実らぬ説得
アゼルはいつものように夜明け前に自然に目が覚めた。
瞬きひとつする間に覚醒し、自分がどこにいるか把握すると、部屋が眠る前と変わりはないか見回した。そして寝台の脇に立てかけてある剣に手を伸ばし、
安全な場所での二度寝、これ以上の幸せがあるだろうか。
アゼルは目覚めた時と同じ早さで、あっという間に眠りの世界へと落ちていった。
次に目が覚めた時には、山の稜線から太陽が完全に姿を現しており、宿の中からは人が慌ただしく動きまわる音が、外からは街の住人の話し声が聞こえていた。
北の国の朝は寒く、部屋の中でも吐く息が白いのが見える。
アゼルは手早く身支度を整えると階下へと降りていった。
食堂に入るとすでにリンボクがきていることに驚いた。二度寝のせいで待たせたとしたら申し訳ないことをした。
気になるのは、リンボクと同じ席に昨日の女探求者がいることだった。しかも何やら話し込んでいる。
他には護衛士らしき男が数人と、あの傷の男の姿もあった。
リンボクがこちらに気がついたので、待っているように手で示すとアゼルは宿の主人の元へと歩み寄った。
「親父さん、おはよう。とりあえず温かい山羊の乳を二人分もらえるかな」
「おはよう、アゼル。ひとつはリンボクの分かな? だったら蜂蜜をいれてやろう、あんたもいれるかい?」
「いや、朝飯前なんで俺はいいです。それで昨日は結局どうなりました?」
宿の主人は炉にかけた鍋で温めた新鮮な山羊の乳を木椀へと注ぐと、そのひとつにたっぷりと蜂蜜をたらしてかき混ぜた。
「そういやアゼルは、山羊の乳でも肉でも平気だな。くせがあるから平原出身だと苦手な人間も多いんだが」
「護衛士をやっていれば、どこの国の料理でも食べられるようになりますよ」
「いやいや、そんなことはないぞ。苦手な奴はとことん苦手だったりする。まあ、おまえさんの場合は師匠譲りってところか。おっと、すまん。昨日の話だったな」
アゼルは曖昧に笑うだけにとどめ続きを待った。宿の主人が話すのをためらうところをみると、わかってはいたが良い結果にはならなかったようだ。
「……馬は埋葬したよ。最期はあの女探求者が楽にしてやった。やるとなったら泣き言はいわず実行するあたり、さすがアストリア軍人といったところか」
「有能な奴なら、そもそもあの馬でここには来ないでしょう」
「そりゃあそうだがな」
木椀を受け取るとアゼルはリンボクたちの席へと向かった。
足音とリンボクの視線で気がついたのだろう、女探求者は振り向いてアゼルのことを見た。
「……貴様、昨日わたしに抱きついてきた奴だな」
「人聞きの悪いことを言わないでもらえるか。あんたが暴れているのを取り押さえようとしただけだ」
リンボクが目を丸くして、アゼルと女探求者を交互に見ている。
「貴様の無礼については後でゆっくり詮議してやる。この娘が言うには、優秀な護衛士らしいが、何をもってそう名乗っている?」
「俺自身の口から自分が優秀だと言ったことはない。この子の場合は、親父さんが長いこと俺の雇い主だったから、そう思っているだけだ」
アゼルはほんのわずか会話をしただけで、この女探求者とは二度と関わるまいと心に決めた。自分が正しく、相手よりも偉いと思っている人間には何を言っても無駄であり、近づかないようにするしか打つ手はないのだ。
アゼルは湯気の立つ木椀を手に持ったまま、リンボクに声をかける。
「待たせたみたいだな、すまない。向こうで話そう」
しかしリンボクは席を立とうとせず、俯いてアゼルと目を合わせようとしない。
「この娘の口からは言いづらいだろうから、わたしが言おう。今回の早摘み、貴様には依頼しないそうだ、代わりにわたしが護衛をする」
「……なんだと」
「聞けば、貴様はこの娘の事情を斟酌せずに難癖をつけてばかりだそうだな。自信がないのならはっきりとそう言えばいい。優秀などと持ち上げられても、所詮は護衛士などその程度だ」
