レイナスの息子
夕食の時間に少し早い食堂には、リンボクも女探求者もいなかった。代わりに傷の男がいて、アゼルに気づくと酒壺を振って顎で自分の前の席を示した。
アゼルは宿の主人から杯だけもらうと素直に席に座る。
「朝の騒動は見させてもらった」
言いながら傷の男はアゼルの杯に酒を注ぐ。透き通った色と匂いから火酒だとわかる。かなり強い酒だがアゼルは一気に杯を傾けた。
臓腑に熱いものが届いて空腹だったことを思い出したが、気にしなくてもいいだろう。元々酒には強い。
そんなアゼルをじっと見ながら傷の男は聞いてくる。
「いいのか?」
「……よくはない。だがリンボクが決めたことです」
二人ともしばらく黙ったままだったが「そうか」と一言だけ呟いて、傷の男は再びアゼルの杯に酒を満たした。
その後も互いに無言のまま、山羊の腸詰めを肴に酒を飲んでいたが、おもむろに傷の男が口を開いた。
「そういえば宿の親父から聞いたんだが、おまえ――」
アゼルには傷の男が次に何と口にするかがわかる。
「レイナスの息子なんだって?」
「正しくは息子じゃなくて弟子ですよ」
これまでに幾度となく訂正してきたことを繰り返した。
レイナスは師匠の名前だ。
そしてレイナスは死後二年経った今でも、護衛士の仲間内で名前があがる程度には有名だった。ただ先の将軍のように吟遊詩人の歌になるような傑物ではない。
もちろん腕は確かだったが、同程度の実力の持ち主はそれなりにいるだろう。
それでもレイナスが有名だったのは、ひとえに女だったからに他ならない。
どうしても荒事が多い仕事だ。男と比べるとやはり数の上では圧倒的に少ない。
いたとしても隊商の専属だったり、護衛士集団に所属していたりする場合がほとんどだが、レイナスは流しの護衛士だった。
年齢のこともあった。
女護衛士のほとんどは二十代の体が動くうちに稼げるだけ稼いで、三十になるとそれを元手に商売を始める者が多い。
まためったにないことではあるが、護衛相手の隊商の若旦那に
しかしレイナスは三十を過ぎても護衛士を続けた。その頃からだ、護衛士内でレイナスの名が知られるようになってきたのは。
そしてレイナスは三十半ばで唐突に弟子をとった。
そもそも護衛士の弟子との関わり方は、はっきりと二つに分かれる。
ひとつは護衛士集団を作りそこで数多くの弟子を育てる者。
もうひとつは弟子や仲間を持たない完全な一匹狼。
レイナスもそんな一匹狼の護衛士だったのが弟子をとった。それがアゼルであり、レイナスの生涯で唯一の弟子だった。
この事は護衛士たちの間ではちょっとした話題になった。それには理由がある。
その時のレイナスは三十半ばで、アゼルは十五歳だった。つまりちょうど親子ほどの歳の差だったのである。
そのせいでアゼルはレイナスの隠し子だという噂がまことしやかに流された。もちろんそんな事実はない。
だがこの噂のせいで、アゼルには〈レイナスの息子〉という異名が付きまとうことになる。
正直なところ迷惑だった。世間はレイナスの名を過大評価しており、弟子であるアゼルのことも、レイナスの息子として同じようにみている節がある。
自分は独り立ちしてまだ二年たらずの若造だと、アゼルはそう考えていた。
傷の男はそんなアゼルの胸の内を知ってか知らでか「なるほどな」と、ひとり納得したように頷いている。
「なにか?」
アゼルの問いかけにはこたえずに、自分の杯を空けると傷の男はおもむろに提案してきた。
「今回の早摘みの仕事、俺と組まないか。もちろん
アゼルは驚いた。
傷の男が組もうと言ってきたのはそれほど意外ではない。お互いに一人だったし、早摘みの護衛は二人が最善とされている。最初に会った時にリンボクを説得した関わりもある。
驚いたのは頭をアゼルに譲るという判断だ。
複数の護衛士で仕事をしている時に、頭が誰かということはとても重要なことだ。
今回のように見ず知らずの護衛士同士で組むことは、流しでやっていればよくあるが、そういう時でも必ず頭を決める。
