北嶺山脈の懐で


 リンボクの家は山の斜面に半ば埋もれるようにして建っていた。

 北嶺地方に多くある、放牧を生業とする者の一般的な住居とおなじ石組みの家だったが、その石があちこちで崩れ、欠けているのが見てとれる。

 牧畜の囲い柵もいたるところで折れており補修が必要な状態だ。

 元々の貧しさと、一家の柱がいなくなった影響がわかる家だった。

 アゼルがここを訪ねるのは初めてである。

 リンボクの父ステノハとはいつも宿で別れていた。ただ今回はいくつかの理由があり訪問したのだ。

 アゼルたちが近づいていくと犬がけたたましく吠えかけてくる。リンボクはそれに駆け寄って「静かにしなさい」と黙らせた。

 するとそれを聞きつけたのか、家から小柄な女性が姿をあらわす。

 リンボクが「お母さん、アゼルさんが来てくれた!」と呼びかけながら走っていくと、母親がこちらに礼をしてくる。アゼルとレシアも礼を返して歩み寄った。

 母親の顔立ちはリンボクにそっくりだった。だがその日焼けした顔には疲れの色が隠せない。それでも凛としたものが感じられ、ステノハの妻、リンボクの母ということが素直に納得できる女性だった。

 母親はミツスイと名乗った。

 アゼルたちも名乗り挨拶を交わしていると、家の中から小さな子供たちが顔を出す。リンボクの弟妹なのだろう、こちらを興味深そうに見ている。それをリンボクが押し戻すようにして、いっしょに家の中へと消えた。

「汚いところですがよろしかったら中へ」

「いえ、長居はしませんので」

 申し出を断り、アゼルは姿勢を正す。

「ステノハさんは残念でした」

 ミツスイは目を伏せる。

「いえ、あの人が自分で決めたことでしたから、危険は承知だったと思います。わたしもいつかこうなるのではと覚悟はしていました。それをいうなら、あの、アゼルさんも……」

 最初は何のことかわからなかったが、それがレイナスのことを言っているのだと気づいた。

「師匠は護衛士でしたから、それこそ覚悟はできていました。――でもよくご存じでしたね」

「あの人は早摘みから帰ってきた時だけでなく、いつでもあなたたちの話をしていましたから。他に娯楽がないというのもありますが、子供たちも喜んでそれを聞いていました」

 それにはアゼルは首をかしげてしまう。自分たちは子供が聞いて喜ぶような活躍はしていない。 

「レイナスさんが亡くなられた年も、アゼルさんが引き続き護衛を引き受けてくれると聞いてあの人はとても安心していました。帰って来てからもずっと、あなたのことを素晴らしい若者だと自慢するように話していて、まるで身内の人間みたいねとわたしはよく笑っていました」

「師匠のことではなくて?」

「いいえ、あなたのことをですよ」

 ますます首をかしげる話だ。ステノハは何かとんでもない勘違いをしていたんじゃないかと思ってしまう。

「……死ぬ間際もアゼルさんの言うことを聞いて全部任せろ、あの人は信頼できると、譫言のように繰り返していました。……もっともそのせいでリンボクが変なことを考えたみたいで」

 ミツスイは振り返るが家の中は暗く、その様子はうかがえなかった。 

「わたしがいくら駄目だといっても、自分が早摘みに行くときかなくて、それならアゼルさんが何と言うか聞いてみましょうと言ってしまったんです。それからは毎日、宿に顔を出していたみたいなのですが、一昨日は遅い時間に暗い顔をして帰ってきて、アゼルさんに会えたのかと聞いても生返事しかしなくて」

 ということはリンボクは母親に相談せずにいたのだ。やはり自分が早摘みに行くということに関しては冷静さを失っている。

「昨日も固い表情で戻ってきて、早摘みに行けることになったと、それだけしか言わなくて。アゼルさんのことを聞いても何も話さないので、どうなっているのかとずっと心配だったんです。それがさっき久しぶりに明るい表情を見ました。あなたがいっしょに来てくれたからだったんですね。……それで実際はどうなんでしょう。本当のことを聞かせてください」

 やはり母親としては行かせたくはないのだろう、当然のことだ。しかしリンボクは嘘をついてまで自分で早摘みに行こうとしている。

 冷静に考えるならこれまでのやりとりをすべて教えて、リンボクを早摘みに行かせないようにするべきだったが――。

「俺と――」後ろをちらと振り返る「レシアが責任を持って早摘みの護衛をします。娘さんを無事に連れ帰ることを約束します」

 それを聞くとミツスイは深く頭を下げた。



 弟妹の相手を終えて戻ってきたリンボクに、馬屋まで案内してもらう。中には痩せた長毛馬が一頭だけいて、リンボクを見ると前脚を掻いた。

「朝ごはんは食べたでしょ」

 そう言いながらリンボクは馬の首を撫でてやる。

 この長毛馬のことは知っていた。初めて会った時からステノハが乗っていた馬だ。かなりの老馬だったので、はたして今年も峠越えに耐えられるのかどうか確かめにきたのだ。

 アゼルは脚や毛づやを慎重に確認していく。

 健康状態は悪くない、だがやはり年齢の影響は大きい。貸馬屋の一番悪い馬でもこの老馬に劣るのはいないはずだ。

「世話はリンボクがしているのか?」

「うん。お父さんが生きていた頃だってあたしがやってたよ」

 たしかに先程の様子を見ていると、よく慣れているようだ。

「乗ったことは?」

「……あんまり。でも、大丈夫だよ。ちゃんと乗れるよ!」

 アゼルはしばし黙考する。

 馬の体力が衰えていても、慣れていて意志の疎通がとれるほうが安全だろう。リンボクは体重が軽いし、積み荷もかさばりはするが軽いケトランディを載せれば負担は少ない。そう判断した。

「わかった。リンボクの馬はこいつでいこう」

 リンボクが喜んで馬の首に抱きつくと、馬が応えるように顔を擦りつけてきた。

 微笑ましい光景をずっと眺めていたいところだが、他にも確認することがある。

「次はケトランディと、他の積み荷の準備ができているか見せてくれ」

「うん、こっち」

 アゼルはリンボクの後に続く。 

 レシアは終始無言で二人のあとをついてきていた。



 諸々の確認が終わり、アゼルが最後に案内してもらったのはステノハの墓だった。

 墓といっても一抱えほどの岩を墓標代わりにしただけの場所だった。

 この時期の北嶺地方では手向ける花もない。ステノハが酒を嗜むのなら持ってきてもよかったが、体を温めるために口をつける程度だったので、結局は手ぶらできた。

 アゼルは墓に向かって黙祷した。 

 霊魂の存在は信じていないので、リンボクを守ってやって欲しいなどと語りかけることはしない。なによりそれは自分の役目だ。

 アゼルが下がると、入れ替わるようにレシアが墓の前に立つ。

 少し意外だったが何も言わずに待つことにした。

 眼前に迫る北嶺山脈を仰ぎ見る。

 この雄大な、それでいて何も語らずにそこに在り続ける山こそが、ステノハの墓標なのかもしれない。あの無口で朴訥な男にふさわしかった。

 視線を西の空へと移す。遥か遠方まで雲はかかっていない。

 護衛士ならば、誰でもある程度は天気を予測できるようになる。それでも山の天気は変化が激しく難しい。

 父親の墓のそばで俯きながら残雪を踏みしめている少女に尋ねる。

「リンボク、これからの天気はわかるか?」

 声をかけられ物思いから覚めたのだろう。少し驚いたようにアゼルを見てから、空に目を向けなおす。

「――しばらくは良い天気が続くと思う。最初の大雪が降るまでには一ヶ月はあるかな。ううん、もうちょっと遅いかも」

「そうか」

 さすが山育ちだった。アゼルの見立ても似たようなものだったが、それは知識から割り出したものだ。

 レシアがステノハの墓から戻ってくる。

「出発は明後日にしよう」

「あたしは明日でも大丈夫だよ?」

 リンボクが怪訝そうにアゼルを見る。

「いや、リンボクには申し訳ないが俺たちのほうの準備がまだなんだ。なにぶん急だったからな」

「そっか、そうだよね」

「それじゃあ明後日の朝に迎えにくる」

「それだと遠回りだよ。あたしが宿に行くよ」

「長い旅だ。少しぐらい遠回りでもかまわないさ」

 アゼルは小さく微笑む。

 リンボクはそれを見て不思議そうな表情を浮かべたが頷いた。

 


 宿へと向かう緩やかな斜面を下っている途中でレシアが口を開いた。

「なぜ明日、出発しないんだ?」

「実際に準備がある。あんたの乗る馬とかな」

 レシアが睨みつけてくるのを笑っていなす。 

「冗談だ、怒るな」

 そこでアゼルの口調は重くなる。

「……母親に無事に連れ帰ると約束はしたが、どうなるかはわからない。ひょっとしたら今生の別れになるかもしれないからな、一日でも一刻でも長くいっしょにいさせたいだけだ」

 そのまま無言で歩き続け、来るときに二人が戦った場所を通り過ぎたところでレシアが呟いた。

「……おまえは甘いよ」

「そうかもしれない」

 その後は一言も口をきかずにぬかるんだ道を歩き続けた。



 宿に着くと驚く光景が目に入ってきた。

 傷の男が長毛馬を引いて馬屋から出てきたのだ。

 完全に旅装を整えており、どう見ても出立の姿だった。通常なら旅人は朝一番に出発する。まだ午前中とはいえもう昼が近い。

「今からつんですか?」

 アゼルは近寄り声をかけたが、レシアは目を合わさずに黙って通り過ぎると宿の中へと入っていく。

 傷の男はそれを横目で見て、扉が閉まったのを確認してからアゼルへと向きなおる。

「どうせ峠前で次の日に一気に超えられるように調整するんだ。その分だと思えばおなじようなもんだ」

「それにしても急ですね」

「早摘みにあぶれちまったからな。ここにいても他の仕事の口はない、さっさと中央平原に戻ったほうがいいだろう」

 それは確かにそのとおりだ。だが傷の男が早摘みの仕事にあぶれるとは意外だった。護衛士としてかなり腕は立つと思っていたのだが、差配師である宿の主人はそう判断しなかったのだろうか。もしくは依頼人との兼ね合いか、それとも――。

「……ひょっとして、俺と組む予定で空けていましたか?」

「気にするな、俺の判断が甘かっただけだ。どっちにしろ俺は嬢ちゃんが自ら行く場合の護衛を受けるつもりはなかったからな、おまえとは縁がなかったんだろうよ」

 傷の男は皮肉気に笑った。

「すみませんでした」

 アゼルは頭を下げる。

「謝るなって。じゃあな」

 そう言うと傷の男は軽やかに長毛馬に跨る。馬の腹を蹴って進もうとするのをアゼルが止めた。

「そういえばまだ名前を聞いていませんでした。俺はアゼルです」

「言わなくてもおまえの名前は知ってるよ。でも俺は名乗らなかったか?」

 アゼルはよく名乗り合いをする日だなと思いながら首を振る。

 それでも傷の男は宙を見やりながら「そうだったか?」と思い出していたが、それも面倒くさくなったらしい。

「まあどっちでもいい。俺はジェヤンだ」

 そう言うとあっさりと馬を進めた。

 護衛士にとって別れは日常のことだ、感傷に浸るようなことはしない。縁さえあればまた会える。

 だがジェヤンは数歩で馬を止め馬上から振り返る。

「アゼル――」

 何かを言いかけたその目には、この男には珍しく迷いが見てとれた。

「――いや、なんでもない」

 そして今度こそ振り返ることなく去っていった。


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