ケトランディの絆
皐月
序章
アゼルが尾根から見下ろすと、山の斜面に降り積もった雪の中から、ところどころに黒い岩が頭を覗かせているのが見えた。
峠では見渡す限り雪に包まれていて白一色だったが、標高が下がったこのあたりでは積雪はまだそれほどでもない。
ここ数日は晴天が続き、柔らかい陽射しが降り注いでいる。
このぶんだとケトランディの天日干しも順調なことだろう。ひょっとしたらすでに荷造りが終わっているかもしれない。
例年通りに到着できるはずだが、待たせているかもしれなかった。
ケトランディ――それは
夏の終わりに薄紅色の花を咲かせるが、その可憐な美しさに目をとめる者はほとんどいない。しかし花弁が散り、種が落ちたあとのケトランディには、多くの人間が関心を寄せる。
種が落ちたケトランディを枯れる前に採取し、その根と葉を素早く天日干しにする。雨や雪で決して濡らさぬよう二ヶ月ほど干すと完成で、乾燥したケトランディは薬草として驚くほど高価な値段で取り引きされるのだ。
冬は雪に覆われ、厳しい環境で暮らさなくてはならないこの地域の人々にとって、それは貴重な収入源だった。
ただケトランディは人の手で栽培しようとしても上手く育たず、自生しているのを採取するしかない。だが岩跳び山羊でさえ近づかないような、険しい崖の中腹などに生えていることが多く、取るのには危険をともなった。
そうやって手に入れたケトランディを、ほとんどの人々は春の雪解けを待ってから中央平原の街へと出荷する。しかしなかには本格的な冬が来る前に出荷する者たちがいた。これを〈早摘み〉という。
実際には早く摘んでいるわけではなく、出荷を早めているだけなのだが、そう呼ばれて
さらに戻ってくる時に、北嶺地方では手に入りにくい品を買って帰れば、隊商がほとんど来ることのないこの地域では高く売れ、そこでも利益をだせた。
では何故、皆が早摘みをしないのかというと、得られる利益以上の危険があるからだった。
まず冬の北嶺山脈越えはそれだけで命の危険があった。
吹雪けば道をよく知る者でも遭難の危険があったし、何日も身動きがとれない場合もある。少ない獲物を求める狼の群れや、雪豹などの大型肉食獣の危険もあった。
なかでも注意が必要なのが早摘みを狙った野盗だった。
野盗も早摘みのことは知っている。
その野盗から身を護るために旅慣れた人間を雇うことになる。
それがアゼルのような護衛士だった。
アゼルは六年前から毎年、早摘みの護衛を引き受けている。最初の時にはまだ師匠は生きていて、アゼルは十六歳だった。
今思えば、あの頃の師匠はアゼルになるべく多くの経験をさせようと、わざといろいろな仕事を引き受けていた気がする。早摘みの護衛もそのひとつだったのだろう。
それが毎年の恒例になったのには理由がある。
そもそも早摘みをする者には何かしらの事情があった。
借金を抱えた者、今の生活から抜け出そうと一攫千金を狙う者、単に地道に働くのが馬鹿らしくなった者もいた。
若かりしアゼルはそんな人間を軽蔑していた。態度には出していなかったが、師匠にはわかったのだろう、静かに諭されたのをよく覚えている。
「望んで今の自分になった人間などほんの一握りだよ。ほとんどの者はやむにやまれぬ事情があって、それでも必死に生きているんだ」
それはアゼル自身のことを言われたようで胸が痛んだ。
アゼルたちの雇い主は三十前の男だった。
いかにも北嶺地方の人間らしく、背が低く、雪焼けした赤黒い肌をしていた。朴訥で口数は少なく、厳しい道中でも不平ひとつ言わなかった。
何故こんな真面目な男が早摘みを――アゼルはそう思った。
理由は帰路の、もうすぐ旅が終わるという最後の野営時にわかった。
それまで自分のことを話さなかった男が、ぽつぽつと語ったのだ。
男には妻と四人の子供、そして病弱な両親がいるという。もともと山羊の放牧ぐらいしか主要な産業のないこの地方は貧しく、そんななかでも男の家はひときわ貧しかった。したがって早摘みの収入がなくては生きていけなかったのだ。
旅が終わり別れの際に男が言った。来年も是非アゼルたちに護衛を頼みたいと。
師匠は、それは構わないが必ず差配屋を通すようにと告げた。
差配とは、護衛や用心棒、時には傭兵の仕事を斡旋することで、それを専門に扱う者を差配師と呼ぶ。差配屋は差配師がやっている店のことだった。
それを聞いて男は不思議そうに尋ねた。直接依頼をすれば仲介料がいらない分、あなたたちに余計に報酬を渡すことができるのにと。
自分の儲けにせず、アゼルたちの報酬の上乗せを考えているあたりに、男の人柄が感じられた。
師匠は穏やかに笑いながら説明をした。
「あなたとわたしたちが、ずっとこの関係を続けられるならばそれでいいでしょう。しかし、あなたが早摘みをやめるかもしれないし、私たちが護衛士をやめるかもしれない。その時になって改めて差配屋を通そうとしても良い顔はしないでしょう。あなたは護衛士をつけてもらえず、私たちは仕事にあぶれるかもしれない。先のことを考えずに、目先の利益を追ってはいけない」
男は自分の浅慮で恥ずかしいことを言ってしまったとわかったらしい。日に焼けた黒い顔を赤くしながら謝った。
師匠はそんな男に優しく言葉をかける。
「あなたがわたしたちを高く買ってくれたのはわかりました。ですから来年も必ずここに来ます。そして他の人からの依頼は受けずに待っていますから、あなたさえよければ指名して下さい」
そしてその約束は師匠が死んだ二年前以降も守られている。
二年前、アゼルは一人でこの地を訪れ、男と会った時に言った。
「あなたは師匠のことを信頼して依頼をしていたはずです。ですから俺では頼りないと思ったら遠慮なく他をあたってください」
アゼルはおそらく男が他に依頼をするか、少なくとも迷いはするだろうと思っていた。しかし男はいっさいの迷いなくアゼルを雇った。これにはアゼルのほうが驚き、もう少し考えたほうがいいと心配したほどだった。
その年からは他の護衛士と組んで男の依頼を遂行してきた。
そして今年もこの北嶺の地に来た。
アゼルが変わらぬ景色を眺めていると、騎乗している大型の長毛馬が「ぶるるっ」と鳴いた。
まるで「いつまでこうしている」と催促しているようだった。
アゼルは思わず微笑む。
この馬は貸馬屋で借りたものだ。
中央平原だけで仕事をするなら自分の馬を持ってもいいが、アゼルのようにどこへでも行く護衛士は借り馬に乗ることが多い。
乾燥した砂漠地帯なら
貸馬屋も商売なので酷い馬はおいていないが、どうしても当たり外れはある。だが今回借りたこの馬は間違いなく当たりだった。体力があって雪の中でも足取りはしっかりしているし、賢くて命令も素直にきいてくれる。
アゼルは「わかったよ」と言いながら長毛馬の首を叩くと、腹を軽く蹴って麓へと向かって進みだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます