変化も見逃さないようにした。慎重すぎて悪いことはない。 

 アゼルは一刻ごとに休憩をいれ、昼になればきちんと積み荷を下ろして長毛馬を休ませる。

 馬だけではない、人間にも十分な休息が必要だ。

 アゼルは煮炊きをするために火をおこす。

 冬山の旅で唯一助かることがあるとすれば、水の心配をしなくてもすむことだ。現にアゼルは宿を出る時に、携帯用の水袋にしか水を入れてきていない。

 もし通常の旅ならば、確実に井戸のある場所を経由するとわかっていても、馬に吊るす大型の水袋にたっぷりと水を入れて出発する。

 そのくらい水は大切なものだった。

 アゼルは火にかけた鍋に周囲からすくってきた大量の雪を入れる。それはすぐに溶けてお湯になる。

 そのお湯にさらに雪を混ぜてぬるくすると、長毛馬のところに持っていき飲ませた。

 隣に来たリンボクに説明する。

「馬は喉が渇けば自ら雪を食べるが、できればそうさせないほうがいい。雪を食べると体温が下がって体力を使う。水も冷たいのは駄目だ、このくらいのぬるいのを飲ませるんだ」

 リンボクが頷く。

「今回は俺がやっているが、これから馬の世話はリンボクの役目だ。自分の馬だけじゃなくて他の二頭もちゃんと面倒をみるんだぞ」

「うん、わかった」

 リンボクは少し驚いたようだが、嬉しそうにこたえた。

 少人数の旅では仕事を分担する必要がある。それは子供だろうと大人だろうと変わりはない。

 アゼルは馬の分が終わると人間の食事を用意する。

 まず山羊の乳を温める。いくら冬山とはいえ日持ちのするものではないので、今日中に消費できる分しか持ってきていない。

 温まった山羊の乳を木椀にうつし、蜜蝋をひとかけら入れてリンボクに渡した。

「馬だけじゃない、リンボクもなるべく冷たいものは飲まないようにするんだ。移動中はしかたないが、休憩時なら水もなるべくお湯にしてから飲むように」

 リンボクは木椀に息を吹きかけながら頷いた。

 山羊の乳が苦手なレシアにはお茶を煎れてやる。

「あんたも冷たいものは極力飲むなよ」

「それはいいが毎回こんなにゆっくりとするつもりなのか?」

「そのつもりだ」

 それは冬山だからとか、子供であるリンボクがいるからという理由ではない。

 護衛士は旅の途中にきっちりと休む。よほどの緊急事態でもない限り、無理やり時間を作ってでも休息はとった。

 長期的にみればそのほうが効率がよいとわかっているのだ。それは旅を日常にしている者たちが経験から学んだものだった。

 温かい飲み物で一息ついている間に小鍋にチーズを入れ、火から少し離して温める。ちょうど具合よく溶けだした頃に鍋を引き上げた。

 それを三人が座る中央に置いて、リンボクとレシアにパンを渡す。

「パンはかさばるから今日の分しか持ってきていない。チーズは山羊のだからレシアは無理しなくてもいいが――まあ、ためしてみたらどうだ? 旨いぞ」

 アゼルはそう言ってパンを千切ると、小鍋の中の溶けたチーズをすくいとって口に入れた。

 リンボクもそれを見て真似をする。

「おいしい!」

「だろう」

 レシアはそんな二人をじっと見ていたが、なかなか手を出そうとはしない。だがパンだけを食べるつもりもないようだ。

 リンボクに悪戯っぽく「なくなっちゃうよ?」と言われて、ようやくパンを千切ると小鍋に手を伸ばした。

 冷めてきて固まりかけたチーズをパンにつけて口に運ぶ。

 飲み込んでからもしばらくは無言だったのだが、アゼルとリンボクが自分の反応を待っているのがわかったのだろう。

 怒ったように「わるくない」と評すると、その後は開き直ったように小鍋に手を伸ばす。

 アゼルとリンボクは顔を見合わせ、声を出さないで笑った。



 食事の片づけが終わると再び荷物を長毛馬に載せる。

 出発の前にアゼルはリンボクに、どこか痛いところがないか尋ねた。

「脚の内側が痛いかも」

 リンボクは内腿を抑えながら顔をしかめた。

 馬は駆けさせていないから、筋肉痛というよりは擦れて痛いのだろう。当たり前だが鞍は大人用だから、リンボクにとっては少し大きい。

「あ、あと……」

 リンボクはそこで少し躊躇ためらって恥ずかしそうに口に出す。

「これってお尻の骨なのかな? それがぶつかって痛い」

「ああ、尾骨びこつだな」

 アゼルはリンボクの臀部に手を伸ばし触ってみた。

「きゃあ!」

 リンボクが悲鳴ともつかない声をあげる。 

「強く押してないから痛くはないだろう? 触った感じリンボクはしっぽが長いな。実は猿の親戚なんじゃないか」

 アゼルはそう言って笑った。

 人も獣のように昔はしっぽが生えていたという言い伝えがある。尾骨はその名残だというのだ。

 個人差はあるが、この尾骨が人より出っ張っている者がおり、そういう人間は馬に乗ると鞍にぶつけて非常に痛むことがある。

 おそらくリンボクもそうなのだろう。

 そこでアゼルは場の空気に気がついた。

