意志を継ぐ者


                 ◇◇◇


 ルディニア大陸には縦横に張り巡らされた無数の道がある。

 海洋輸送のできる海は南に遥か遠く、北は氷結海だった。

 大陸の移動は道に頼らざるをえず、道と共に発展してきた。

 多くの人と物が行きかえば、当然それを狙う者が出てくる。

 国や都市国家は、旅人の安全を守るため関所や監視所をつくったが、それらは砂漠の一粒の砂でしかなかった。

 そのために旅人を守ることを生業とする者たちが現れたのは必然だろう。

 彼らを護衛士と呼ぶ。


                 ◇◇◇




 アゼルがザヤの街に着いたのは、夕陽が山の稜線に隠れる少し前だった。

 峠を越えてから二日、北嶺の西地域ではもっとも大きな街で、これ以上の規模となると北嶺には主都しかない。

 しかし中央平原でならせいぜい大きめの村といった程度で、簡素な建物や、賑わっているとは言い難い市場いちばなどが、この地の貧しさを物語っていた。

 アゼルはザヤで一軒しかない宿の門をくぐる。

 馬屋へと長毛馬を引いていくと、中から十二、三歳の少年が出てきた。

「いらっしゃいませ、お疲れでしょう」

 覚えたてらしい、たどたどしい接客が微笑ましい。

 去年までいた馬屋番はもう少し年嵩としかさだったから、今年から雇われたのだろう。見るからに利発そうな顔をしていた。

 それも当然だった。山羊の放牧ぐらいしか産業のないこの地では、冬になれば出稼ぎに行かなければならない。しかし大人でも仕事にありつけないことは珍しくなく、ましてや年端のいかない子供が仕事を得るのは大変だった。そんな競争の激しい中から雇われたこの少年は、物覚えも良く優秀なのだろう。

 アゼルは少年に手綱を渡した。

「よろしくな」

「水と飼い葉をあたえておくね」

「それと汗をよく拭いておいてくれ、風邪をひかせないように」

 そう言いながらアゼルは、わずかばかりの心づけを少年に手渡した。

 少年は最初、それが何かわからないようできょとんとしていた。おそらく心づけを受け取ったのは初めてなのだろう。

 下働きの人間にそんなことをする者は多くない、しかし師匠は違っていた。

じかに接するのは下働きの人間なんだから、その人たちにこそ気を使うべきさ」

 そう言って、給仕や使い走りにさりげなく心づけを渡していた。

 実際そのおかげで、危ない目に遭いそうなところを助けられたことが何度もあった。アゼルはその教えを一人になってからも忠実に守っていた。

 アゼルが微笑みながら頷くと、それを見て少年は満面の笑顔を浮かべた。

「飼い葉は今年の新藁をやっとくよ!」

 足取りも軽く長毛馬を引いていくその姿を、アゼルは笑いながら見送った。


 重い木の扉を開けて宿屋の中へと入ると、むっとする暖気がアゼルを包んだ。

 入ってすぐは食堂を兼ねた土間で、奥で暖炉が赤々と燃えている。

 その暖炉の傍に立ってこちらを振り向いたのが、宿の主人であり、この街の差配師さはいしだった。

 大きな街なら差配屋はそれだけで独立しているところもある。しかし小さな街では宿屋を兼ねていることが多かった。

「おお、アゼル! 今年も来たな。無事な姿を見られて嬉しいぞ!」

「なんとかやっているよ。親父さんも元気そうでなにより」

「いや、歳をくったさ。最近は腰が痛くていけねえ」

 豪快に笑う宿の主人は四十半ば、北嶺の住人としては大柄で、髪と同じ褐色の髭を自慢にしていた。おそらくは氷結海沿岸に暮らす民の血が混ざっているのだろう。

 アゼルが会うのは一年に一度だけだが、こちらを覚えてくれているし、良くもしてくれる。差配師らしく、肝の太さと同時に、気配りのできる細やかさも兼ね揃えている人物だった。

「今年は晴天が続いたみたいだから、ひょっとしたら待たせているかな?」

 アゼルはマントを外しながら聞いた。

 誰をとは言わない、それで伝わるからだ。

「……いや、今年はまだだな」

 そう返事をする宿の主人の表情が、一瞬曇ったのをアゼルは見逃さなかった。

 もしかしたら今年は早摘みに行かないという断りの知らせがあったのだろうか。

 だがそれならそれで喜ばしいことである。わざわざ危険な早摘みに手を出さなくても、安定した収入を確保できる目処が立ったということなのだから。

 不平を言わず、護衛士を信頼してくれる依頼人を失ったのは残念だが、アゼルとしてはそれ以上にあの男と家族の幸せを願っていた。早摘みに行かずに済むのならそれに越したことはない。