安全な場所で時間もあるのなら、意見が分かれても話し合いをすることができる。しかし咄嗟の判断が必要な場面では、そんな悠長なことは言っていられない。
そんな時は頭の決定が絶対であり、それに従わなくてはならない。それは護衛士の掟といってよい。個々が好き勝手に動いたら助かるものも助からないからだ。
そもそも護衛士は、危険と隣り合わせの中、己の才覚ひとつで生きる
それだけに自分よりも実力の劣る者、経験の少ない者の下につくことには激しく抵抗する。なにも矜持だけの問題ではない、そういった人間の誤った判断のせいで危険にさらされれば命に関わるのだ。
だからアゼルは傷の男の言葉に驚いたのだ。
年齢的には自分より十近く上だろう。かなりの場数を踏んでいそうだというのは昨日も感じたことだ。
「組む、組まないは置いておいて、なぜ俺が頭なんです?」
率直な疑問を口にする。
「おまえがレイナスの息子だからだよ」
それを聞いてアゼルは軽い失望を感じる。
この男もレイナスの息子という幻想に惑わされていると思ったからだ。
そんなアゼルの変化を感じとったのだろう、傷の男が笑う。
「おい勘違いするなよ。俺がおまえと組みたいと思ったのは、昔レイナスといっしょに仕事をしたことがあるからだ」
アゼルは思わず身を乗り出した。
「聞かせてもらえますか」
もちろんそういった人間とは以前にも会ったことがある。
だがレイナスが死んで時間が経つほどに、彼女の生前のことをもっと知りたいという想いが強くなっていた。
「最初に断っておくが派手な話じゃあない。どちらかというとつまらない話だ」
傷の男は厨房に向かって火酒の追加を頼むと語りだした。
十年程前、傷の男はようやく独り立ちした新米護衛士だった。
差配屋を通して斡旋された仕事は、主要街道を行く大きな隊商の護衛であり、楽な仕事にありつけたと無邪気に喜んだ。
規模が大きくなれば隊商の使用人も、雇う護衛士の数も多くなる。それだけで襲う方は尻込みするものだからだ。
ただそれだけの規模にも関わらず、専属の護衛士もおらず、名のある護衛士集団を雇うでもない。流しの護衛士を集めるあたりに何かあると疑ってもよかったが、傷の男もまだ若かったということだろう。
雇われた護衛士は六人で、その中に名前を知られ始めたレイナスがいた。
傷の男もこれが噂の女護衛士かと思ったが、どちらかといえば三十にもなって女だてらに護衛士をと、軽んじていたのは否めない。
護衛士たちの話し合いで、頭は四十半ばの男に決まった。最も年長だったし、腕っぷしが強いとの評判もあり、妥当な人選といえただろう。
そして問題は旅を始めてすぐに表面化した。
隊商を率いる隊長が護衛士のいうことをまったく聞かないのだ。
護衛士は安全を確保するために細心の注意を払う。隊の進む速度や野営の場所をはじめ、細かいことをあげればきりがない。しかしこの隊長はそれらをいっさい無視して自分のやりたいようにやった。
当然のように頭が、これでは安全を保障できないと交渉したのだが、返ってきたのは「おまえたちは野盗や獣を撃退するのが仕事で、それ以外は口出しするな」という呆れ果てた物言いだった。
誤解している者も多いが、護衛士は戦うことが役目ではない。戦いを事前に避けることが役目なのだ。
もちろんいざ戦いになれば命をかけても務めは果たす。しかし事前に避けることができる危険に敢えて飛び込むのはただの愚か者であり、そんな護衛士は三流以前に長生きができない。
それでも最初のうちは頭をはじめ他の護衛士も辛抱強く隊長に進言し、なんとか隊の安全を確保しようとしてきた。しかし隊商の規模が大きいことも災いし、統率を取るのが無駄な努力であるとわかると、護衛士たちは見切りをつけた。
途中で護衛を降りれば違約金が発生するためそれはできない。できるのは何事もなく無事に着くことを祈るだけであり、その後は護衛士内にこの隊商の依頼を受けないよう広めることぐらいだ。
護衛士たちは誰もが腹を立てていたが、特に頭の怒りは相当で、隊長と話すことはおろか顔を合わせることも避けていた。