侮辱されてもアゼルは女探求者を見てはいなかった。
「リンボク、どういうことだ?」
アゼルの厳しい口調に、ようやくリンボクが口を開いた。
「……この人は、あたしが早摘みに行ってもいいって。そうすれば村人を雇わない分、儲けがでるし……」
「それだけじゃない。護衛もわたしひとりで十分だし、報酬も辞退した。これでこの娘の稼ぎは例年よりもはるかに多くなる。わたしは困窮している依頼人からでも報酬をぶんどろうとする、卑しい護衛士とは違うからな」
唖然とするアゼルを見て、女探求者は満足そうな笑みを浮かべた。
アゼルは木椀を食卓に置くと、リンボクの両肩に手をのせ真っ直ぐにその目を見つめた。
「いいか、リンボク。よく聞くんだ。おまえがやろうとしていることは、自ら死にに行こうとしているようなものだ。この女は本職の護衛士ではないし、冬の北嶺山脈越えをまったくわかっていない素人だ。俺を雇わないのは構わない、だがこの女だけは絶対に駄目だ」
「何を言うかと思えば」
女探求者は鼻で笑う。
「戦いの腕なら護衛士などわたしの相手にはならないし、貴様がわかっていないという、その北嶺山脈を越えてわたしはここにいるのだがな」
「そのせいで愛馬をむざむざ死なせるような無能は黙っていろ」
「なんだとっ!」
女探求者が椅子を倒して立ち上がるが、アゼルはそれにはいっさい構わず、リンボクの目だけを見ていた。
「報酬にしてもそうだ。報酬は単なる金じゃない、護衛士を縛る契約なんだ。わざわざ前金で半額を渡すのは、途中で護衛を降りる場合には、違約金で倍の金額を払わないといけないからだ。もし報酬を払わないなら、困難な状況になって護衛士が逃げ出しても、雇い主にそれを咎めるすべはない。正当な報酬は、それに誓って依頼を遂行するという護衛士の決意の証しであり、それをいらないなどという人間は護衛士という仕事を何もわかってないただの馬鹿だ」
「よく回る口だな。いいか娘、騙されるな。こいつは自分の仕事を奪われないように必死な、ただの守銭奴だ。わたしはアストリアの名誉にかけて、途中で依頼を放棄するようなことは絶対にしない!」
「リンボク、親父さんは何と言った。俺に任せろと言ったんじゃないのか? いいか、俺を信じろとは言わない。だが、親父さんのことは信じられるはずだ」
大人ふたりに詰め寄られ、リンボクは蒼白になっていた。当事者だけでなく、宿の主人や護衛士たち、その場にいる全員の視線がリンボクに集まる。
長い時間が経ってからリンボクはようやく口を開いた。
「……ごめんなさい。あたしはやっぱり、自分で……行きたい」
女探求者は勝ち誇った笑みを浮かべた。
首を振りながら顔を曇らせたのは宿の主人と客の護衛士たちであり、アゼルの表情は変わらなかった。
アゼルは無言で立ち上がると階段へと向かった。そこへ宿の主人が近づいてくる。
「親父さん、すまないが朝食はいい。もうひと眠りさせてもらうよ」
「あれでいいのか?」
「……リンボクが決めたことだ。あえて死にたいというのなら仕方がない。俺は言うべきことは言ったつもりだ」
しかし、そう口にした声は、アゼル自身にも覇気のないものに聞こえた。
部屋に戻って寝台に寝転んではみたものの、眠気は完全に去っていた。
アゼルの頭の中には次々と浮かんでくる想いがあった。
師匠のこと、ステノハのこと、自分が護衛士になった時のこと。
色々なことを考えたが結局はひとつのことに戻ってきてしまう。今回の件、リンボクをどうするかに。
――そして、師匠ならどうしていたかに。
結論は出ないままに時間だけが過ぎ、我に返ればすでに夕暮れが訪れていた。
アゼルは激しい空腹を感じ、朝から何も食べずにいたことに気づく。
無為に一日を過ごしたことに後悔しながら階下へと向かった。
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