 依頼は他にもあるだろうし、主人がうまく差配してくれるだろう。

 下働きの女性が汚れ落とし用のお湯を持ってきてくれたのに礼を言って、アゼルは椅子に腰かけて革脚絆かわきゃはんの紐を弛めようとした。

 すると目の前で十歳前後の少女がこちらを見つめているのに気がついた。

 勝気そうな顔は雪焼けで黒く少年と間違いそうだが、髪を編んでいるので少女だろう。背が低いので幼く感じたが、実際はもう少し年長なのかもしれない。

 そういえば宿に入った時に、主人と対面するようにこの少女は立っていた。使いにでも来た近所の子だろうと気にしていなかったのだが、あらためて見ると誰かに似ている気がする。

 少女は何も言わずにじっとアゼルのことを見つめている。まるで珍しいものを初めて見たかのようだ。

 こちらから声を掛けようとすると、少女が口を開いた。

「あなたがアゼル――さんね? 優秀な護衛士の」

「優秀かどうかはわからないが、たしかに俺がアゼルだ。それで君は?」

「あたしはリンボク。おとう――父の名前はステノハよ」

 それを聞いて少女が誰に似ているのかがわかった。毎年の早摘みの雇い主、口数の少ない真面目なあの男の名前がステノハなのだ。

 不吉な予感がよぎる。宿の主人は今年の依頼はまだないと言った。しかしステノハの娘がわざわざアゼルのことを待っている。おそらく断りを伝えるためではない。律儀なあの男なら自分で来るはずだからだ――そう、来られるなら。

「親父さんはどうした?」

「……死んだわ。ケトランディを採ろうとして」

 予感は当たった。最悪の形で。



 少女――リンボクが語るには、今年ステノハは、例年よりも多くのケトランディを採取しようとしていたらしい。

 育ちざかりの子供が六人――アゼルたちが最初に依頼を受けた時より二人増えていた――もいるうえに、祖父の具合がいよいよもって悪くなっていた。

 そのため、より多くのケトランディを採るために、普通なら諦めるような場所へも行ったという。そして崖から落ちた。

 即死ではなかったため、亡くなる前に言葉を交わすことができたのは、家族にとっていくらかの慰めにはなった。しかしその後に待つ現実は厳しいものだった。

 一家は大黒柱を失ったばかりか、この冬を無事に越せる見通しすらないのだ。

 とにかくケトランディの天日干しはして、早摘みの用意だけはした。ステノハが死ぬ前に多めに採取していたおかげで、例年と同じぐらいの分量はあった。

 問題は早摘みに行く人間がいなくなったことである。



「――だから、今年はあたしが行くことにしたの」

 リンボクは真っ直ぐにアゼルの目を見てそう言った。

 それを聞いてもアゼルは驚かなかった。リンボクが父親の死を告げるためだけに、ここに来たとは思えなかったからである。しかしそれは出来ない相談だった。

「だからさっきから言っているだろう。おまえさんみたいな子供にはとてもじゃないが無理だと」

 宿の主人がリンボクを諭すように声を掛ける。

 どうやらアゼルが来る前から、このやりとりをしていたらしい。

「悪いことは言わない、早摘みに行く他の人間に売ったほうがいい。俺が紹介してやるし、買い叩かれないようちゃんと取り持つ」

「だから同じことを何度も言わせないで、それじゃあ全然足りないのよ。あたしたち家族が冬を越すためには自分で早摘みに行くしかないの」

 それはリンボクの言うとおりだろう。わざわざ危険を冒さずに大金が手に入るのなら、みんなそうしている。ここでケトランディを売ったとしても、春になって卸しに行くのよりも安い値段しかつかないはずだ。

「だからといって嬢ちゃんが早摘みだなんて、わざわざ死ににいくようなもんだ。そもそも冬の北嶺山脈越えがどのぐらい厳しいか知ってるのか?」

 横から口を挟んできたのは、隅の食卓で山羊乳酒を飲んでいる男だった。

 アゼルの見たことのない顔だったが、この時期にここにいるということは早摘み目当ての護衛士だろう。

 歳は三十前後、眉間から鼻の脇にかけて切り傷があるのが目につく。酒のせいか少し顔が赤いが、酔っている様子はない。

 一目見ただけで、場数を踏んでいることが感じられる男だった。

「そんなの知ってるわよ。雪がいっぱい積もって峠を越えるだけで大変だし、早摘み目当ての野盗が出るんでしょ」

「いいや知らないね。知っていたら、嬢ちゃんみたいな子供でも行けるなんて馬鹿げたことは、口にできないはずさ」

 リンボクは傷の男を睨みつける。

「おじさんはなに?」

「ん、俺か? 俺は馬鹿な餓鬼ガキの命を助けてやろうとしている、おせっかいな酔っ払いだよ」

「ふーん、護衛士なの?」

「ああ、そうだ。あらかじめ断っておくが、俺は嬢ちゃんの護衛なんてごめんだぜ」

「こっちだってお断りよ。頼む護衛士は決まっているんだから」

 リンボクがアゼルへと向き直る。

「残念だが、その兄ちゃんの返事も俺といっしょだぜ」

 それを聞いてリンボクが不安げな表情でアゼルを見つめた。しかしアゼルの答えは最初から決まっている。

「リンボク。その人の言うとおりだ、君には無理だ」

 リンボクは泣き出しそうな表情を隠すために俯き、体を強張らせてしばらくの間、黙り込んでいた。

「……なんで。あたしが子供だから?」

 アゼルがこたえないでいると、リンボクは目に涙を浮かべて顔をあげた。

「あたしは馬にも乗れるし、どんなに寒くたって平気! うちでもよく働くって褒められるし、我が儘を言ったこともない! あたしが早摘みに行かないとみんなが冬を越せないんだよ! それでもダメなの? ねえ、なんで!?」