 笑っているのはアゼルだけで、リンボクは顔を赤らめて俯いており、レシアはさげすんだ目でアゼルのことを睨んでいる。

「すまないリンボク。強く触りすぎたか?」

 慌てて気遣うアゼルに対して、言葉を発したのはレシアだ。

「おい、唐変木」

「……俺のことか?」 

「おまえ以外に誰がいる。さすが女人の尻を触って悪びれもせずに笑っている人間は、自分がそうだという自覚がないのだな」

 アゼルはようやく二人の態度の理由に気がついた。

「待ってくれ。リンボクはまだ子供だろう」

 それを聞いて、レシアの目はよりいっそう冷たさを増し、リンボクはますます俯き、目には涙すら浮かべている。

 アゼルは自分がさらに口を滑らせたことに気づく。

「いや、違うんだ。リンボクすまない」

「おまえは救いがたい馬鹿だな。馬鹿だとは思っていたがここまで馬鹿だとは思わなかった」

 レシアに馬鹿、馬鹿と連呼されても、それに構っている余裕はない。

 リンボクの傍らにひざまずくと、その顔を覗き込むようにして謝る。

「リンボク本当にすまなかった。これからは気をつけるから許してくれ」

「ううん、大丈夫。気にしてない」

 リンボクは鼻をすすりあげ、気丈にこたえる。

 アゼルはとりあえず安堵して、できるだけ優しく尋ねた。

「ちなみにリンボクはいくつだ? まだ聞いてなかったよな」

「十二」

「――そうか十二か」

 アゼルは思う。十二歳はまだ子供だろうと。世間一般ではもう女扱いされる年齢なのかと。

 もちろん微塵たりとも態度には出さない。これ以上、女性陣との溝が深まれば、これからの旅路にまで影響が出かねない。

 ――そもそもレイナスが悪い。 

 アゼルはいない人間に八つ当たりをした。

 レイナスの弟子になった時、アゼルは十五歳だった。まだ大人になりきれず思春期の終わりといっていい頃だろう。

 そんな微妙な年齢のアゼルの目の前で、レイナスは平気で着替えをし、体を拭き、水浴びをした。

 冬の野営時など、寒いからとアゼルの毛布に潜り込んでくることが当たり前だった。ほとんど犬猫と同じような扱いだったといってよい。

 最初の頃こそ照れて反応に困っていたのだが、そのうち馬鹿らしくなり、しまいには何も感じなくなった。

 どうやら普通の女性はそうではないらしい。

 考えを改める必要がありそうだった。



 午後の行程の途中、アゼルは唐突に馬を止めた。

 リンボクたちにも止まるように指示すると、弓を取り出して長毛馬から降りる。

 緊張した様子のリンボクに、人差し指を立てて黙っているように合図すると、体勢を低くして風下から岩陰に回り込んで、矢をつがえた。

 アゼルが放った矢は雪へと吸い込まれた。


 見ていたリンボクにはその瞬間、雪が跳ねたと思えた。

 だがアゼルが矢の吸い込まれた場所に手を伸ばすと、何かを持っているのがわかる。よく見るとそれは雪兎だった。

 リンボクも目には自信があったがまったく気がつかなかった。

「よくわかったね」

 戻ってきたアゼルに声をかける。

「気配がしたからな」

「気配?」

「ああ」

 こんな小動物の気配も感じ取れるとは護衛士は凄いと思う。それともアゼルが特別なのだろうか。

 昼の出来事についてリンボクは怒ってはいない。たしかに少しは傷ついたが、アゼルから見れば自分はまだ子供なのだろう。

 それでもできれば大人扱いをして欲しい。それは早摘みに自分が行くと決めた時から思っていたことだ。

 だから馬の世話が自分の役目だと言われた時は嬉しかった。

 リンボクは父親であるステノハが亡くなった時から、母親を助けるため、祖父母や幼い弟妹たちの面倒をみるため子供であることを辞めた。

 だが一朝一夕には大人になれない。

 だから父が何度も聞かせてくれた早摘みの旅を自分が成功させる。それもただ守ってもらうだけでなく、護衛士を助ける存在として。

 そうすればみんな大人として認めてくれるだろう。

 それがリンボクの想いだった。

 それはアゼルからみれば冷静さを失っているということになるのだが、リンボク本人がそれに気づくことはなかった。


 アゼルは荷物に雪兎を括り付けると、素早く長毛馬に跨った。

 肉は貴重な栄養源だし、そのぶん保存食を減らさなくてすむ。

 旅の途中でわざわざ求めてまで狩りはしないが、余裕があるなら可能な限り調達したいものではあった。したがって護衛士は弓の扱いに長けているものが多い。

 アゼルはレシアのことを考えた。

 弓を所持しているのは知っていたができれば腕前も見ておきたい。いざという時に使い物になりませんでは困る。

 今の雪兎を射らせてみるべきだったか。

 今晩の兎肉よりもそのほうが大事だったかもしれないと少し後悔した。

 弓以外にもレシアの護衛士としての適正を確かめておきたいところではある。

 野営時に少し仕掛けてみるかとアゼルは考えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る