それでも隊がなんとか秩序を保ちつつ、無事に旅を続けていけたのはレイナスがいたからだろう。
彼女は頭の代わりに自ら進んで隊長との交渉役を引き受け、宥めすかしながら隊の安全のために気を配り、それでいて決して独断では動かず、必ず頭の許可をとってから隊を動かすようにしていた。
護衛士たちそれぞれとも会話を重ね、やる気のない護衛士たちに最低限のことだけでいいから協力してくれと頭を下げる。
もちろん傷の男の元にもレイナスは来た。
実はこの時、護衛士の中で一番若かった傷の男は、不満のはけ口として仲間から八つ当たりをされていた。
レイナスはそれに気づいていたのだろう。慰めてくれ、その後は可能な限り視界に入る位置にいるようになった。
護衛士仲間も女であるレイナスに、下っ端にあたる姿を見られるのは恥ずかしいと思ったのだろう、それ以後はそういったことはなくなった。
傷の男はなるべくレイナスの力になれるように働き、他の護衛士も徐々に感化されたのか、旅の終盤には通常の護衛と変わらないまでに統率がとれていた。
結局、危険な目に合うことなく、無事に目的地に到着した。
しかし報酬を払う段になって隊長が余計な一言を口にする。よりにもよって「これで金が貰えるのだから良い商売だな」そう言ったのだ。
よく血が流れなかったものだ。
頭をはじめ剣に手をかけていた者はいたし、傷の男もその一人だった。
だが剣が抜かれるより早くレイナスが隊長を平手で打った。
そして頬を押さえ目を見開いている隊長に静かな声で告げる。
「わたしが今回尽力したのは、何の罪もない下働きの人たちがあなたの愚かさのために犠牲になるのを見たくなかったからです。あなたやあなたの荷がどうなろうと知ったことではなかった。むしろ襲撃があってあなただけ死んでくれればいいと願っていた」
その言葉に隊長だけでなく、周りの護衛士たちも思わず息を呑む。
「今回あなたが生き残れたのは運が良かっただけです。それは今この瞬間もそうなんですよ」
隊長はそこで初めて護衛士たちが剣に手をかけていることに気がついたらしい。
狼狽する隊長にレイナスは表情をゆるめ、諭すように続けた。
「幸い人は学ぶことができます。今回の件をどう思うかはあなた次第です、できれば良い教訓として活かしてくれることを願っています。――殴ってすみませんでした」
そして深々と頭を下げた。
――師匠らしい。アゼルはそう思った。
「どうだ、似ているだろう?」
そう言われてもなんのことかわからない。
瞬いているアゼルに対して、傷の男は心底おかしそうに笑う。
「おいおい、本当にわからないのか。おまえとレイナスは考え方がそっくりなんだよ。護衛士としての理想が高くて、雇い主に対するおせっかいなまでの献身性がある」
それは意外すぎる言葉だった。アゼルにはレイナスと自分が似ていると思ったことなど一度としてなかったからだ。
「レイナスの息子とはよく言ったもんだぜ。おまえはその名が気に入らないみたいだが俺にしてみれば羨ましいくらいだ。これでおまえを頭として組んでみたいといった理由もわかっただろう?」
わからなくはない。だが傷の男の求めているのはあくまでもレイナスの面影であり、たとえ似ていたとしてもアゼルはその代わりには決してならない。むしろ期待のぶんだけ落胆も大きいはずだ。
そしてアゼルには傷の男と組めない理由ができた。
それは一日中考えていたことだったが、
「申し訳ないですが組むことはできない。あなたが駄目だということではない、ただ俺にはやらなければいけないことがある」
傷の男は笑みを納めて真顔になる。
「……おい、まさか馬鹿なことを考えているんじゃないだろうな。俺と組むのはどうでもいいが、それだけはやめておけ」
適切な助言だろう。アゼルには傷の男が真剣に自分の心配をしてくれているのがわかった。
だがアゼルはそれには返事をせず、ただ杯を傾けた。
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