「落ち着け、リンボク。お袋さんは何て言っているんだ?」

 アゼルがしゃがんでリンボクと目を合わせるようにして尋ねると、その視線からのがれるようにリンボクは目を逸らす。

「……お母さんは何も言ってない。でも、お父さんが言っていたの、亡くなる前に。全部、アゼルさんの言うとおりにしなさいって。あの人は信頼できるからって」

 アゼルは師匠が死んでから一人でステノハと会った時のことを思い出した。

 あの時ステノハはいっさいの迷いなく、今後もアゼルに護衛を頼むと言ってきた。それは死の直前になっても揺らぐことはなかったらしい。

 できればその期待に応えたかった。

「わかった、こうしよう。リンボクの代わりに早摘みに行ってくれる村人を雇うんだ。できれば若くて冬の峠越えの経験者がいい。今の時期なら仕事が欲しい人間はいるはずだ。それともう一人護衛士を雇って、俺を含めた三人で行く。ケトランディの売買は俺がする。もちろん手数料などは取らないし、帰りには売れそうな品物も買いつけてくる。親父さんの信頼にかけて決して君を裏切ったりはしない」

 おそらくこれが最善策だろう。

 わざわざ村人を雇うのは、積み荷を運ぶためにどうしても馬が余計に必要だからだ。

 ケトランディは濡れるとすぐ腐るため、乾燥状態を保持するために当て布でひとつずつくるんだあと、さらに防水用の油紙でそれを包まなくてはならない。ケトランディ自体はそれほどでもないが、布や油紙が重なることで思いのほかかさばり、結構な大きさの荷物になる。

 冬山越えはそれでなくても荷物が多い。

 防寒対策をほどこした野営用具に、大量の薪、吹雪に閉じ込められた時のための予備の保存食など。一頭の馬にそれらの荷物の他にケトランディを積めるだけの余裕はない。

 だからといって乗り手のいない荷馬は論外だった。敵に襲われた時に、荷馬まで御しながら戦うことなど不可能だからである。

 また護衛士を余計に雇うことも無理だった。荷運びの村人と護衛士とでは雇うための金額が違い過ぎた。

 それだけ護衛士という仕事は危険であり、その特殊性を買われ信用もされているということだった。

 早摘みの場合なら護衛士は二人、これが儲けと安全の釣り合いがとれる妥協点だった。

「それはいい考えだ。荷馬の乗り手なら心当たりがある、すぐにでも話をつけてやる」

「ああ、いい落としどころじゃねえのか。なんだったら俺がいっしょに行ってやるよ。事情を知っちまったしな」

 アゼルの提案に宿の主人と傷の男が賛同の声をあげる。

 しかし、肝心のリンボクが黙ったままだった。

「おいおい嬢ちゃん。いまの話で妥協しとけって、欲をかいて死んじまったら何にもならねえんだぞ」

 傷の男が困ったように息を吐いた。見た目はいかついが意外と面倒見がいいらしい。

 アゼルは膝をついてリンボクの目を覗きこむ。

「とりあえず一度帰ってお袋さんに相談してこい。俺はその間、他の依頼は受けずに待っている」

 それでようやくリンボクが頷きかけた時だ。

 いきなり扉が開いて馬屋番の少年が飛び込んできた。

「親方、大変です! すぐ来てください!」

「どうした!?」

 宿の主人がすぐに反応する。しかし少年は「馬が。早く、早く!」と、かすだけで要領を得ない。

 宿の主人は舌打ちすると、暖炉の脇に立てかけてあった剣を掴み、少年を追って外へと出ていく。

 傷の男も腰の後ろから、特徴的な湾曲の片刃の小剣を取り出しそれに続いた。

 アゼルも革脚絆の紐を結び直す。

 こんな街中まで狼などの獣が入り込んだとは思えない。まだ宵の口だから馬泥棒でもないだろう。

 旅の宿で何か問題がおこった時には、そこにいる者が全員で事にあたるという不文律がある。そこには貴賤も貧富もない。生き残るためになくてはならない決まりだった。

「リンボクはここから動くな」

 アゼルは腰に吊ってある長剣がいつでも抜ける状態であるのを確認すると、そう言い残して外へと走り出た。


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